2月22日の衆院予算委員会。高市早苗総務相は「政治的に公平ではない放送」を繰り返す放送局に対し、電波停止を命じる可能性について何度も言及した。この発言を巡り、放送局を中心としたメディアは一斉に反発。ジャーナリストの田原総一朗氏や鳥越俊太郎氏らが緊急の記者会見を開き、「放送局の電波は国民のものであって所管する省庁のものではない」と抗議の声を上げた。

 高市総務相の発言は、放送局に「政治的に公平であること」などを求めた放送法4条を根拠にしたもの。だが、放送内容が公平かどうかを判断する客観的な基準は存在しない。特定の政治信条を持つ政治家である総務相がそれを判断する点に危うさがあり、憲法21条の「表現の自由」を脅かしかねない国家権力の圧力だと受け止められたのだ。

 高市発言がメディアを騒がせていたちょうど同じ時期。国家権力からの圧力にさらされる出来事が私自身にもあった。

 「メディアに事前の原稿確認を断られたのは初めて。正直なところ驚いている」

 スポーツ行政を一本化する狙いから、昨年10月に文部科学省の外局として誕生したスポーツ庁。その長官秘書を務める政策課の職員が電話越しに発した言葉に、私の方が驚いた。

 経緯はこうだ。日経ビジネスでは3月7日号で特集「経営者本田圭佑が米国に進出するワケ」を掲載した。特集に合わせて、鈴木大地・スポーツ庁長官のインタビュー取材を設定してもらい、実際に話を聞く機会を得られた。その取材の数日後。政策課職員から人を介して記事の事前確認を求められたため、「お断り」のメールを入れたところ、今度は直接電話がかかってきた。再度メールと同じ説明を繰り返した後に飛び出したのが、この発言だった。

 「“マスゴミ”が偉そうなことを言うな」「記事を確認するのは被取材者にとって当然の権利だ」。そんな意見を持つ方は少なくないと思う。だけど、高市発言が波紋を広げている今だからこそ、批判を承知であえて問うてみたい。「記事の事前チェックはアリなのか」と。

「掲載記事を事前チェックしている」と言う文科省スポーツ庁(写真:田村翔/アフロスポーツ)
「掲載記事を事前チェックしている」と言う文科省スポーツ庁(写真:田村翔/アフロスポーツ)

 日経ビジネスでは、編集部内のルールとして、掲載前の原稿を被取材者に渡すことを禁じている。文章を書いた人に著作権が帰属する寄稿などの例外はあるが、それ以外の記事では掲載前の“生原稿”を渡し、それを確認してもらうことはない。

 しかしである。スポーツ庁長官秘書を務める政策課職員は「これまで他のマスコミの取材では掲載前に原稿を確認している」と言うのだ。

 「ああ、スポーツ庁は昨年10月にできたばかり。まだあまり取材を受けていないからよく事情が分かっていないのだな」。最初はそう理解したが、違った。この職員は文科省の官僚。スポーツ庁に限らず、過去の文科省幹部に対する取材について「事前にチェックしてきた」と言うのである。

 大げさではなく、とても衝撃的だった。耳を疑い何度も確認したが、彼の答えは最後まで変わらなかった。

 「雑誌はすべて事前にチェックしてきました。経済誌もそれ以外の雑誌もすべてです。文科省の広報室にも改めて確認したので間違ありません。小さなコメントだけが載る程度や、時間がない場合にはそこまでしないこともあるが、インタビューの場合、新聞も事前チェックに応じている。一問一答スタイルの記事でも、コメントだけが入る形式でも同じように間違いがないか事前にチェックしてきました。政府の公式見解と違っていたら困りますから」

 私は1年間ほど日経新聞で官庁の取材を担当した経験がある。当時は経済産業省と総務省が主な取材先だった。そこで大臣や副大臣、大臣政務官と数多くの省庁幹部を取材してきたが、事前の原稿確認を求められたことは一度もなかった。

 だから彼の発言がにわかには信じがたかった。「事実関係の確認だけを行う」と話すものの、仮に記事に批判的なトーンが含まれていたとすれば、そのまま修正が入らずに返ってくるとは考えにくい。

「原稿出せと迫っていないから検閲じゃない」

 この職員はこうも話した。「報道機関から原稿確認を依頼されるケースだけでなく、こちらからお願いして原稿を事前に出してもらったケースもある」。

 それは、国家権力による報道への介入に当たるのではないか。国家が事前のチェックで不都合と判断した文書や言論を取り締まる「検閲」は、表現の自由を脅かす行為として憲法21条で明確に禁止されている。だが、現に私は「他のマスコミの取材では必ず事前に原稿確認している」ことを理由に、繰り返し生原稿の提出を求められた。

 2度目以降の電話では、発言を以下のようにやや軌道修正した。「私は原稿を出せと迫っているわけではない。そうですよね。だから検閲には当たりません。他のマスコミは事前に原稿を出している、その事実をただ客観的にお伝えしているだけです」。

 持って回ったような言い方だが、どうやら彼が言いたいことはこういうことらしい。スポーツ庁長官秘書を務める政策課職員は「他のマスコミの取材では必ず事前に原稿確認している。このままでは、あなたが会社の中でまずい立場になりませんか」と私のことを慮り、善意の気持ちから知らせてくれたというわけだ。とは言うものの、その善意を受け取るわけにはいかず、私は改めて拒絶の意思を伝えた。

センシティブな話題も事前チェック済み?

