6月15日の東京都議会で、舛添要一都知事が辞職する意向を表明した。

 本日発売の『週刊新潮』は、「さようなら舛添要一都知事」という白抜きの大きな見出しの横に

「今や都民1300万人の心が一つに!」
「白々しい言い訳はもう聞き飽きた!」

 という白地に黒の活字のサブキャッチを添えた目次を掲げている。
 私自身は、1300万人の都民の心が一つになったとまでは思っていない。
 そんな薄気味の悪いことになってもらっては困る。

 ただ、週刊誌の編集部がこういう見出しをぶちあげて勝ち誇りたくなった気持ちはわかる。
 彼らは、何かを成し遂げた気持ちになっている。

 都民の中にも、知事辞任の報を受けて、達成感なり勝利の実感なりを得ている人は少なくないのだろう。

 実際、この10日ほどの間にいくつかのメディアが発表したアンケートの結果を見ると、いずれも舛添都知事に辞任を求める意見が90パーセントを超えている。

 直近では、日刊スポーツが6月7日に実施した調査において、「辞任すべき」という回答が94.1%を占めている。ちなみに、「続投で良い」はたったの3%。残りの3%は、「わからない」と回答している(こちら)。

 しみじみと恐ろしい数字だ。
 私は、この種の調査結果で、二者択一のうちの一方の意見として、94%という数字が提示された調査結果を生まれてはじめて見た。

 辞任は決まったことだ。
 いまさらどうこう言うつもりはない。

 今回は、われら都民が、なにゆえに、94%というとてつもない高率で、あの人に辞任を迫るに至ったのかについて考えてみたいと思っている。

 私は、自分自身も含めて、日本人を、比較的冷静な国民であるというふうに考えている。
 しかしながらその一方で、私たちは、なぜなのか、時に、特定の事象や人物に対して、何かの加減で激越な感情を抱きはじめると、その感情を抑えることができなくなる。

 このことは、わたくしども日本人が、一人ひとりの個人としては温厚な人物であっても、集団として振る舞う段になると、にわかに感情的な反応を露わにする暴徒になりがちだということでもある。

 集団化してしまった時の日本人が、個々のメンバーの資質とは性質の異なる凶悪なマナーを発揮するに至る現象に、私は、ずっと以前から注目していたのだが、この2年ほど、その傾向が顕著になってきた感じを抱いている。

 今回、舛添都知事に向けられたマスメディアによる集中攻撃は、佐村河内守、小保方晴子、号泣議員の各氏に対して発動された報道リンチと同質の「学習された残酷さ」に基づく脅迫的反復だった。

 さらに遡れば、朝青龍を追放した時あたりから、この国では、ネットと結託したマスメディアが集団的な制裁を娯楽として提供する回路を、そのシステムの中に常設するようになっている。私たちは、導火線に火のついた爆竹を渡し合うゲームに興ずる中学生みたいに、スリルと残酷さに嗜癖しているのかもしれない。

 私自身の話をすれば、5月更新の当欄で書いた通り、舛添さんに辞任を求めない数パーセントの側に立つ人間だが、その理由について、ここで蒸し返すことはしない。興味のある人は、リンク先を参照してみてほしい(こちら)。

 今回、私が、94パーセントという数字にこだわっているのは、この数字が、アンケートに答えた人たちの「気分」を反映したものだと考えているからだ。

 たとえば、アンケートの質問が

「舛添都知事に向けられている疑惑は辞任に値するものだと思いますか?」
 という文で問いかけられていたのであれば
「はい。辞任に値すると思います」
 という回答は、94%より、多少は少なかったはずだ。

 それが、94%もの辞任を求める声を集めたのは、アンケートに回答した人々が、疑惑の重大さや、知事が不正に流用したかもしれない金額の大きさを重視したからというよりは、知事が当初の段階で弁明として持ち出した「厳しい第三者の目」というプロットのいけ図々しさや、会見の中で質問に答える態度の端々で露呈した人間としての誠意の無さにあきれかえった結果なのだと思う。

