舛添要一東京都知事の金銭問題は、徐々に範囲を拡大しつつある。
 例によって

「政治とカネ」

 という見出しで処理され

「説明責任」

 という錦の御旗が振られる中、記者会見が繰り返される流れだ。
 会見の出来次第では、またしても知事の辞任が取り沙汰され、辞任が決まれば決まったで今度は新たな知事を選ぶための選挙が待っているわけだ。

 率直に言って、うんざりだ。
 「政治とカネ」にも「説明責任」にも「辞任&再選挙」にも、万事遺漏なく、隅々までうんざりさせていただいている。

 ひとつずつ説明する。
 まず、「政治とカネ」だ。

 これについては、今年の1月に書いた当欄のテキストの中で比較的詳しく書いているので、面倒でなければ再読してほしい(こちら)。

 リンク先の原稿で述べている通り、この10年ほど、「政治とカネ」という、このどうにも粗雑なタグが猛威を振るう流れの中で、わが国のメディアは、毎度毎度のモグラ叩き報道を繰り返している。おかげで、夏祭りで支持者にうちわを配ったみたいなケアレスミスと、贈収賄に相当する巨額の現金のやりとりが、同じマナイタの上で処理されることが当たり前になっている。

 「政治とカネ」報道のもたらす脅迫は、政治家の心から、独自の才覚で資金を集める意欲と情熱を奪い、結果として、政党交付金を差配する権益を握る党中枢の発言力を野放図に拡大させる事態を招いている。こうして、まず党内民主主義が死に、政治家はエアポンプからの酸素供給を断たれた金魚が水面で口をパクパクさせるみたいに、党の言いなりになっている。

 個人的に、舛添さんの事案については、罪の大きさに見合った、適切な制裁が課される結末を希望している。
 というのも、この種の政治とカネがらみの報道では、どうかすると

「巨額であるがゆえに用途や実態のわかりにくい疑獄案件」

 よりも、

「庶民にも容易に見当のつくセコいごまかしやチョロまかし」

 の方を強い調子で断罪されがちだからだ。

 特にマスメディアがネット上の匿名クレーマーの集団行動に影響を受けることが当たり前になっているこの10年ほどは、

「大きな罪よりわかりやすい失態」
「巨大な悪よりセコいズル」
「複雑な犯行よりキャッチーなフレーズ」

 に重心を置くことが、ニュース番組の視聴率を上昇させ、雑誌の部数を増し、ニュースサイトのページビューを稼ぐための必須の編集方針になっている。

 実際、一バラエティータレントとバンドマンの間に勃発したひと夏の婚外交渉事案に過ぎなかったはずの出来事が、最初の会見における女性タレントの小面憎い振る舞い方と、「センテンススプリング」という中学二年英語を駆使したドキャッチーな煽りゆえに、上半期最大の吊し上げシリーズに発展した一方で、明るみに出てきた金額だけでも二億円を超える巨大なスキャンダルである五輪招致をめぐる資金疑惑は、背景の読み取りにくさと尻尾のつかまえにくさゆえにベタ記事扱いの冷遇に甘んじているわけで、つまるところ、メディアを介したライブ進行の制裁エンターテインメントの消費者たるわれら21世紀の日本人は、扱われている事件の社会的影響力の大きさや、犯罪としての重大さよりも、生中継の画面の中に浮かび上がる「ドヤ顔」の憎らしさの方を重視する人々に成り果ててしまっている。

 次に、「説明責任」だが、これについても私は、年を追うごとにバカな言葉になってきていると考えている。

 記憶では「説明責任」は、「アカウンタビリティ」という英語の訳語として登場した言葉だ。

 どうして「アカウンタビリティ」という英語が使われるようになったのかというと、その言葉に相当する概念が、われわれが普通に使っている日本語の中に存在していなかったからだ。

 こういう例はたくさんある。
 たとえば「ミサ」という用語に相当する言葉は、古くからの日本語の中には無い。

 というのも、キリスト教自体が影も形もなかった時代の日本に、キリスト教の用語である「ミサ」が存在するはずもないわけで、だから、こういう言葉は、時代が下ってキリスト教が普及するようになっても、あえて訳語を当てられることもなく「ミサ」のまま通用していたりする。多くのスポーツ用語や音楽用語も同様だ。バットやグローブのような用具や、パスやコーナーキックやオフサイドのような、ルール、戦術、技術に関する言葉も、はじめから当該の競技が普及していない以上、用語が使われる道理もない。当たり前の話だ。

 この20年ほどの間にしきりに使われるようになった「アカウンタビリティ」「コンプライアンス」「ガバナンス」「リスクコミュニケーション」といった言葉も、バットやグローブと同じように、そもそも、それらに相当する概念がわたくしども日本人の自然な発想の中に存在していなかったからこそ輸入されたタイプの言葉だ。