 私は「編集権の独立」とか「検閲の禁止」などとメディアの権利を大上段に振りかざして、「けしからん!」と言いたいのではない。どのメディアも国家機関たる文科省による事前の原稿チェックに応じているという職員の話に、ただただ驚きを禁じ得なかったのだ。

 職員からの電話後、改めてここ最近の文科省に関する記事を調べてみた。いじめ、教科書採択、新国立競技場と世間で話題になったテーマが並ぶ。見解が分かれるようなセンシティブな問題も多い。これらが事前チェックを受けた上で世に出ていると想像すると、思わずゾッとしてしまった。

 メディアと言っても多岐にわたる。文科省の記者クラブに所属している新聞社と通信社、テレビ局などのいわゆる既存メディアが代表例だが、それだけではない。記者クラブに所属していない我々のような経済誌や週刊誌、教育・学校を扱う専門紙、ウェブ媒体メディア、フリージャーナリスト…など、文科省へ取材に訪れる記者は幅広い。

 スポーツ庁長官秘書を務める政策課職員の話を受け、私は実際に文科省の記者クラブに所属する既存メディアに事実関係を確認してみることにした。映像を扱うテレビ局を除いた、大手新聞社と通信社の複数の記者に「文科省幹部の取材の後に生原稿を事前に渡しているのか」と尋ねたところ、以下のような回答だった。

既存メディアは「記事の事前チェック」を否定

「そんな事実はまったくない。文科省の方便だろう」
「記事の編集権はこちらにある。職員はバカなことを言っていると思う」
「報道機関が原稿を事前に見せることはない」
「記者クラブの慣例として原稿を渡すことはありえない」
「そんなことをした例は過去に一度もない」

 私の問い合わせに対し、記事の事前チェックを認めた既存メディアは1社としてなく、すべての社が全面的に否定した。

 では、文科省の職員がウソをついていたのか。改めて彼に既存メディアの複数社が否定していたという事実を伝えた上で、見解を聞いてみた。

 「文科省の記者クラブに所属しているメディアも記事の事前チェックに応じています。私の知る限りでは最近でもあった。それは間違いない。すべての雑誌は事前にチェックしていますが、記者クラブの記者の場合、正確にそれがどれぐらいの比率なのかまでは分かりません」

 文科省の職員と既存メディアの記者。双方の言い分を比べた結果、少なくとも記事の事前チェックが当たり前のように行われているわけではないという事実を読み取ることができた。

 文科省の職員は鈴木長官のインタビュー内容が「政府の公式見解」とズレていたら困るという点を繰り返し訴えた。だとすれば、インタビュー後に曖昧だと思われる発言について補足の説明をすれば良いだけのこと。圧力を加えながら、事前チェックで記事のすべてを管理しようとするのは国家権力の横暴ではないか。電波停止を示唆することで、放送局の報道をすべてコントロール下に置こうとする高市発言と同じ傲慢さを私は感じた。

権力の逸脱をチェックする役割

 既存メディアではない、雑誌・ネット媒体の記者やフリージャーナリストは、場合によって原稿の事前確認を取材先にお願いすることもあり得るのかもしれない。次回以降の取材を再び設定してもらえるよう、取材先に“貸し”を作る場面が考えられるし、専門的な細部の正確性が記事の価値を大きく決めるケースなどが想定されるからだ。

 しかし、文科省の記者クラブに所属している既存メディアが同じことをしたらダメだ。彼らは文科省の幹部にも比較的容易に取材アポイントが取れるような立ち位置にいる。いわば権力に近い存在。そうした特権が黙認されているのは、極めて近い位置から権力をつぶさにチェックし、逸脱があればそれを明らかにする役割を国民から期待されているからに他ならない。その役割を放擲するならもはや存在価値はない。

 「存在価値はない」と言い切ったのは理想論からではなく、危機感からだ。最近はインターネットのニュース共有アプリが人気を博している。ユニークな切り口の読み応えのある独自コンテンツを配信しているところも多い。ネットと紙主体という媒体特性の違いに胡坐をかいていたらすぐに侵食されてしまう。最終的に既存メディアの拠り所となるのは、相対的に権力に近いが故に可能となる権力のチェック機能しか残らない。そんな危機感があるからだ。

企業・個人の場合はアリなのか

 「権力」はなにも国家だけに限らない。日経ビジネスは昨年、東芝の米原子力子会社ウエスチングハウスで巨額減損が発生していた事実を明らかにした。「ウエスチングハウスが真っ赤なのは分かっていた」とネットでは言われたが、単に噂を論じるのと事実を示すのとでは雲泥の差がある。実際、本誌の報道を受けて、初めて東芝はウエスチングハウスの単体決算を開示することになった。

 権力や大企業の逸脱を見抜き、それを世に問うことで是正していく機能は、既存であろうが新興であろうがメディアの変わらぬ役割のはずだ。高市発言に見るように、国家権力によるメディア介入があからさまになりつつある。そのような状況下だからこそなおさら、どのような内容の記事であれ、それを墨守すべきだと思っている。

 では、国家や大企業ではない、個人への取材についてはどうだろうか。

 この点については意見が分かれるところだろう。個人と言っても、会社社長とヒラ社員とでは立場も責任も異なるため、一概に論じることはできない。個人の場合には、取材するメディア側がむしろ権力となり、記事によって相手の社会的信用や名誉を傷つけてしまう恐れもあるのは事実だ。

 ただ、リスクがあるからといってむやみに記事の事前チェックを行うことには抵抗がある。記事掲載後の反響についても記者自身がきちんと見定めた上で、自らの責任において記事を世に出すべきだと考えているからだ。そうでなければ、自らの存在価値を貶めることになってしまうだろう。

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