「保育園落ちた日本死ね」というブログの文章が不思議な反響を呼んでいる(こちら)。

 このテキストが、最初にネット上で評判になったのは、2月半ばのことだ。

 それが、あれよあれよという間にネットの外の世界に波及し、国会の質疑で引用される展開になった。さらに、新聞紙上で議論を呼び、署名運動を誘発し、最終的には国会前でのデモを主導する一大政治的ムーブメントに発展しつつ現在に至っている。

 私がはじめてこのショートテキストを見かけたのは、ツイッターのタイムラインに流れてきた誰かの書き込みから辿り着いたリンク先だったと思う。

 一読して、すっかり感心した。
 内容もさることながら、21世紀の口語文のテンプレートとして見事な完成度を備えていると思ったからだ。

 インターネットの世界には、時おり、この種の話し言葉で書かれた汎用性の高い型見本が登場する。

 最も有名な例は、いわゆる「吉野家コピペ」だろう。これは名作だ。はじめて名前を知った人は、ぜひ「吉野家コピペ」で検索してみてほしい。原典の吉野家バージョンのほかに、語り手の居場所を様々に変化させた多様なバリエーションを一望することができるはずだ。

 個人的には、吉野家コピペの改変作の中には、そのまま寄席にかけても通用する作品がいくつかあると思っている。それほど、集合知の中で練り上げられた文章には、あなどりがたい説得力がある。

 より不穏当な文案として一時期猖獗をきわめた「阪神大震災には笑った」のような例もある。これなどは、読んでみればわかるが、決して愉快な文例ではない。このほか、コピペ文が、必ずしも素敵な読後感を提供してくれるものばかりでないことは、お知らせしておかなければならない。が、ともあれ、インターネット上のテキスト共有文化の中に、「コピペ」という、和歌における「本歌取り」に似た創作の作法があって、それを楽しんでいる有象無象の中に、時に、驚くべき才能の持ち主がいることは、この際、記憶しておいて損の無い事実だ。興味のある向きは、お気に入りの作品を掘り出しに行ってみるのも一興だと思う。

 「保育園落ちた日本死ね」を、私は、日本語の語り芸の伝統を踏まえている点で、落語や浄瑠璃に通じるものと評価しているのだが、そこまで持ち上げなくても、最新の日本語ラップの雛形として十分に可能性を持った作品だということは言えると思っている。

 無論、反発もある。
 まず、使われている言葉の粗暴さを受け容れない人々がいる。

「死ね」
「クソ」
「ふざけんな」
「まじでいい加減にしろ」

 といったあたりの言い回しは、やはり、どう見ても上品な語り口とは言えない。親しくもない間柄の人間に、いきなり無礼な言葉を使われることに憤る人々は、当然、いる。まあ、仕方のないことだ。

 「日本」が攻撃の対象にされていることに反発を覚える人たちもいる。

「どうして他責的になるのか」
「日本を殺害しようってことは、こいつは日本人じゃないんだろうな」 「要するに反日のサヨクが保育園をネタに騒いでるってことだろ」

 と、であるから、「保育園落ちた日本死ね」は、評判になった瞬間から、標的にもなっていた。

 国会で取り上げられ、署名運動のネタになり、デモのスローガンとして採用されるようになると、今度は、政治的な非難が浴びせられるようになった。

 まあ、ある意味で政治利用されたわけだから、反対側のサイドから政治的な反発が寄せられることもまた、お約束の展開としては必然なのであろう。

 とにかく事実として重要なのは、保育園の審査に落ちた一人の母親が自分のブログ上に書き込んだ個人的な愚痴に過ぎないものが、前例の無い大きな反響を招いていることだ。

 なぜだろう。
 どうして、「保育園落ちた日本死ね」は、これほどまでに巨大な反応を惹起したのだろうか。

 その理由についてすべてを網羅できるとは思わないが、ここでは、さしあたって、二つの点を指摘しておきたい。

 ひとつは、「文体」の力。もうひとつは、「日本」という言葉がもたらす反応だ。
 まず、「文体」について説明する。

 「文体」と言うよりは、「口調」と言った方が適切なのかもしれない。
 とにかく、重要なポイントは、「保育園落ちた日本死ね」が、アジテーション(あるいは檄文)として非常に秀逸な文章であるということだ。

