以前にも書いたことがあると思うのだが、私は、「政治とカネ」というこの決まり文句を耳にする度に、微妙にイライラした気持ちになる。理由は、「政治とカネ」が、具体的に何を指し示しているのかについて、この見出しは、結局のところ、何も説明していないからだ。

 そもそも、「政治とカネ」というこのフレーズは、抽象名詞を二つ並列させただけのもので、ひとつの文として完結していない。

「花と蝶」
「酒と涙と男と女」
「部屋とワイシャツと私」
「オレとお前と大五郎」
「ネギとイモ」
「木村と中居」

 これらは、実のところ何も語っていない。
 それぞれの単語がもたらすそれぞれの映像と、関係を匂わせる物語の予感と、余情と余韻と余白以外には、何も伝えていない。
 主語も述語も無い。
 言わばポエムの断片に過ぎない。

 にもかかわらず、二つの名詞を一音節の接続詞でつなげただけの成句である「政治とカネ」は、深い含蓄のあるヘッドラインであるかのように連呼され、意味のある描写であるかのように受け止められ、巷間に流布し、市中を席巻し、時にはその言葉で語られた人間の政治生命を奪っている。

 バカな話だと思う。

 「政治とカネ」というこの言葉は、もともとは

「政治とカネの不適切な関係」

 ないしは

「政治とカネの関係をめぐる不透明な話題」

 ぐらいの言い方で流通していたフレーズで、それが、たびたび使われるうちに、後半部分が省略されて一息で発音できる見出し用語におさまった事例だろう。

 であるからして、この言葉の守備範囲は、「不適切な関係の人間から手渡された政治資金」や「適正な法的処理を経ていない寄付金」や「政治家が便宜供与への見返りとして受け取った不透明な謝礼金」や「帳簿上は政治家の事務所から支出されたことになっていながらその実関連企業が負担している秘書給与」や「後援会主催のパーティー券を介して政治家に直接還流している運動資金」といった、大小様々なカネをめぐるスキャンダルに及んでいる。大変に使い勝手がよろしい。なぜなら、「政治とカネ」とさえ言っておけば、たいていの政治家のスキャンダルはひとっからげに捕捉できてしまうからだ。

 一方において、この「政治とカネ」というキーワードは、「職務権限に関わる贈収賄」のような重大な犯罪と「帳簿上の記載ミス」のような、軽微な資金問題を一緒くたに語ってしまう粗雑さをはらんでもいる。

 ある政治家が後援者に配った夏祭りのうちわの代金が適法的に処理されていなかった問題と、別の政治家が職務権限の行使に関連して便宜を供与したと見られる業者から酒食の接待と数百万円の現金を受け取った事案は、その犯罪性や重大性において相当に重みの違う事件であるはずなのだが、新聞紙上では「政治とカネ」という同じ見出しの下にまとめられてしまうことになる。

 もうひとつ、別次元の問題として、この言葉は、「政治家がカネにかかわること」それ自体をタブー視する本末転倒の政治観を普及させる意味で、困った副作用を発揮している。

 政治は、もともとカネと縁の深いものだ。

 あるいは、政治とは、カネの使いみち(予算)とカネの集め方(徴税)についての合意形成の過程だといっても良い。

 政治とカネは、魚と水のような、切っても切れない、表裏一体の存在であり、カネは、政治という運動を支えるガソリンでもあれば排気ガスでもある。

 とすれば、

「政治とカネ」

 という、この誤解を招きやすいフレーズを、マスメディアの記者が安易に使うことには、問題があると言わざるを得ない。

 カネを集め、カネを使う力量と胆力を持ち、カネの効用とカネの副作用についての実効的な知識を身につけ、カネと権力を正しく運用できる能力を備えている人間でなければ、頼りになる政治家とは言えない。

 その意味で、政治家にとってタブーなのは、不透明な資金に手を出したり、不適切なカネの力で他人をコントロールしようとすることなのであって、カネに触れることそのものは、むしろ政治家の本務と考えなければならない。

