「パナマ文書」については、最初に表沙汰になった時以来、いつか取り上げなければならないだろうと思っていた。それが、なんとなく二の足を踏んでいるうちに、1か月以上が経過してしまった。

 書かなかった理由は、ありていに言えば、よくわからないからだ。
 ただ、わからないなりに、一定の感想は抱いている。

 その私の漠然とした感想を文字にして起こしてみたところで、おそらく、読者の理解の助けにはならない。もちろん、一般的な意味での解説にもならないだろう。

 とはいえ、パナマ文書をどう扱うべきなのかについての議論が一巡したタイミングで、このやっかいな暴露ネタに寄せられる世間の声を観察しながら、私がどんなことを感じたのかを書くことには一定の意味があると思っている。

 というのも、扱いの難しい案件に関する錯綜した議論を一歩離れた地点から観察していると、その案件の厄介さそのものとは別に、それに向かって発言している人々の立ち位置やら本音やらが色々と明らかになったりするからだ。

 今回は、そういう話を書こうと思う。
 どういう話なのかというと、つまり、読み終わるまで何を言いたいのかわからない話ということで、なぜそういうことを今の段階で言えるのかといえば、私が、現段階で、書き終わってみるまで何を書くかわかっていないからだ。

 文書の存在が明るみに出て以来のこの1か月の経過を振り返るに、わが国の新聞をはじめとする報道メディアがこの問題に取り組む姿勢は、海外メディアと比べて、明らかに及び腰に見える。

 読売新聞は、5月10日付けの紙面で「おことわり」として、パナマ文書の取り扱いについて以下のような説明をしている(こちら)。

読売新聞は、「パナマ文書」に記載されている日本の企業や一般個人を、現時点では匿名で報道します(自ら公表した分を除く)。各国の税制は異なり、日本の企業や一般個人がタックスヘイブンを利用していても、国内で適正に納税していれば、税法上、問題視することはできません。ただ、タックスヘイブンを悪用した租税回避は国際的に問題化しており、政治家や官僚など公職に関わる個人、公共団体の利用については道義的観点から実名を原則とします。企業や一般個人についても、今後の取材によって、悪質な課税逃れや、脱税などの違法行為が判明した場合は実名で報じます。

 今週発売の「週刊新潮」(5月19日菖蒲月増大号)は、さらに慎重だ。

 彼らは、「日本関連400件を全調査! 『パナマ文書』掲載企業・掲載個人の言い分」と題した記事の中で

「租税回避が目的ではありません」(伊藤忠商事広報部報道室)
「タックスヘイブンにいくつか法人を持っているのは事実ですが、全てコンプライアンスに基いております。--後略-」(丸紅)

 といった企業の声を紹介しつつ、パナマ文書に名前が載った企業や個人を安易に吊るしあげることに警鐘を鳴らしている。このほか、記事中では、「2年ほど前、香港にいる知り合いから『会社を作りたい』と言われて『名前を使ってもいいよ』というような返事をした覚えはあります。香港ではそういう会社を作るのは難しくないとは聴いていましたけど……」と証言する中野区のクリーニング店の店主や、「晴天の霹靂だ」と困惑する漢方薬販売の70代男性の声をとりあげつつ、原稿の末尾は、租税法に詳しい大学准教授の「一斉公表に踊らされるのでなく、慎重な吟味が不可欠」だという主旨の発言で締め括っている。

 要するに、名前が載っている案件についても様々なケースがあって、一概に「悪者」として断罪するには無理があるということのようだ。

 朝日新聞は、5月10日付けの「耕論」というインタビュー記事の中で、元東京国税局長の鳥羽衛氏、銀行出身で「巨大投資銀行」などの著作のある作家の黒木亮氏、今回の「パナマ文書」の公表を担ったジャーナリスト集団、ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)の事務局長をつとめるジェラード・ライル氏の3人に、それぞれの立場からこの巨大な暴露報道の意味するものについて話を聞いている(こちら)。

 いずれの記事も、基本的には、報道の役割を「暴露」するところまでにとどめ、それ以降の仕事(調査、吟味、あるいは制裁や訴訟などなど)については、政府当局や情報の受け手である一般読者に委ねるという姿勢においては共通している。