 つまり、裁かれていたのは、「事実」ではなく「人格」であり、アンケートの中で表明されていたのは、「判断」ではなくて「感情」だったということだ。

 別の言葉で言えば、舛添さんが「いやな野郎」だったということでもある。

「このヒトは、たしかにアタマの良い人なんだろうけど、それだけに、これまでの人生の中で、他人をバカとしか思ってこなかったんだろうね」
「まあ、あらゆる人間を論破できると思い込んでるわけだ」
「オレが本気出して説得すれば、ライオンにチョレギサラダを食わせることだってできるぐらいには考えてるだろうな」
「ライオンにチョレギサラダよりは、ミミズにナポリタンとかの方が良くないか?」
「おまえ何言ってる?」
「いや、舛添ならミミズ入りナポリタンで売り上げを立てられるんじゃないかと」
「名うてのケチだしな」
「しみったれがオレらのボスだとか、気勢が上がらないったらありゃしないし」
「同じ無駄金でも、豪快さ故の無駄遣いだったり、粗雑さから来る脇の甘さとかなら勘弁してやらないでもないけど、どこまでもケチくさいちょろまかしと、うんざりするようなしみったれたごまかしだなんて、人の上に立つ人間のやりざまじゃねえぞ」

 私が今回の騒動についてつくづくうんざりしているのは、知事に対して問われている当のものが、いつしか「事実」や「疑惑」ではなくなっている報道のあり方が、あまりにも劇場的だからだ。

 報道スクラムは、ある段階から、事実そのものではなく、舛添さんの「態度」「振る舞い方」「口のきき方」「論理の組み立て方」「金銭感覚」あるいは、「人格」や「人生観」が裁かれるステージに移行していた。そして、そこから先は、ただひたすらに「舛添の卑しさ」と「舛添のいけ好かなさ」をあげつらっては袋叩きにする狐狩りのごとき集団娯楽が繰り広げられ、コロシアムの真ん中で苦しむ生け贄を眺める観客の顔には、薄ら笑いが浮かべられていた次第だ。

 そんなわけで、テレビ画面のこちら側にいる人々は、「疑惑」や「事実」に対する、理詰めの結論としての「判断」ではなくて、「態度」や「人柄」への感情的な「嫌悪」や生理的な「不快感」の表明として、舛添さんに辞任を求めたわけで、こうなると、「会見」は、「事実関係」を「説明」する場ではなくて、「マスゾエ・ザ・シミッタレ・キング・オブ・キャピタル・オン・ステージ」みたいなショー仕立てのエンターテインメントそのものだった。

 舛添さんは、擁護の難しい人だ。
 それは、佐村河内氏や小保方さんや号泣議員でも同じことだ。私が大好きだった朝青龍にしても同様だ。

 というのも、いまここで名前を挙げた人たちに共通しているのは、彼らが「普通の日本人なら生まれつきに備え持っているはずの以心伝心の対人マナー」(最近の言葉で言えば「コミュニケーション能力(コミュ力)」)を身につけていない、特異な人たちだからだ。

 元来、うちの国の国民は、「空気を読まない」人間に対して冷酷だ。
 それが、ここへきて就活の影響なのか何なのか、コミュ力信仰が普及するに従って、さらに亢進している。

 われわれは、「以心伝心」の分からない人間や、「魚心あれば水心」が通用しない男や、「場の空気」を察知しない仲間や、「なあなあ」を理解しない同僚や、「そこのところはひとつよろしく」で話が通じない朴念仁を心の底から嫌っている。

 個人的には、戦後教育の中でやんわりと共有されていた「個性信仰」の影響で、ある程度緩和していたわが国に顕著な同調圧力が、「コミュ力万能主義」や「絆思想の強化」「江戸しぐさの強要」みたいな流れの中で、またぞろ強化されているのが21世紀の新たな傾向で、ネットやマスメディアによるリンチの横行は、「いやな野郎」や「感じの悪いヤツ」や「空気を読まないヤツ」をツブしにかかる、隣組メソッドの復活だと思っている。

