今年1月下旬、米メディアの報道が世界的な株安や米大統領選に集中する中で、とあるニュースに目がとまった。世界最高峰の大学の一つ、米ハーバード大が入試制度を抜本的に改革するという。報道によれば、当たり前のように実施されている学力試験を、必須ではなく選択制にするのだとか。あのハーバード大が学力試験をやめる――というニュースは、米国民に驚きを持って迎えられた。

 日本でも「ゆとり教育」という名の下に、過度な成績至上主義からの脱却を図る動きが起きたが、学力低下を背景に学習指導要領は段階的に揺り戻し改正が行われている。なぜハーバード大学は入試制度の改革に乗り出したのか。改革の先頭に立つ同大学大学院のリチャード・ワイスボード専任講師に話を聞いた。

ハーバードの入試制度を変えようとしていると聞く。どのように変えるつもりなのか。

<b>リチャード・ワイスボード・ハーバード大学大学院専任講師</b><br/>専門は人間開発・心理学で、最近は幼少期における子供の脆弱性やレジリエンス、道徳面の発達、個々の習熟度の差、子供のための効率的な教育サービスなどの研究に注力している。
リチャード・ワイスボード・ハーバード大学大学院専任講師
専門は人間開発・心理学で、最近は幼少期における子供の脆弱性やレジリエンス、道徳面の発達、個々の習熟度の差、子供のための効率的な教育サービスなどの研究に注力している。

リチャード・ワイスボード氏(以下、ワイスボード):これまで大学の入試制度は学力テストの成績が判断基準の中心になっていたが、今後はそれ以外、例えば地域や家庭における活動も同等の判断基準にしていきたいと考えている。

 米国の場合、所得の高い家庭や中程度の家庭で育った学生は優秀な大学に入ろうと、受験勉強で多大なストレスやプレッシャーを感じている。他方、低所得の家庭の学生は高校から帰ると家事をしたり、アルバイトをして家計を助けたり、兄弟の面倒を見たりと、経済的にも時間的にも勉強しづらい環境にある。

 もっとも、そういう環境にあるからといって、低所得な家庭の学生が劣っているわけでは決してない。グループの中で活動する能力や問題を自分で解決していく能力、相手の立場に立ってものを考える能力など、家事労働やコミュニティへの参加といった社会経験を通して身につけた優れた“知識”を持っている場合が少なくない。

 今後はテストを通して見える知識だけでなく、そういった様々な知識を評価の対象にしていくべきだ。今回考えている新しい入試制度は、一部の貧困層の学生だけに適応されるものではなく、すべての受験生を対象にしている。

ボランティアや家の手伝いをどう評価するのか

ハーバード大の入試を受けるには、高校の成績やSAT (大学進学適性試験)、高校教師の推薦状、エッセイの提出などが必要だ。このうちの何が変わるのか。

ワイスボード:明確なことはまだ何も決まっていないが、学部によってはSATを選択制にしていきたいと考えている。

 ハーバード大学が学力試験を完全に選択制にするかのように報道されているが、実際は学部や学科によって選択制にしていきたいということであって、すべての学部で選択制にするわけではない。理系などはやはり学力試験が必要だろう。

 2~3年後に改革を実現できれば、というスケジュール感で進めている。今の高校一年生が受験する頃には制度が変わっているかもしれない。よりよい入試制度にするように、外部の様々な意見に慎重に耳を傾けているところだ。

家庭での貢献やボランティアへの参加を今以上に評価するという話だが、どのように評価するのか?