 逃げ腰というふうに見ることもできるが、現実問題としてはメディアが裁判官や制裁人の役割を果たすのは筋違いなのだろうからして、われら一般国民としては、面倒なようでも、提供されたナマの情報を読み解くところからはじめないといけないのだろう。

 メディアが慎重な姿勢で臨んでいる一方で、率直な見解を表明している人々もいる。

 たとえば、「ホリエモン」という通称で知られる堀江貴文氏は、ツイッター上でこう述べている

この報道に意味あんの?こいつら馬鹿?  楽天・三木谷会長の名も パナマ文書、10日に一部公表 - 共同通信 47NEWS…》

パナマ文書のどこにニュースバリューがあるのかさっぱりわからん。普通に個人として無駄な税金納めないのって普通じゃね?

 これはこれでひとつの見解ではある。

 堀江氏についていつも思うのは、この人が、「思っていることをそのまま口に出す人間」としてのある種の需要に対応した存在だということだ。

 逆に言えば、ホリエモンの発言がいちいち注目されるのは、現代社会がポリティカルコレクトやら人権的配慮やらの影響で、率直にものを言いにくい世の中になっていることの現れだということでもある。

 個人的には、この人の発言の10のうちの7つは、単純に思慮の足りない暴言だと思っている。
 ただ、残りの3つのうちの2つに面白い見解が潜んでいて、最後の10のうちの1つには極めて正しい観察が含まれていたりする。これは相当の確率だ。そこのところがたぶんこの人の人気の秘密なのだろう。

 今回のパナマ文書に関する一連の発言は、思慮の足りない暴言に分類して差し支えないものだ。
 まあ、通常進行というやつだ。

 が、堀江氏のご意見の背後には、それなりの人数の賛同者がいる。

「きれいごと言ってんじゃねえよ」
「カネがほしいのは誰だって同じだろ?」
「どこの世界のお目目キラキラの愛国者がわざわざ余分に税金払いたいんだ?」
「いま、税金腹痛いって変換されたぞ」
「実際笑えすぎて腹痛いわw」

 てな調子の人々にとって、ことカネがらみの話題で「倫理」だの「公正」だのを持ち出す人間は、度し難いカマトトないしは、薄気味の悪い偽善者ぐらいに位置づけられるのであろう。

 実際、

「適法なら何の問題もないわけだろ?」

 と考えているネット論客は少なくない。場所によっては多数派だったりする。
 なので、一応反論しておかなければならない。
 以下、反論してみる。

「普通に個人としてムダな税金納めないのって普通じゃね?」
 という堀江氏の発言は、形式論理の上では正しい。

 たとえば、これがスポーツやゲームの世界の中の話なら、ホリエモンの主張はほぼ100%正しい(「ほぼ」と言ったのは、スポーツの中にも、「アンリトン・ルール」と呼ばれる仲間内の不文律が介在していたりするからだ)。

 サッカーのストライカーは、オフサイドぎりぎりのラインを狙って動き出すし、それを防ごうとするディフェンダーは、敵方の選手を騙すべくタイミングを合わせて一斉にオフサイドラインを上げにかかる。いずれもルールの限界を狙い、あまつさえ積極的に敵を騙そうとするしぐさだ。

 野球にはもっとあからさまな「隠し球」という詐欺的なプレイがある。

 それほど露骨でなくても、キャッチャーのサインにあえて首を振って見せながら、3回首を振って最初と同じ球を投げるみたいな駆け引きは、バッテリー間では、常に展開されている。

 別の言い方をすれば、ゲームというのはそもそもルールの範囲内でいかに敵の裏をかき、どうやって審判の目をごまかすのかを競い、その詐欺的な手練手管を含めて楽しむための枠組みなのであって、そういう意味では、ルールの範囲内であればどんなことをやってもかまわない。