 料理人が汚れた手で板場に立つことは、強くいましめられなければならないが、かといって、板前が食材に触れることそのものをタブーにしてしまったら、料理は成立しない。

 政治とカネにまつわる事件を報じる時には、

「贈収賄疑惑」
「政治資金問題」
「寄付金疑惑」
「二重帳簿問題」
「後援会の旅行費についての不正報告疑惑」

 と、いちいち個別の事案ごとに、そのケースにふさわしい見出しをひとつずつ考えて、それぞれにふさわしい言葉で報道するのが本当だと思う。

 ところが、キャスター氏は

「次は、永田町に衝撃、新たな政治とカネの疑惑、です」

 と、いともあっさりとキャッチフレーズを連呼しにかかる。

 キャッチフレーズとして一丁上がりになってしまった言葉は、メディアとその受け手の双方に、条件反射をもたらす。

 「ベル」→「エサ」→「よだれ」という一連の行動が反復されるうちに、いつしか、「エサ」の部分を飛び超えて、「ベル」から直接「よだれ」を誘発するに至る回路が形成される過程と同じように、「政治とカネ」というレッテルが、内容の如何にかかわらず、いきなり「アウト」の判定を呼び寄せる粗雑な図式が出来上がる。

 と、ニュース原稿は単純化され、Qシートはフローチャートみたいになる。

 「政治とカネ」だけではない。
 政治報道の現場、あるいは床屋政談の掲示板では、この種の常套句が猛威をふるっている。

「永田町の論理」
「五十五年体制」
「護送船団方式」
「民間では考えられない」
「対案を出せ」
「既得権益層」
「抵抗勢力」
「決められない政治」
「ねじれ解消」
「責任政党」
「ブーメラン」
「ダブスタ」
「工作員」
「ポジショントーク」

 といったこれらの用語も、おそらく、使われはじめた当初は、それぞれに独自の意味を備えていたはずだ。

 それが、対敵破壊工作用語としての衝撃力を評価され、考え無しに繰り出される「レッテル」として多用されるようになると、最終的には、思考停止を促すマジックワードとして流通することになる。

 ついでに言えば「レッテル」という言葉自体、最も典型的な「レッテル」だし、「思考停止」というワードそのものも、見事な「思考停止ワード」になっている。ことほどさように、政治の言葉は、繰り返し連呼するうちに鈍器に似たものに変化する。というよりも、言葉を相手を殴るための鈍器として使用するタイプのコミュニケーション作法を、われわれが政治と呼んでいるということに過ぎないのかもしれないわけだが、これはまた別の話になるので、ここでは深く追及しない。

 さて、今回の甘利明経済再生担当相のケースは、「政治とカネ」というタグでまとめられるエピソードの中で、近来では最もたちの悪い事件だ。

 単なる政治資金疑惑ではない。
 帳簿上の記載ミスだとか、税務当局との解釈の違いだとか、パーティー券の計算間違いだとか、そういう話ではない。

 「週刊文春」の記事を読む限りでは、あからさまな贈収賄疑獄であり、目に余る悪辣なタカリ行為だ。
 金額も大きい。証拠もはっきりしている。

 謝礼金以外に使わせた接待の額も少なくない。犯情も劣悪だ。どこからどう見ても平成に入ってからの政治家の資金スキャンダルでは、最も悪質な重大案件だと思う。

 逃げ道はほぼ塞がれていた。
 告発した業者は、実名を明かして、自らが贈賄側として罪に問われるリスクをあえて犯しながら、疑惑の告発に踏み切っている。つまり、それだけの覚悟を持っているということだ。

 物証も揃っていた。
 記事に書いてある通りだとすると、告発側は、手渡した現金についての一枚一枚の写真と、現金供与の現場の録音を持っている。さらに、これらとは別に「週刊文春」の取材陣は、現金授受の瞬間をカメラにおさめている。

 見る限り、最初から到底逃げきれるとは思えなかった。

 二十世紀までの常識だったら、これだけの材料を並べ立てた形で贈賄疑惑を報じられたら、大臣の首は、3日もつながっていなかったはずだ。その先には議員辞職が待っている。つまり、甘利経済再生相の事件は、それほどの大事件だということだ。

 ところが甘利大臣は、疑惑発覚からほぼ一週間、自身の進退についてはっきりと述べなかった。
 信じられない対応だと思う。
 少なくとも昭和の常識からは到底考えられない厚顔さだ。