ワイスボード:どのようなコミュニティに参加して何をしたのか、エッセイを出してもらう。その際に、その学生を受け入れたコミュニティの責任者にも、リポートを書いてもらうつもりだ。双方向の声で評価したいと考えている。

 家庭での貢献も同様にレポート形式を取る。放課後に習い事や塾に通うことは悪いことではないが、そういうことができる環境にない学生の放課後の苦労も評価すべき。その方が平等だろう。

 嘘の報告もあり得るが、入試審査を手がけている執行部は、本当に取り組んだ内容を書いているレポートと、周囲の大人に指導されて書いたレポートは見分けがつくと語っている。

卒業後、若者たちは熾烈な競争社会に入っていくが…。

ワイスボード:それは当然のことだ。我々は入試を一部改正してより平等なものにしたいというだけで、ひとたび入学すれば、自分が学ぶ個々の教科で手抜きが許されるわけではない。卒業する際には、学んだフィールドについて十分な知識がついているはずだ。

「まず自分が成功してから、他人のことを考える」

どういう経緯でこの改革がスタートしたのか。

ワイスボード:2013~14年にかけて、我々の研究チームは全米33の中学、高校を選び、そこに通う中高生を対象に学校と教育における価値観についてアンケート調査を実施した。人数は延べ1万人で、この国のあらゆる人種、カルチャーを網羅している。

 その結果は驚くべきもので、およそ8割の学生が自分の人生で価値あることは成功を収めることだと述べ、助け合いの精神や平等の精神を自己実現よりも高く評価した学生は2割ほどしかいなかった。「自分が幸せと感じない人生には何の意味もない。まず自分の人生を満ち足りたものにしてから他人の幸せにも力を注ぐ」というようなコメントを添えた学生も何人もいたうえに、30%の中高生が、かつていじめの被害に遭ったことがあると答えた。

 結果を深刻に捉えた我々は、複数の大学の入試審査執行部、人格教育のエキスパート、カウンセラー、高校の教員たちを集め、この結果についてディスカッションを繰り返し、自分たちの所属する大学にレポートを提出した。今回の入試システム改正の動きは、このアンケート結果に端を発している。

 ハーバード大はまだ検討している最中だが、既に我々の提案を受け入れて、入試制度の改正に踏み切った学校もある。

2014年に、ペンシルベニア大学の19歳の学生が成績を苦にして自殺するという事件があった。成功しなければならない、という学生たちの強迫観念はどこから来ている?

ワイスボード:我々の調査では、学生の親の81%が他人への気遣いや人助けの重要性を家で子供に語っている。一方で、学生たちに「親があなた方に望んでいるものは何か」と聞いたところ、「他者への思いやり」と答えた学生は19%、「幸せになること」が21%、「よい成績」が54%だった。

ワイスボード:学生ばかりではない。同時期に300の中学と高校の教師に対して実施したアンケート調査では、「親は子供の何を最も評価しているか」という質問に対して、8割の教師が学校の成績と答えている。親は子供が価値観を形作るうえで極めて重要な存在。本音と建て前が一致していないことは、子供の人格形成に決定的な影響を与える。誰も自分が問題の一端であると自覚していない。

改革への反応はとてもポジティブだ

改めて、これまでの入試制度の問題は何か。今回の入試改革に何を期待しているか。

ワイスボード:私は3人の子供の父親だ。3人とも大学受験を経験したが、私の子供を含め多くの受験生が口にしているのは、あまりにも入試がスコア重視で、精神的なバランスや倫理的な側面を無視しているということだ。

 私は親や大学、高校が一丸となって入試制度を見直していく必要があると考えている。今回の改革案に対する全体的な反応はとてもポジティブで、入試審査を担当する職員ばかりではなく、カウンセラーや受験生の親からも支持されている。

 あらゆる感情を尊重しつつも、破壊的な衝動をコントロールする術を子供たちに教える必要がある。そして1回、2回の単発ではなく、継続的にコミュニティに参加して相互扶助の精神を学ぶ機会が子供たちには必要だ。

 他人のことを自分の責任のように感じて気遣う気持ちを持つ子供ほど、大人になり社会的に自己実現を果たし、なおかつ精神的にも満たされるというデータがある。今回の改革を通して、知的で共生的、健康的な社会を作りあげることのできる大人を育てたい。

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