この夏の参院選に自民党からの出馬が噂されている『五体不満足』の著者、乙武洋匡氏に不倫交際の過去が発覚したのだそうだ。

 なるほど、と、感想は以上の4文字に尽きる。
 今回は、これ以上この話題に乗っかる気持ちになれない。

 個人的にまるで興味が無いわけでもないのだが、ここのところ、週刊誌報道の後追いばかりやっている気がしていて、そのことを、わがことながら、なさけなく思っているからだ。
 もうすこし率直に、うんざりしていると言い直しても良い。

 今回の乙武さんのネタは、週刊新潮のスクープ報道らしい。
 今年に入ってから、週刊文春による暴露報道が毎週のように続き、それに呼応するように、ライバル誌である週刊新潮もいくつか続報や新ネタのスクープを抜く流れになっている。

 で、ネット上では「文春砲」という言葉がやりとりされている。それほど、両週刊誌、特に文春の取材力と記事作成能力が目立っているわけだ。

 今回は、週刊誌報道がリードする2016年の上半期を振り返りながら、どうしてこんなこと(文春の一人勝ち状況)になってしまっているのかを考えてみたいと思っている。

 最初に結論を言ってしまうと、私は、ここしばらく、文春&新潮の存在感が突出して見えるのは、彼らの取材力の結果というよりは、新聞およびテレビの退潮を反映した状況なのだと思っている。

 特に、芸能分野についてのスキャンダル記事は、ずいぶん前から文春、新潮の独壇場になっている感がある。

 ほんの10年ほど前までは、スポーツ新聞各紙に、それぞれ、スクープを抜くだけの力があった。
 あるいは、彼らが取材力を失いはじめたのはもっと前なのかもしれない。
 ともあれ、少なくとも20年前には、まだまだスポーツ新聞には侮りがたい実力があった。
 当時は、テレビのワイドショーも独自の人員と予算を備えていた。

 写真週刊誌の存在も大きかった。フォーカス、フライデー、フラッシュの主要3誌は、芸能スポーツのみならず、政治経済分野でも、毎週のように世間を驚かすスキャンダルを暴き立てていた。

 であるから、たとえば、1995年のオウム事件では、新聞およびテレビの筋目の報道部門とは別に、ワイドショーのスタッフやスポーツ新聞の記者、総合週刊誌ならびに写真週刊誌の契約記者や取材記者が、同じ現場に群がるようにして取材する姿が常態化していた。

 もっとも、猟奇的な殺人事件や少年犯罪、芸能人の薬物事案、著名人の不倫や派手目の夫婦喧嘩に至るまで、各メディアが独自の取材人員を送り込んでいたこの時代は、一面、異様な時代でもあった。

 ワイドショーやスポーツ新聞の記者たちを中心としたメディアスクラムは、いたるところで報道被害をもたらしていたし、芸能記者の振る舞い方も、相応に強引かつ下品だった。

 弊害は弊害として、それでも、当時は、各メディアが自前の取材班と自前の予算を持っていた。
 だから、時にはテレビのワイドショースタッフが重大な発見をすることもあったし、オウム関連の一連の報道などでは、報道陣の撮り貯めていた膨大な量の録画データが、後々ものを言うようになるケースもあった。

 単純に良い悪いの話をすれば、現在の記者さんたちの方が、20世紀のメディアの人間と比べれば、はるかにマトモなマナーで取材に臨んでいると思う。

 ただ、2010年代以降の全般的な取材マナーの改善は、必ずしも記者個々人の人格の高潔さ、あるいは会社側のコンプライアンス重視の姿勢に由来するものではない。非道な記者や強引なレポーターの減少は、どちらかといえば、不況を反映したお話で、つまり、予算と人員の削減が、報道現場の取材圧力を低下させる結果を招いたということに過ぎない。

 いつの頃からなのか、テレビの情報番組は、スタジオにデカいパネルを持ち込んで、そのパネルにそのまま拡大コピーしたスポーツ新聞の紙面を配置するようになった。で、キャスターなりレポーターなりが、あらかじめスタッフがパネル上の新聞に貼っておいた紙を剥がしながら事件を伝えていくスタイルが、すっかり定着している。

 この紙芝居メソッドの事件報道スタイルは、たぶん、2000年代のはじめにどこかの局の朝ワイドがはじめた手法で、それが、またたく間に地上波全局に波及し、現在では、NHKでも採用されている。

 CGや3Dによる未来的な演出ではなくて、アナログのパネルと糊のついた紙という大道芸じみたおよそチープな道具立てが、21世紀の新機軸として通用している点が興味深いと言えば興味深い。われわれの国は、本気で退潮しつつあるのかもしれない。テレビの司会者がベリベリ紙をはがしながらしゃべり倒している姿を眺めながら、20世紀のテレビ少年であった私は、時に、気が遠くなるような気分に襲われる。

 つまり、この間に何が起こっていたのかというと、それまで、現場で取材した記者なりレポーターが、自ら出演して現場の様子や事件の概要を伝えていたワイドショーのフォーマットが、単に新聞を読み上げる形式に移行したということで、要するに、端的に言って、ワイドショーは、取材をしなくなったのである。

 さらに時間がたつと、そのワイドショーのネタ元であるスポーツ新聞が現場に記者を送らなくなる。
 現在、彼らは
「週刊文春の報道によれば」
 という接頭辞をつけて、他社の取材ネタに乗っかったカタチで記事を書くことをルーティンにしつつある。

 誰も取材に行かない。

 ネタ元の週刊誌の編集部に挨拶代わりの電話取材をして、あとは、有識者や著名人や○○に詳しい誰某さんだったりする人々のコメントをざっくりと集めて、それで一丁上がりの記事を書いて輪転機を回す。そうやってスポーツ新聞はこの10年、部数を落とし続けている。