 一見すると、「日本死ね」(以下、「保育園落ちた日本死ね」は、単に「日本死ね」と表記します。くだくだしいので)は、単なる思いつきの罵倒に見える。

 実際、《「保育園落ちた日本死ね」ブログをほめるな》と題して、「日本死ね」を腐している記事もある(こちらなど)。

 記事中で、筆者は、「日本死ね」を

《この文章を読んでみた。同情はする。しかし物書きの端くれである私から見ると幼稚な文章だ。「死ね」「子ども生むのなんかいねーよ」「税金使ってんじゃねーよ」という感情的な言葉の羅列だ。どこに共感すればいいのだろう。そして何も学ぶものがない。もちろんブログに個人的な感情を吐露するのは表現の自由であり、変に騒ぐ周囲の人々が問題だ。》

 というふうに分析している。

 たしかに、「感情的な言葉の羅列」である旨の指摘はその通りだし、「幼稚」な文章であるという見方もおおむね当たっているとは思う。

 とはいえ、それでもなお、というのか、そうであるからこそ、「日本死ね」は、名文なのだ。

 なぜなら、「日本死ね」は、ほぼ「感情的な言葉の羅列」だけで、幼い子供を持つ親が置かれている現状の苦悩を見事に説明し切っているからだ。これは、なかなかできることではない。

 「論理」の言葉で説明することは誰にでもできる。
 が、感情の言葉で他人を説得することは、文章の上手な人間でないとできない仕事だ。

 その意味で、「日本死ね」は、一見、乱雑に並べられた言葉の裏に、非常に高度な技巧が張り巡らされている、巧緻な文章なのである。

 もう少し詳しく説明する。

 文章は、原則として、論理的なものだ。
 書き手と読み手の間に確実に共有されているものは「論理」のほかに何も無い。とすれば、書き手から読み手に情報を運搬するためには、その乗り物として「論理」を利用するほかにどうしようもない。だから、普通に書かれた普通の文章は、余儀なく論理的になる。当たり前の話だ。

 その意味からすると、論理的でない文章は、「悪文」ということになる。

 書き手の意図と、読み手による読解にズレがあったら、それは正確な文章とは言えないし、読む側の気分次第でどうにでも読めてしまう文章もまた、正しい情報を伝えている文章とは言えない。

 とは言うものの、われわれが文章から読み取っているのは、実は、論理だけではない。

 論理とは別に、われわれは感情を持っている。
 というよりも、人間の思考のかなりの部分はそもそも感情と不可分なものだ。

 ただ、私たちは、不特定多数の人間に何かを伝える段になると、感情の部分については、どうせ正確には伝わらないものとして、あらかじめあきらめている。そのあきらめた結果の言葉が、文章だと言えば言える。つまり、われわれは、もっぱら論理的な言語運用術をもって文章作法と考えることにしているわけだ。

 感情は、多分に個人的なものだ。だから、論理と違って、簡単には他人と共有できない。それが前提だ。

 が、それでもわれわれは、感情を伝えたいという願いを持っている。
 感情を共有したいという希望を抱いている。

 だから、時に、われわれは感情的な言葉をやりとりせねばならなくなる。
 話し言葉は、文章の言葉と違って、感情の成分をより多く含んでいる。

 それゆえ、話し言葉は、うっかりすると「感情的な言葉の羅列」に終始することになる。
 が、そういう言葉でないと伝えられないものがあることもまた事実で、だから、われわれは、時に、話しかける口調で書かれる会話体の文章を駆使して、なんとか感情を伝えようとしている。

 罵詈雑言は憎しみを伝える。叫び声は悲痛さや怒りを伝える。いずれにせよ、最も切実な感情は、感情の言葉でしか表現できない。

 ただ、感情の言葉は、人それぞれで解釈も変われば思い入れも違うものなので、書き手から読み手に、正確に伝わるとは限らない。ブレることもあれば、不当に増幅することもある。途中で消えてしまう場合もある。

 四角い箱のような明快な形を持つ論理の言葉が、積み上げて壁を築いたり、敷き詰めて道を作ることができるのに対して、不定形で柔らかい感情の言葉は、単体として放り投げるほかにどうしようもない。