 さらに驚くべきなのは、安倍晋三首相が、27日午前の参議院代表質問で、甘利経済再生相について

「速やかに必要な調査を行い、自ら説明責任を果たしたうえで、経済再生、TPP(環太平洋経済連携協定)をはじめとする重要な職務に引き続き邁進してもらいたい」

 と答弁していることだ(こちら)。

 つまり、安倍首相は、これだけはっきりした証拠が挙がっている報道を受けてもなお、司直による裁きが下るまでは、甘利大臣の職責を防衛するつもりでいたのだ。

 開いた口がふさがらない。
 この甘利大臣への異様に甘い処遇は、第2次安倍内閣において、松島みどり法務大臣がうちわ配布問題の責任を取って辞任し、小渕優子経済産業大臣が、後援会員の観劇費用が政治資金収支報告書に未記載であった問題を受けて辞任した件との比較からしても、著しくバランスを欠いている。

 それだけ、甘利経済再生相が安倍政権にとって欠くことのできない重要な閣僚だということなのかもしれないが、重要閣僚であればこそ、それだけ責任が大きいという見方もできるはずで、ともあれ、今回の対応は、国民を舐めていると見られても仕方がない。

 一時は、首相ならびに甘利大臣が、このまま正面突破で何事もなかったかのように続投し続けるのかと思わされたほどだ。

 どっちにしても、ことここに至るまで大臣の職に拘泥していた姿は、とんでもない態度だと申し上げねばならない。

 この「とんでもなさ」は、実は、政権側だけの問題ではない。

 私自身は、どちらかといえば、「とんでもない」のは、メディアとその受け手であるわたくしども一般国民の側なのかもしれない、と思い始めている。

 どういうことなのかというと、われわれが、この種の疑惑に食傷しているということが、問題の根本なのであって、甘利さんと安倍さんの異様な強気は、そこのところを見透かした上で「これなら行けるんじゃないか」と考えた末であったのかもしれない、ということだ。

 私たちは、政治家の素行に対して鈍感になっている。

 甘利大臣やその周辺の人々が、疑惑を告発した人物について漏らしていた「その筋の人らしいね」(菅義偉官房長官)「罠を仕掛けられた感がある」(高村正彦自民党副総裁)「先方は最初から隠し録音をし、写真を撮ることを目的とした人たち」(甘利大臣)といった言葉が、いずれも論点をはぐらかす物言いでしかないことは、おそらく、普通の新聞読者にははっきりとわかっていることだ。

 が、それでもなお、多くの人々は、この種の疑惑の出現にうんざりしている。で、このことが、報道への冷淡さを生んでいるのだと思う。

 別の見方もある。
 もしかすると、疑惑は疑惑として憂慮していても、それ以上に深い政治不信が疑惑の追及をためらわせているのかもしれない。

 どういうことなのかというと、具体的には

「そりゃ賄賂はマズいんだろうけど、じゃあ、後任は誰にやらせるんだ?」

「これで政権が倒れるんだとして、その次に出てくる政権が現状以下だったら最悪ってことにならないか?」

「カネに汚い大臣なんだとしても、まるっきり何もできないデクノボーよりはマシかもしれないしなあ」

と思っている国民が多かったということだ。

 安倍政権に不満があるのだとして、問題は、それを倒した後にやってくるであろう民主党政権に期待を持てないことだ。現政権より悪い政権がやってくることが分かっているのだとしたら、誰が政権を拒否しようと思うだろうか。

 そんな状況下で民主党は、この27日に

《民主党は嫌いだけど、
 民主主義は
 守りたい。

そんなあなたへ。すぐに信じなくてもいい。
野党として、止める役割をやらせてください。》

 という文字オンリーのポスターを発表した。
 なんでも、参院選向けのポスターなのだそうだ。
 正直な話、大変にがっかりした。

 こんな、斜に構えた中学二年生がどうせ振られる予防線コミコミで同級生の女子を口説いてるみたいなからっきし意気地のないコピーで、いったい彼らは何を有権者に訴えようとしているのだろうか。

 安倍政権暴走へのブレーキ役以外にろくに期待されていないのが事実で、みごとなばかりに支持されていないのだとしても、この自虐はありえない。

 これだけの敵失の中でさえ、自信を持って自分たちの政策を訴えることをためらう政党に、いったい誰が何を期待するというのだろう。

 甘利大臣にはようやく辞任していただけた。
 民主党には、ポスターの白紙撤回をお願いしたい。
 なんなら白紙でも良い。白旗みたいだけど。

オダジマタカシはお嫌いでも
この本は読んでみてほしい。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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