この月曜日の夜、フジテレビが通常の編成を急遽変更して全国放送したSMAPの面々による謝罪の生中継は、平均で31.2%、瞬間最高で37.2%の視聴率を記録したのだそうだ(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。

 昨今の地上波放送の数字としては、異例の高視聴率だ。それだけ、視聴者の関心が高かったということなのだろうが、私の見るに、この数字のもうひとつの意味は、テレビの役割が、既に「そういうもの」を映す方向に変化しているということだと思う。

 「そういうもの」とは、具体的には「生謝罪」のことだ。

 21世紀のテレビは、「歌」や「芸」や「ニュース」や「ドラマ」のような「作り手が手間をかけて作りこんだ表現や作品」よりも、テレビタレントや犯罪被害者による「素」の「会見」や「謝罪」のような、「生身の人間の赤裸々な個人情報」を映し出すことに重心を移しつつある。良いことなのか悪いことなのかはわからない。ただ、われわれは、これから先「そういうもの」ばかりを見せられることになるだろう。

 画面を眺めながら、私は、SMAPの5人が「誰に対して」「何を」謝っているのか、まるで理解できずにいた。

 メンバーは、言葉の上では、「ファンの皆様」に「ご心配をかけたこと」を詫びていた。

 このたびの解散騒動は、事務所の内部で起こったトラブルを、いくつかのメディアがニュアンスの違う報じ方をしたことで拡大したものだ。とすれば、ファンに向けて謝罪する筋合いは無い。

 伝えられているように、事務所とメンバーの間に何らかの行き違いがあって、そのためにトラブルが生じていたのだとしても、そのトラブルは、あくまでも「内輪」の出来事に過ぎない。そのトラブルを解決するべく謝罪の場が設けられることがあり得るのだとしても、その「謝罪」もまた「内輪」の謝罪であってしかるべきものだ。というよりも、トラブルの当事者が、知名度の高い芸能人であることを考えれば、謝罪は、なおのこと「内輪」で処理されなければならなかったはずだ。

 その謝罪が、「事前に繰り返し告知された全国ネットのテレビ生中継の画面の中」という、最も目立つステージの上で実行されなければならなかったのは、その謝罪パフォーマンスが、謝罪とは別の意味を含んだものだったからだ。そう考えないとスジが通らない。
 では、その「謝罪以外の意味」とは何だろうか。

 私は、まわりくどいものの言い方をしている。
 いきなり結論を提示すればそれで済むところを、一段階ずつ、くどくどと念を押しながら一行ずつ書き進める方法で、事態の解説を試みている。

 なぜ、こんな持って回ったセルフ・コール・アンド・レスポンスの大演説をしているのかというと、あの、なんとも陰険な形でSMAPのメンバーたちに強要された「見せしめ」の実体を明らかにするためには、書き手の側も、それなりに陰険な書き方を採用しなければならないと決意しているからだ。

 彼らは、「ファンへの謝罪」という形式を踏んで展開される「業界向けの見せしめ制裁パフォーマンス」を、一から十まで、謝罪強要側のシナリオに沿って演じさせられている。しかも、その「謝罪パフォーマンス」は、それを放送したテレビ局はもちろん、謝罪映像を引用することになる他局やスポーツ新聞および芸能欄を持つ雜誌を含むすべてのメディアが相乗りした形の、業界総掛かりの処刑イベントとして、衆人環視の中で敢行された。

 「ポリティカル・コレクトネス(=政治的正しさ)」という言葉が発明される以前の、昭和の時代のテレビと比べて、われわれが現在視聴している21世紀のテレビ画面は、基本的には、大変に上品になっている。

 露骨な差別用語が使われることはまず無いし、血なまぐさい映像表現や、残酷な描写も減少傾向にある。

 とはいえ、その一方で、ここ数年、ネット世論と結託するようになったテレビは、底意地の悪いものの見方を反映したカメラワークで被写体をとらえる頻度を増してきてもいる。視聴者の側も、「私刑」や「制裁」の機能を含んだコンテンツを好む傾向を深めている。