 この種のカタカナを使うと

「半可インテリが気取って生煮えの英語使ってんじゃねえよ」
「中味の無い人間に限って外来語を振り回しやがる」
「説明責任と言えば良いところで、あえてアカウンタビリティだとかいう言葉を使いたがる人間は要するにニセモノだってことだ」

 みたいな反応を示す人が少なくない。
 もちろん、外来語の知識をひけらかしたかったり、自分が国際通であることをアピールしたくてカタカナ用語を多用する人間はたくさんいるし、そういう人々が日本を害していることは否定しない。

 が、それはそれとして、カタカナでなければ説明できない理念や考え方があることも事実ではあるのだ。
 アカウンタビリティーのような、われら日本人が自分たちの身体性の中にもともと備えていなかった概念は「説明責任」のような訳語の字面から類推される意味とはかなりかけ離れている。正確な意味をとらえるためには、やはり、最初の段階で、英語として語られている本来の用例にさかのぼって理解しないといけない。そうでないと、語義を血肉化することができない。

 アカウンタビリティのような言葉につい「訳語が誤解の温床になる」というお話の筋立て自体、実は、“lost in translation”という英語の言い回しが元ネタになっている。

 最近の例では、「ヘイトスピーチ」という英語に「憎悪表現」と訳語を当てはめたことが、各方面で盛大な誤解を撒き散らしている。

 もっとも、英語の「ヘイトスピーチ」にしたところで、完全に定義が定まった用語ではないが、そうはいっても、主要な意味あいは、ウィキペディアの冒頭にある

「ヘイトスピーチ(英: hate speech)とは人種、国籍、宗教、性的指向、性別、障害などに基づいて個人または集団を攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」

 ぐらいのところに収束しつつある。

 どっちにしても、「ヘイトスピーチ」は単なる「悪口」とは違う。
 ところが、「憎悪表現」という訳語がその字面から類推させる語義は、「悪口一般」「罵詈雑言」という、非常に範囲の広いものになる。

 それゆえ、「憎悪表現」という無思慮な訳語は、特定の民族を攻撃・排除するデモに参加しているメンバーが

「オレたちの街宣活動にケチをつけるおまえたちの言い方こそが日本人に対するヘイトスピーチじゃないか」

 みたいな反撃をしてくる時の根拠になっていたりもすれば、「おまえのかあちゃんデベソ」レベルの子供の喧嘩言葉をヘイトスピーチに分類させる結果を生み出してもいる。

 こういうバカな事態を防ぐためには、たとえば「ヘイトスピーチ」のような用語は、カタカナのままで通用させるか、でなければ「差別煽動」「差別的憎悪表現」あたりの訳語を使用した方が良い。

 話がズレた。元に戻す。
 「説明責任」が、英語の「アカウンタビリティ」のニュアンスを安易に簡略化しすぎているのではないかという疑念は、以前からたびたび指摘されていた。

 そもそも、アカウンタビリティは、このページや、このページにあるように、「説明責任」という4文字の漢字で安易に置き換えて良い概念ではない。

「自分の立場に付与されている責務を果たすこと」

 と説明するのか、

「常に外に向かって説明できるように行動すること」

 というふうに解釈するのか、いずれであれ、文脈に沿ってもう少し慎重な運用を考えねばならないはずだ。

 ところが、現状では、「説明責任」は、商業メディアがメディアスクラムを組むことを正当化するための言葉になってしまっている。

 個人的には、メディアが特定の人間や組織に対して「説明責任」を求める際には、その適用対象と範囲をあらかじめ明確にし、できれば、自分たちの側の取材の正当性と報道責任を先方に説明すべきだと考えている。

 これをしないと「説明責任」は、単なるメディアによる報道リンチを促すだけの言葉になってしまう。もっとも、先日の舛添さんの会見を見る限り、彼が知事としてのアカウンタビリティを果たしているとは言いがたい。なにより細かい質問についてきちんと説明できていないし、誠実に回答してさえいない。

 ただ、これまでに明るみにでてきているいくつかの資金の使い方について言うなら、私は、それらが辞任に値するような話だとは思っていない。
 舛添さんが、きちんと説明することができれば、少なくともクビはつながるはずだ。

 都民の全員が納得できる釈明ができないのだとしても、公式に謝罪をして、減俸なり降格(まあ、知事のために用意されるべき適切な降格ポストは存在しないのだろうが)なりといった処罰を甘んじて受け入れれば、それはそれでなんとか穏便に済ませられるかもしれない。