 しかしながら、納税はゲームではない。ビジネスもゲームではないし、われわれがこの世界で生きていることも、純粋な意味でのゲームではない。

 ゲームではない、というのはつまり、現実の世界における生身の人間のやりとりは、必ずしも「ルールの範囲内であれば何をやってもかまわない」というゲームの原理だけで動いているものではない、ということだ。

 リアルな現実世界を動かしている原則は、ゲームの場合とはむしろ逆だったりする。

 ゲームの世界では、まずルールがあって、その定められたフィールド(あるいはコート)の中の、定められたレギュレーションの範囲内で、プレイヤーが技術と知恵を競う決まりになっている。カジノでも麻雀でもサッカーでも理屈は同じだ。ゲームの世界では、ルールがプレイヤーを支配している。ということはつまり、ルールの範囲内であればあらゆるプレーが「アリ」ということになる。

 ところが、現実世界を支配している原理は、必ずしも法律だけではない。
 われわれの世界は、どちらかといえば、最初に倫理なり道徳があって、それを実現するために法律が定められるという順序でできあがっている。

 いまでも法哲学の最初の授業では、自然法があってその後に成文法ができるというお話が繰り返されていると思うのだが、実際、われわれの社会は、道徳を実現するために法律を定めましたという体で建築されている。少なくとも建前の上ではそういうことになっている。その逆ではない。

 つまり、ゲームの世界みたいに、ルールだけが唯一のよりどころで、ルールを守ってさえいれば道徳なんていう年寄りくさいゲロみたいなちいちいぱっぱはクソクラエだぜ、な世界とは成り立ちが違うということだ。

 ホリエモンの発言に共感しているのは、この世界をゲームの理屈で渡って行くことを夢見ている人々だ。

 で、ここから先は私の憶測なのだが、グローバリズムが志向しているものの先には、ゲーム志向の人々が理想としているゲーム的な世界が広がっている。つまり、彼らは、この世界を、金融ゲームを展開するための弱肉強食のゲーム盤に変えたいと願っているわけだ。

 40年近く遡る話になるが、かつてゲームのプレイヤーが、現実世界の決まり事の裏をかこうとした事件があった。

 若い人は知らないと思うので、簡単に紹介しておく。

 1978年の11月20日、江川卓というアマチュア野球選手が、米国留学を突如切り上げて緊急帰国した。で、その翌日の11月21日午前に、巨人は江川と入団契約を結ぶ。巨人側の説明では「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。詳しくは、ウィキペディアの「江川事件」の項目を参照していただくのだとして、要するに、当時の野球協約では、ドラフト会議によって交渉権を得た球団が対象となる選手と交渉できる期日が、翌年のドラフト会議の前々日までとされており、協約の文面を見る限りでは、前年のドラフト対象選手の身柄が一瞬の間自由になるいわゆる「空白の一日」が生じることになっていたからだ。

 この事件は、当時、巨大な反響を呼んだ。
 ドラフト制度に加わっておきながら、抜け穴を通ろうとする巨人軍のやり方が、あまりにも卑怯だったからだ。

 当時は「スポーツマンシップにもとる」「巨人軍は紳士の球団じゃなかったのか」という声が多数球団に寄せられたのだそうだが、考えてみれば、スポーツ的に(つまり「ゲーム的」に)考えれば、協約の文書を精読して「空白の一日」を発見した態度はむしろファインプレーだったと言える。

 しかし、野球協約はゲームのルールではない。
 実社会を動かす法だ。
 というよりも、野球にかかわる企業や人間や球団が互いにその信義に基いて取り決めた「紳士協定」に近いものだ。
 とすれば、その「紳士協定」の裏をかく行為は、「反社会的」のそしりを免れ得ない。

 意外な話だと思うかもしれないが、現実社会の決まり事は、法律文書が曖昧に定義している法の網の隙間を、人間の「常識」と社会の「倫理」で埋めることで動いている。

 であるからして、ゲームのプレイヤーがルールの裏をかいたり、対戦相手にフェイントをかけるみたいにして繰り出すクリティカルなワザは、実社会では「アウト」と判定されるのである。

 結局、読売新聞の不買運動にまで発展した巨人軍への反発は、翌年のドラフト会議でのドタバタや、巨人・阪神間での奇天烈なトレードなどのドタバタ劇につながって行くのだが、それらについては詳述しない。