 カメラを向けられた状況下で申し開きの不可能な説明を求められ、身も世もなく取り乱した挙句に前代未聞の号泣ぶりを披露した地方議員の恥さらし映像を、何十回もリピートして笑いものにした手口などは、直接的にポリティカル・コレクトネスのスタンダードに抵触してはいないかもしれないが、むしろその分だけ底意地の悪い私刑映像としてお茶の間の残酷な視聴者を、大いに楽しませた。

 ポリティカル・コレクトネスによって、直接的な差別やあからさまな暴力が排除されたことで、テレビ画面の中から差別と暴力が根絶されたのかというと、残念ながらそういうことにはなっていない。21世紀のテレビ画面の中ので表現されている差別や暴力は、ポリティカル・コレクトネスの試練による洗練を経たことによって、むしろ進化している。同時に、視聴者であるわれわれの側の感覚もまた、やんわりとした差別や、当たりのやわらかい暴力を求めるテの、洗練された残酷さに進化している。

 いずれにせよ、テレビの世界では、この数年、土下座している人間のアタマを踏んで弄ぶみたいな残酷な私刑映像コンテンツ(号泣議員、小保方、佐村河内会見、食品偽装謝罪会見、ベッキー会見などなど)が、高い評判を集める傾向にある。このたびのSMAPによる生謝罪映像も、大きな流れとしては、その種の「衆人環視の中に置かれた人間の生の喜怒哀楽を食卓に供する」タイプのメニューに分類することができるとは思うのだが、私個人は、今回の案件は、テレビ業界の関係者に向けた自律的な見せしめが含まれている分だけ、より悪質だったと考えている。

 フジテレビは、今回の事務所による私的制裁に、舞台とシナリオと解釈を提供することで、積極的に加担していた。

 ほかのテレビ局も映像を引用(←無償提供されたのだろうか?)し、事務所のシナリオに沿った「解散回避万歳」の報道を繰り返していた点で、同じ穴のムジナだったと言って良い。

 もちろん、ジャニーズ事務所以外の同業の芸能プロダクションも同断だ。

 そもそも、芸能人を「干す」ことは、ひとつの芸能事務所の力だけで達成できるミッションではない。日本中のすべての同業他社の芸能プロダクションとテレビ局が総掛かりで「破門状」を共有しないと、「業界排除令」は、有効にならない。逆に言えば、「干す」という行為が、制裁や恫喝の手段として現実に機能していることは、日本の芸能界ならびにテレビ業界が同じひとつの「破門状」を共有する一個の“闇社会”であることを意味している。

 今回、SMAPの独立騒動に関して、「干す」という言葉がテレビの中で使われていたわけではない。局の関係者が「干す」という用語を使って彼らの独立を解説したのでもない。

 が、「恩義」「事務所あっての芸能人」「スジ」「義理」といった言い回しを使って、多くの関係者や同業者が、独立に対して否定的な見方を披露していたし、スポーツ新聞などは、「独立」することと「干される」ことを、同義の前提として記事を書き進めていた。

 20日付けの「サンケイスポーツ」は、

《中居ら“造反組”の4人には今後、イバラの道が待ち受ける。生放送前夜の17日、ジャニー氏とメリー喜多川副社長(89)に謝罪したが、一度は女性チーフマネジャー、Iさん(58)とともに独立に動いた事実は重い。》

 と書いている。さらに、記事の末尾を以下の文言で結んでいる。

《SMAPは9月に25周年を迎えるが、現在、新曲のリリースやツアーは予定されていない。今からツアーを組むとなると、現実的には来年の可能性が高い。コンサートはファンと直接触れ合える大切な場所。ファンの機運が再び高まるかにもかかっているが、ファンへの恩返しする場所を事務所が与えるかは4人の姿勢次第だ。》(出典はこちら

「ファンへの恩返しをする場所を事務所が与えるかは4人の姿勢次第だ」

 という、この締めの一文は、どこからどう読んでみても、事務所の目線で書かれた言葉である。そうとしか解釈できない。新聞記者が、ここまで露骨に一芸能事務所に寄り添った記事を書いてしまって大丈夫なものなのか、他人事ながら心配になる。