 私の言い方は、あるいは、公平さを欠いているかもしれない。
 私は、舛添都知事の非を認めていながら、知事に辞任してほしくないと思っている。
 この態度は、矛盾していると思われても仕方がない。
 なので、ここで、私が舛添さんに対して辞任を求めない理由を明らかにしておく。

 私が、舛添さんの留任を希望するのは、また選挙をやるのはごめんだと考えているからだ。
 次に選挙があったら、どうせ、舛添さんよりさらにタチの悪い候補者が立候補することになる。

 しかも、私の予測では、その知名度が高いばかりで、まったく共感できないタイプの何人かの候補者の中で、一番イヤな感じの人間が当選することになる。都知事選というのは、昔からそういう枠組みの選挙だったし、この次はもっと露骨にバカな選挙になる。私は、そういう近未来はたくさんなのだ。

 正直な感想として好きか嫌いかを述べるなら、私は、舛添さんの人柄を好ましく思っていない。
 ついでに言えば、幾人か、私の知っている範囲の人間の中に舛添さんと直接にやりとりをしたことのある人がいるのだが、その中で彼に対して好意的な感想を述べていた人間は一人もいない。

 つまり、あの人は多くの人にとって「いやなヤツ」なのだと思う。
  会見の端々にも、その感触はあらわれている。
 だからこそ、メディアは、その「いやなヤツ」を断罪する会見に熱中している。
 厄介な事態だと思う。

 前の都知事だった猪瀬さんについて、私が知事としての資質を見限ったのは、例の5000万円について、まったくスジの通った説明をできなかったのみならず、公衆の面前で見ているこっちが赤面せねばならないほどあからさまにうろたえた姿を晒してしまったからだった。

 資金の出どころや処理の仕方がどうであったのかという事実はともかくとして、あんなに小心な人に都政の采配を握らせておくわけにはいかないと、会見を見た多くの都民がそう思ってしまったことが、彼にとっては致命的な失点だったということだ。

 その点から言えば、舛添さんは、ニヤニヤしながら、余裕しゃくしゃくの表情で、まったく動揺を外に見せることなく、堂々と説明していた。ろくな根拠がないにもかかわらず、だ。

 ということは、豪胆さの点では、明らかに舛添さんの方が優っている。
 しかしながら、いずれが愛すべき人間であるのかどうかというお話になると、もしかしたら、記者団に追及されてオタオタしてうまくウソをつき通すことができなかった猪瀬さんの方が、多くの票を集めるかもしれない。少なくとも、いけしゃあしゃあと理屈にもならない弁明を並べ立てた舛添さんの厚顔さは、大きな共感を集めないはずだ。

 で、ここから先はわりとわかりにくい話なのだが、私は、共感とも支持とも別なところで、舛添さんが職責を全うすることを願っている。

 なんというのか、舛添さんには、他人に嫌われることをなんとも思っていないところがあって、個人的には、そこのところに困難な役割を担う政治家としての資質が宿っている気がしているからだ。

 舛添さんは、2014年の11月に、2020年の東京五輪のために新設する予定だった都内3会場の建設を中止することを正式に表明している。この見直しに伴う整備費の削減効果は2千億円規模に及ぶと言われている。

 このほか、舛添知事は、東京五輪の負担金やスタジアムの建設に関して、何度となくJOCと対立し、都民の立場から、五輪の肥大化に水をかけている。

 なので、自民党の中枢の人々には大変に嫌われている。
 そうでなくても、舛添さんは、自民党が2009年の総選挙で大敗して野党になった時、真っ先に党を見捨てて出て行った人で、そういう意味でも、昔からの党員には信用されていない。
 私自身も、人間として舛添さんを信頼しているのかと言うと、そういう気持ちは持っていない。

 ただ、舛添さんは、誰に嫌われようとも、昨日まで仲間だった人間に非難されようとも、常にその場その場での最適解をクールに打ち出せる政治家ではある。私はその意味で彼を買っている。

 というよりも、もう少しはっきり言えば、舛添さんが知事の任を離れて、より自民党と良好な関係を持つことになるに違いない新しい都知事が就任したら、その新しい都知事は、JOCや森喜朗氏があれこれと持ち込んでくる虫の良い要求を拒めないに決まっているわけで、私はなによりもそのことを懸念しているのである。

 自分ながら、あんまりフェアな擁護ではないことはわかっている。
 でも、とにかく、舛添さんには、知事職をまっとうしてほしい。

 五輪といういやな仕事を押し付けられているわれら都民には、祭りの熱狂に水を差すいやなボスが必要だ。
 その意味で舛添さんには期待している。
 あの人は、日本一のいやな野郎になれる。

念のためにお聞きしますが
これってツンデレじゃないですよね?

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