 話を元に戻すと、舛添さんをはじめとする上にあげた「空気を読まない人々」は、摩訶不思議なオーラや、周到に演出された女子力や、圧倒的な言語運営能力や、奇天烈な感情暴発の魔法や、あるいは朝青龍の場合で言うなら単純な肉体的威圧で、周囲の人間を黙らせたり丸め込んだりたらしこんだり言い負かしたりして、自分の地位と権力を手に入れ、そのまた権力と地位がもたらす威圧によって周囲の人間を圧倒してきた人たちだ。

 であるからして、こういう人たちが何かでつまづいた場合は、当然、ひどいことになる。待ってましたとばかりに、それまでいやな思いをさせられていた人たちが、一斉に立ち上がって反転攻勢に出る。展開としては、非常にありそうな話でもあるし、一面の正義を代表しているプロットでもある。

 ただ、あらゆるタイプの不祥事に関して、とにかくなんであれ記者会見がセットされるようになったことが、一般の日本人を著しく残酷な市民に変貌させてしまっている。私は、その点を憂慮している。

 大勢の記者のマイクとカメラに囲まれて弁明をせねばならない立場に追い込まれた人間は、多かれ少なかれ、ボロを出さずにはおれない。してみると、結局のところ、記者会見(特に「弁明会見」と「謝罪会見」)というのは、小心だったり過緊張だったりコミュ障だったり自我肥大だったり虚言癖だったり、理由はともあれ、何らかの個人的事情で、世間並みの人間らしく適切に振る舞うことのできない人間をあぶり出していぶり出していびり倒して恥をかかせて排除するための、社会的な異分子選別装置として機能することになるわけで、しかもわれわれの時代は、その選別過程を娯楽として消費しはじめている。

 そもそも、記者会見の場で何かを弁明せねばならないこと自体、状況としては「詰んで」いる。こういう場面で、有効な弁明は原理的に存在し得ない。誰もが納得する説明なんてものも実のところ、ひとっかけらもありゃしないのだ。

 とすれば、会見における唯一の有効なマナーは、「哀れな」「なさけない」「かわいそうな」人間としての実相をあますところなく露呈することなわけで、つまるところ、会見に追い込まれた人間は、鼻水を垂らして泣き出すか、禿げたアタマをみっともなく見せつけて土下座をしてみせるかして醜態を晒す以外に生き残る道は無いのである。

 なんとなれば、弁明会見をニヤニヤしながら眺めている視聴者が求めているのは、状況説明でもなければ、事実関係の詳細でもなくて、罪を犯した人間が晒す「醜態」だからだ。ということはつまり、会見というのは名前だけの話で、あれは実際には「公開処刑」なのである。

 ここしばらく、「文春砲」というスターティングガンとともに開始される制裁や私刑は、どれもこれも、発端としては個人の醜聞に属する話ではあっても、最終的には、弁明に失敗した人間をどこまでも追い詰める集団的なモグラ叩きみたいなゲームに落着する決まりになっている。

 一週刊誌の取材力の卓越性に対して「文春砲」という名前がつけられたところまではわかる。
 が、その称号を与えられた当の編集部が、「文春砲ライブ」などという調子ぶっこいたタイトルのネット生中継を主催して自らのパパラッチ報道の成果を誇る態度は、あまりにも見苦しいと思う。

 文春砲。
 他人の秘密を暴くことがどうしてそんなに誇らしいのだろうか。

 ベッキー嬢があんな目に遭ったのは、いまにして思えば、おそらく、不倫そのものが裁かれたというよりは、当初の説明の拙劣さ(というよりは、バカ正直なウソを押し通そうとした真正直さ)が反感を買ったことからだ。

 舛添さんの墓穴も似ているといえば似ている。
 つまり、自己過信のゆえなのか、世間を舐めているからなのか、いけしゃあしゃあとウソを押し通そうとしたところが反感を決定的にしてしまったわけだ。