 ところが、事務所目線を共有しているのは、なにもスポーツ新聞の記者やテレビ局のプロデューサーに限った話ではないようで、世間の平均値は、私が考えているよりは、ずっと事務所の考え方に近い。

 今回、そういう世間の生の声にいくつも触れて、その度に、自分の感覚が、特殊な感慨に過ぎなかったことを思い知らされて、静かに落胆している。

 たとえば、19日の夜、ツイッターに、ふたつほど前の段落で書いた、「干す」ということが闇社会のやり方だという主旨のお話を書き込んだところ、早速、以下のようなリプライ(返答)が返ってきた。

《@tako_ashi  今更何いってんの?今ごろ分かったの?オジサンバカなの?》
こちら

 なるほど。
 オジサンはバカなのかもしれない。
 私が、今回、SMAPの話題を当欄で取り上げることにした理由のひとつは、この種のリプライが返ってくる現状に落胆したからだ。

 たしかに、リプライを寄越した若い人(なのだと思う)がそう考えている通り、日本の芸能界が閉鎖社会で、テレビ局がその閉鎖社会の業界ルールに媚びへつらう形で仕事をしていることは、多少とも世間を知っているつもりの人間にとっては常識に属する話なのであろうし、そのことを踏まえて言うなら、私のような立場の者が、いまさら、その程度のことを手柄顔で指摘していることは、「みっともない」しぐさであるのかもしれない。

 ただ、私としては、芸能界が闇を含んでいることそのもの以上に、芸能界の闇を指摘する「オジサン」を嘲笑する若者の存在に、より深い失望を感じた次第だ。

「いったい、この国はどこまで腐っているんだろうか」

 などと、ついつい青くさいことを言いたくなる。
 この11月には60歳になるというのに、だ。

 王様が裸である旨を指摘する態度を子供っぽいと笑う若者は、自分では大人のつもりでいるのかもしれない。が、彼は、単に意気地が無いのか、でなければ、起こっていることが見えていないだけだ、と、少なくとも私はそう思っている。

 芸能界は、窓際に置いた金魚鉢みたいなもので、中で何が起こっていようと、それは、眺めているわれわれの生活にはかかわりの無いことだ、と、そう考える人たちもいるのだろう。

 しかしながら、特に子供たちにとって、芸能人はロールモデルだ。
 年若い人たちにとっての憧れの対象であるアイドルなりスターという存在は、本来なら、誰よりも自由な存在であって然るべき人たちだ。

 才能や容姿に恵まれたスターが、富と名声と自由をほしいままにしているその姿に、われわれは憧れる。そうでなければならない。
 ところが、うちの国では、どういうわけなのか、スターは、金魚鉢の中の金魚や鳥かごの中のカナリヤみたいな、一種ものがなしい存在として鑑賞されることになっている。

 スターは、富や名声と引き換えに自由を差し出さなければならない。でもって、そういうふうに自由を喪失した存在だからこそ、庶民の側も心を許して憧れてあげているみたいな、そういう上から目線で憧れるみたいな、錯綜した構造になっている。

 あるいは、これは、そんなうがった分析をしなければならない事柄ではなくて、もっと単純な、かつて世界中のショービジネスの世界でまかり通っていた「奴隷契約」と呼ばれる不平等な契約慣行が、わが国では、いまだに残存していますよ、というそれだけの話なのかもしれない。

 その昔、ハリウッドにまだ強力な俳優のユニオンが無かった時代、映画に限らず、各種の興業を主催していたのは、地域のボスや闇社会の関係者だったりした。その時代、芸能人は、文字通りの商品として、売買され、酷使され、接待要員として使いまわされ、独立しようとすれば干される存在だった。

 それが、エージェントから独立し、マフィアの拘束から逃れ、逆にエージェントを雇用し、弁護士を雇う立場を手に入れ、ブッキングやギャランティーについて芸能人自身が自分自身の裁量で判断できるようになったのは、20世紀も後半になってからのことだった。

 それが、なぜなのか、日本ではいまだに芸能プロダクションが、マネジメントとブッキングを独占している。さらに、そのブッキングとマネジメントを制圧している大小の芸能プロダクションは、互いに所属するタレントの移籍や独立を阻むことについてカルテル的なブロッキング体制を築いている。