 だからこそ、感情の言葉で他人に何かを伝えるためには、より高度な技巧が要求されるのである。

 論理的な文章は、訓練次第で誰にでも書くことができる。
 ところが、感情の言葉で人を動かす文章は、言葉のリズムと余韻に精通した人間にしか書けない。

 その意味で、「日本死ね」は、あれは、達人の書いた名文なのである。

 もうひとつの、「日本」の問題についても簡単に説明しておく。

 「日本死ね」が、巨大な反響にさらされることになった理由のかなりの部分は、あの文章が「日本」という言葉を連呼していたことに関連しているはずだ。

 最も単純な反応として、「日本死ね」の書き手を「反日」と見なす人々が大量に発生した。

「日本死ねって、日本人の発想じゃないぞ」
「死ねと罵倒する国にしがみついてないで、さっさと出て行けばいいんじゃないかな」
「こいつ、望み通りに日本が死んだら、どこの国で暮らすつもりなんだ?」

 と、彼らは、書き手を攻撃しにかかっていた。
 おそらく、愛国者を自認する人々にとって、自分たちの国に対して、名指しで「死ね」という言葉を浴びせられることは、何にも増して腹立たしいことだったのであろう。

 さて、「日本死ね」の中に出てくる「日本」とは、具体的には何のことなのだろう。
 文脈から考えて「日本の政府」「公権力」「行政」あるいは、「厚生労働省」あたりだろうか。

 「死ね」とは、どういう意味だろうか。

 文字通りの「死ね」が、無生物を相手には意味をなさない動詞であることから考えれば、「政権の打倒」ぐらいだろうか。むしろ、より漠然と、「自分に保育園を供給できない日本の現状の社会」の「変革」を求めているということなのだろうか。

 いずれにせよ、「日本死ね」の書き手が指差している日本は、国家としての「日本」そのものではない。
 おそらく、彼女は、自分自身を含めた、日本の社会、コミュニティーないしは、同時代の状況を総称して「日本」という言葉を使っている。
 とすれば、彼女を「反日」に分類するのはちょっと難しい。

 というよりも、日本人に対して「反日」という言葉が使われるようになったこと自体、わりと最近のことだ。

 そもそも、20世紀までは、「反日」というのは、国家としての「日本」を敵国と見なし、その低落なり壊滅なりを画策していると考えられている一部の国や組織を指していたはずの言葉で、日本に住んでいる日本人には適用されなかった用語だ。

 政府の方針に同調的でなかったり、現政権に反対の立場を取る人間は、単に「反体制」と呼ばれていた。

 それが、昨今では、現政権の施策に批判的な態度を表明している人々にいきなり「反日」という呼称を当てはめにかかる用語法がすっかり一般化している。

 ということはつまり、日本人に対して「反日」という言葉を使う彼らが自分たちの頭の中で想定している「日本」なるものは、まっすぐにそのまま「現体制」「与党」「安倍政権」を意味しているのであろうか。だとすると、その彼らの言葉の使い方は、国家の方針に同調しない自国民に対して「非国民」というタグを貼り付けていた人々とあまりにも似すぎているのではなかろうか。

 「日本死ね」の主張を「他責的」だと言って論難するツイートもいくつか見かけたが、そういう見方をしている人たちの言う「日本」も、やはり、どこかおかしい。

 彼らは、「日本死ね」の書き手にとって、「日本」が、徹頭徹尾「他者」であるという前提でものを言っている。
 「日本死ね」を、日本とは無縁な人間が、日本を攻撃している文章であると見なしていると言い直しても良い。

 いずれにせよ、彼らは、「日本死ね」の筆者について、「日本死ねと言っているんだから日本のことが大嫌いな人間であるに違いない」という見方をしている。

 しかし、ちょっと考えてみればわかることだが、実際のところ、「日本」は、日本国民にとって、自分自身を含む集合だ。であるからして、「日本」は、「日本人」である私たちにとって、「われわれの社会」という意味でもあれば、「自分の住んでいるコミュニティー」ということでもある。

 とすれば、「日本死ね」を、そのまま共同体の死滅や、国家の滅亡を願う叫びであると解釈する読解の仕方は、あまりにも貧しいと申し上げざるを得ない。

 普通に読み取れば、ブログ主は、幼い子供を持つ親にとって暮らしやすく、働きやすい社会の実現を願っているに過ぎないし、その気持は、自国への憎しみよりは、どちらかといえば、愛情に根ざしたものだ。

 日本を死に至らしめるのは、そんなに難しい話ではない。
 出産適齢期の男女が、子供を持ちたいと思えない社会を作れば、日本は、50年ほどで、きれいに死滅するはずだ。
 あるいは、日本は、既に、彼女の期待にこたえているのかもしれない。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

“日本”が好きな人にも、嫌いな人にも
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 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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