 個人的には、この時の巨人軍の三百代言的な振る舞いが、その後プロ野球が国民的娯楽でなくなって行く道を歩む第一歩になったと思っている。

 パナマ文書の中のメンバーも、この先、ファンの信頼を失った巨人軍と同じ目を見るかもしれない。
 まあ、先のことはわからないが。 

 ここで、誤解をする読者がいるとといけないので、ひとこと補足しておく。

 私は、「ゲーム」という言葉を、「非人間的な」「非人情な」「人間の血が通っていない」「不謹慎な」「真剣さの足りない」「娯楽よりの」営みという、「悪い」意味で使っているのではない。単に「ルール万能の」「純理的な」取り組みという意味でこの言葉を使っている。

 だから、ホリエモンについても、ゲーム的な発想だからきらいだ、とか、ゲームっぽい生き方をしているから気に食わないと言っているわけではない。

 私が言おうとしているのは、ゲームとは別の原理で動いている世界にゲームの世界観を押し付けるのは乱暴だと思うよ、ということだ。

 法律は、どんな法律でもそうだが、現実に追随できない。
 時代が変化したり、社会の構成メンバーが変われば、古い法律は新しい世界を制御できなくなる。

 たとえば、覚せい剤取締法や大麻取締法が想定していない新しいタイプのケミカルなドラッグが登場すると、新しい法律ができるまでのしばらくの間、それらの新顔のドラッグは「脱法ドラッグ」として、世間に流通してしまう。

 同じように、経済のグローバル化が進展して、金融市場の国境が取っ払われてみると、当然、カネの流れは、各国の徴税の仕組みや税率の違いや法整備の濃淡を反映して、水が低きに流れるのと同じように、法の網の目の粗い場所に向けて流れて行くことになる。

 新しい国際的な取り決めができるまでの間、この種の租税回避のための資金移転は、適法と言えば適法ということになる。
 が、適法であっても、倫理的にはアウトな資金の流れはいくらでもある。

 というのも、納税は国民国家を国民国家たらしめている最も重要な約束事で、もしこの点で税務当局が国民なり企業なりの実態を把握できなくなっているのだとしたら、それはすなわち国家の崩壊だからだ。

 つまり、お国に税金を払わずに、資金を海外に逃がす人間または企業は、たとえその手法が適法だったのだとしても、国民国家の枠組みから来る倫理観からすれば、おかしなふるまいをしていることになる(もう少し扇情的な言い方で表現すると「売国」だ)。

 これから先、リストに名前が載っている企業や個人は、ただちに断罪されたり、その場で制裁を受ける羽目には陥らないまでも、長い目で見れば、一定の説明責任を果たす義務を負うことになるはずだ。

 その説明に、耳を傾けたいと思う。
 それが私たちの新しいゲームになるはずだ。
 実社会のゲームは、「ルール」(法律≒理性)とは別立ての「倫理」(世論≒感情)が動かしている。
 どんな展開になるのか、大変に楽しみだ。

 そういえば、パナマ文書の話題が流れはじめた頃、ツイッターのタイムライン上に「タックスヘイブン」という言葉について親切に解説するツイートが流れてきた。

 そのツイートの言うには、この言葉を、「脱税天国」みたいに思っている人がいるけど、それは間違いで、「ヘイブン(haven)」は、「嵐の時に船を避難させる回避地」の意味で、よく似た発音の「ヘブン(heaven)=天国」とはスペルも意味も違うということだった。

 なるほど。目からウロコだ。

 私は、恥ずかしながら、そのツイートを読むまで、てっきり「脱税天国」だと思っていたクチで、ということは、この娑婆世界を徴税地獄(tax hellぐらい?)ととらえている堀江さんと大差の無い餓鬼畜生道の亡者なのかもしれない。

 ルールブックの前に、辞書を引くべきだった。
 いましめねばならない。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

神様、天国とまではいいません。避難所でもぜんぜん結構です――
【おっと、今回は最後に告知がございます】

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