 本来なら、移籍や独立を禁ずる契約自体が違法なはずだし、そうでなくても、複数の事務所が結託して、独立を画策した特定の芸能人の移籍や独立やテレビ出演を阻むべく協力しているのだとしたら、それは間違いなく独占禁止法に違反しているはずだ。

 ところが、うちの国の芸能界では、独立や移籍どころか、恋愛や結婚を禁ずるといった、それこそ基本的人権の明らかな侵害である規定さえもが、不文律の形で強要されている。
 まるで、江戸時代の吉原か、角兵衛獅子の人事管理である。

 こういうことを言うと、どうせ

「それを承知の上で芸能界を目指したんだから文句言うなってことだよ」
「結婚禁止なんて、自己責任じゃん」
「結婚や恋愛の対象となる感情を商品として販売してる人間が、恋愛や結婚をしたら、そりゃ商品の私物化だろ」
「商品に手を出すなっていうのは商売の基本じゃね?」

 ぐらいな反応を返してくる人たちが現れる。
 彼らは、そういうふうに、世の中に対して夢の無い見方をしてみせることが大人っぽい態度なのだという感じの人生観を誇示してやまない。

 まあ、それはかまわない。
 彼らの生活に夢が無いのは、気の毒だが、仕方のないことだ。

 しかしながら、芸能人は、夢を売る人々だ。
 とすれば、その芸能人が、夢の無い生活を送っていたり、自由の無い暮らしを強要されることは、彼ら自身にとってはもちろん、それ以上に、その彼らにあこがれている青少年にとって、大変によろしくない。座敷牢につながれた、夢のないスターの絵姿は、若い人たちの将来への夢をとても基本的な部分で毀損する。私は、そのことを心配している。

 誰もが認めるあれだけの大スターが、会社を辞める自由さえ与えられていないこと。
 あれほどのトップアイドルであっても会社から放り出されたら路頭に迷うほかに選択肢が無いはずだという見方を、世間の多くの人々が信じてしまっていること。
 こういう世界観は、子供たちを著しく萎縮させる。

 本来、芸能界は、窮屈な学校生活や規則ずくめの社会に適応できない若者が、せめてもの夢を見るための場所であるはずだ。

 世界の片隅に、芸能界やスポーツ界という四角四面の常識とは別の原則で動いている異質な世界があると思うからこそ、あるタイプの厄介な若者たちは、なんとか自分と世間の間の軋轢に折り合いをつけながら、日々の暮らしを続行している。

 いつかビッグになってやるという、その若者の夢が叶う確率は、実は、たいして高くは無い。が、それでも、若い困難な時代を、その「いつかビッグになる夢」とともに過ごしたことは、彼や彼女の人生にとって、大切な一部分になる。そのことを否定することは誰にもできない。

 が、スターが実は鎖に繋がれた存在であることを舞台監督が暴き立てることは、舞台そのものの夢を根底から突き崩してしまう。

 何を言いたいのかというと、私は、SMAPの面々が、あんなに憔悴した表情で、何かに屈服した姿を世間に晒してしまったことの影響を憂慮しているということです。

 私のような、夢とはあんまり関係の無いおっさんでさえ、あの映像には、閉塞感を感じて、しばらく塞いだ気持ちになった。

 座敷牢の天窓にフタをするみたいなああいう映像を、テレビ局が大得意で配信して、しかもその自分たちの仕事ぶりを自画自賛してやまないでいることは、非常に気持ちの悪いことだ。

 わかっている。
 どうせ

「夢を売る人間は夢なんか見ちゃダメだってこった」

 みたいなことを言う若い人たちが、コメント欄にきいたふうなことを書くのだろう。

 私自身、夢多き若者だったわけではない。
 それどころか、私は他人の夢に水をかけることに熱中していた組の若者だった。

 過去は改変不能なものだ。
 それでも、あの頃の未来が閉ざされるのを見るのはつらい。
 未来は、せめて予測不能であってほしい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

ベッキー、SMAPは間に合いませんでしたが
繋がるネタが(悲しいことに)てんこ盛りの本です

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

まずは会員登録(無料)

登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。

こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。

春割実施中

この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。