 週刊誌も、文春、新潮を除けば、軒並み取材費と人員を大幅にカットした体制でページを作るようになっている。

 というのも、20年前に比べて、雑誌の編集部は、どこの編集部であれ、まず間違いなく大幅な部数減に見舞われているからだ。
 広告費もびっくりするほど下がっている。
 しかも、読者層の年齢がとんでもなく上昇している。

 どういうことなのかというと、いまどき、電車の中でスポーツ新聞や週刊誌を広げているのは、スマホ時代に乗り遅れた高齢者ばかりだということだ。
 新聞も同様だ。
 宅配の新聞はもとより、駅売りのスタンドで販売される比率の高いスポーツ新聞の部数減は、さらに悲惨だ。
 なので、取材に割く予算は、どこの編集部でも、一貫して目減りしている。

 独自の取材ができない状況がもたらす問題は、紙面から活気が消えることだけではない。
 取材をしないメディアは、無批判になる。私が抱いている感じでは、こっちの弊害の方が大きいかもしれない。

 というのも、文春一強体制が確立されて以来、彼らの横暴さには一段階拍車がかかったように見えるからだ。

 1つの現場に、たとえば3つのメディアが取材陣を送り込んでいれば、単純に考えて、3つの視点からの3本の別の記事が出来上がってくる。

 どの記事が下手くそで、どの記事が秀逸で、どの記事の見方が浅薄で、その記者の書いた記事が独善的であるのかは、彼なり彼女なりの記事だけでは簡単には判断できない。が、別の書き手による記事があれば、読者はそれらを読み比べることができるわけで、最低限、たった一人の記者の身勝手な臆断や、一社の編集部が商売がらみで押し込むパブ記事が世論をリードしたり時代を代表したりするみたいな無体な状況は発生しない。

 しかし、文春オンリーの独占取材で記事が配信される事案では、他の見方や、別の取材者の見解自体がそもそも存在しない。
 ということは、事件は、一から十まで文春のさじ加減次第ということになる。

 取材の正当性や記事の信憑性や、読者の反響を踏まえた誘導の方向も含めて、あらゆる要素を一雑誌の編集部が自在にコントロールできるのだとしたら、これはもう報道とは呼べない。

 文春一極体制の弊害の一番わかりやすい例として、ベッキー嬢のケースを挙げたい。

 あの事件は、前にも書いたが、あるテレビタレントとあるミュージシャンの不倫交際に過ぎない。
 不倫がけしからぬ不行跡であり、恥ずべき反社会的行為なのだとしても、その交際の不潔さを責める資格を持っているのは、当事者だけである旨についても、以前に書いた。

 ファンを裏切ったとか、子供たちの夢を壊したという言い方は、こうした場合の定型の言いがかりに過ぎない。

 むしろ、この出来事に関する一連の報道で、最も強く指弾されなければならないのは、個人の私的な通話であるLINEのやりとりを週刊誌の編集部にリークした人間の所業であり、それ以上に、関係者から提供を受けたとはいえ、個人の秘密の私信である通話記録を全国販売の商業誌の誌面に写真付きで暴露した編集部の人権感覚だ。

 こんなものが見逃されて良いはずがない。
 不倫は、恥ずべき失態ではあっても、それでもなお個人的な不始末に過ぎない。当事者の間で処理すれば良いことだ。それ以上に、不倫そのものに社会的な責任は発生しないし、個人の不倫を報じることに公共性があるわけでもない。

 一方、メディアによる私信の暴露は、個人の人権を根本的な次元で毀損する極めて重大な犯罪行為だ。いずれがより悪質であり、どちらの悪行がより強く裁かれるべきであるのかは、言うまでもない。

 思うに、もし仮に、ベッキー&ゲスの不倫交際について、複数のメディアが別々の取材ルートで取材をすすめていて、それぞれ独自の視点から記事を書いていたら、ここまでひどい(つまり一方的な)状況にはならなかったはずだ。

 ソースが一つしかないということは、事実確認の方法が一つしか無いということでもある。とすれば、それは、「ウラ」を取れないということでもあるし、同業他社のメディアが批判的な記事を書けないということでもある。

 日本中のテレビとラジオとウェブメディアと雑誌と新聞が、雁首を揃えて、「週刊文春の取材によれば」という接頭語を戴いたカタチでしか記事を配信できない状況では、誰も、その週刊文春の取材に、重大な疑義(この場合は、他人の通信の秘密を犯しているということ)があることを指摘できない。

 結局、ネタを貰っているカタチの他メディアは、文春に対して強いことは言えないわけで、記事の内容についてはもちろん、取材の手法についても、彼らは意見さえできない。

 なんとなさけない立場ではないか。
 取材していないメディアほどみっともないものはない。
 彼らは、餡を自作していない和菓子屋と同じほどには無力だ。
 ただ、店頭に商品を並べている下請けの販売業者に過ぎない。

 今回の、私信の暴露は、たぶん、被害者であるベッキー嬢なりゲス氏なりが裁判所に提訴すれば、立件できるスジの話だと思う。

 立件することが、総合的に考えて彼らの利益になるのかどうか(つまり、多少賠償金が取れるのだとして、それで不倫を犯した人間が開き直ったと見られることのマイナスを埋め合わせられるのかどうかということ)は、大いに疑問だ。

 が、私は、事態を正常化するために、ぜひ提訴してほしいと思っている。
 ゲス訴訟。
 悪くない見出しじゃないか。
 ん? とすれば、勝ち目は大いにあるぞ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

いま「わるいこと」を決めるのは
知性か、反知性か、それとも文春か?

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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