 同じように婚外交渉事案を暴かれた円楽師匠は、余計なウソをつかなかったおかげで、ほとんど無傷で済んでいる。

 ということは、公開処刑じみた会見やら弁明の席では、問われている「事実」の罪深さによって裁かれるのではない。あの場所では、「世間を渡る」「人」としてのコミュニケーション能力の高低が問われている。とすれば、トボけ方に洒落っ気があって苦笑いに可愛げがある噺家の師匠みたいな人じゃないと生き残れないということだ。

 舛添さんは、大変にアタマの良い人だが、ああいうふうに極端にアタマの良い人の中に時々いる、共感能力の乏しい人でもある。このことは、世間を渡っていくうえでは大きなハンデだし、周囲で一緒に仕事をしなければならない人にとっては、災難ですらありそうだ。まあ、困った性格ではある。

 でも、ぜひ強調しておきたいのは、舛添さんが、共感能力に乏しく、空気を読むことの苦手な人間であるからこその長所として、極めて論理的にものを考えることのできる強みを持っているということだ。

 昨年の5月、下村文部科学大臣(当時)を通して580億円の支出を求められた舛添都知事は、同日の会見で

「全くいいかげん。支離滅裂だ」

 と、文部科学省の態度を厳しく批判し、さらに、当時メルマガに連載していたコラムの中で、

「新国立競技場建設の責任者に能力、責任意識、危機感がないことは驚くべきことであり、大日本帝国陸軍を彷彿とさせる。日本を戦争、そして敗北と破滅に導いたこの組織の特色は、壮大な無責任体制になる。」

 と、東京五輪に関わる人々の姿勢を一刀両断に決めつけている(こちら)。

 この原稿は、いま思い出しても見事な文章だった。

 私は、『新潮45』の昨年の7月号に寄稿した原稿の中で、

「つまり、本職のジャーナリストや記者の中に、忙しいカラダの都知事閣下が、多忙なスケジュールの中で書き飛ばした原稿を上回る記事を書き上げた人間が、一人もいなかったということだ。」

 と書いている。五輪のスタジアムをめぐる無責任体制を論評した記事としては、いまも昔も、舛添さんの原稿が一番冴えていたということだ。

 仮に、都知事が舛添さんでなくて、もっと「空気の読める」(つまり、日本の政治家にありがちな、以心伝心の腹芸ができて、なあなあの話がこなせて、「皆まで言うなお主の心は分かっておる」式の、コミュ力番長の政治家だったら、説明不足の資金提供を求められても、そこは都と国の関係において、あるいは選挙で応援してくれた自民党との義理に応えて、お互いの貸し借り関係の中で、あっさりとカネを出していたはずだと思っている。

 元首相のような人間がかかわっている五輪関係のやりとりの中で、予算の支出を拒否することや、スタジアム計画に疑義を呈することは、普通の政治家には非常にむずかしいことだ。そういうことができたのは、舛添さんだったからだと、少なくとも私はそう思っている。

 ほかにも、舛添さんは、いくつかの五輪の案件をツブしている。
 つまり、この人は、筋の通らないことや、理屈に合わないことは本来受け付けない人なわけで、そこのところは、政治家としては明らかな長所だったはずなのである。

 舛添さんが、知事の座を追われた背景には、これから先、東京五輪に関連する計画をあれこれ推し進める上で、予算が想定外に膨らんだり、突発的な計画変更が発生したりすることを睨んで、都知事が舛添では、うまくコトが運ばないことを恐れた人々の思惑も、多少は影響しているのだと思う。自民党がわりと早い段階で舛添擁護を断念した背景には、彼自身が五輪予算推進の障害になっていたということが関係していたのではなかろうか。

 次の都知事が誰になるのかにはあまり興味がない。
 橋下徹氏でさえないのなら、誰でもかまわないと思っている。
 もう一度石原さん? 眉毛の立派な息子のほうだったら万々歳だ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

息子といえば、嵐のメンバーのお父さんの名前も
候補者の予想に上がっておりました…。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。