消費増税が再延期されることになった。
 諸般の状況から見て、やむを得ない決断だったと思う。
 私は首相の決断を支持する。

 が、手続きというのか、持っていき方というのか、事情説明の方法というのか、ともかくこの半月ほどの間に起こっている一連の経緯には納得していない。
 当件については、今年の3月の段階で増税の延期が話題になった時に、以下のような感想をツイッター上に書き込んでいる。

《個人的には消費税10%の再延期には賛成だけど、この決断を国民へのプレゼントみたいに報じてはいけない。再延期はアベノミクスの失敗を認めることとワンセットだと思う。方針を転換するならするで、これまで国民に言っていた説明が間違っていたことを認めた上でないとスジが通らない。(こちら)》

 あらためて説明するまでもない話だ。

 前回の総選挙の折り、安倍首相は、消費増税の延期を争点のひとつとして挙げて「信を問う」旨を強調していた。「再延期はあり得ない」ということを断言してもいた。

 とすれば、再延期は、当然のことながら、説明を要する決断になる。
 あれだけ大見得を切った形で打ち出した公約を裏切る以上、手続き的には、内閣総辞職を要する政策変更だと申し上げることもできる。

 ところが、首相はスジの通った説明をしていない。
 なにより、首相は経済政策の失敗を認めていない。
 この態度は、やはりどう考えてもおかしい。

 前回の増税延期の際に約束した通りに、延期した18カ月間のうちにアベノミクスによる経済環境の改善で増税の条件が整っているのであれば、税率のアップは、財政の健全化のためにも、社会保障その他の財源のためにも避けて通ることのできない選択だったはずだ。

 逆に言えば、増税を先送りにする決断をせねばならないのだとすると、そのことはそのまま、現政権がこの18カ月の間に増税に耐える経済状況を整備できなかったことを証明していることになる。

 2014年の11月の記者会見で、首相はこう言っている

《来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。私はそう決意しています。(こちら)》

 この言葉は、官邸のホームページにいまも堂々と掲載されている。
 とすれば、増税を再延期する以上、3本の矢がひとまとめに折れている状況についての最低限の説明が為されないとスジが通らない。

 百歩譲って、アベノミクスの全面的な失敗を認めろとまでは言わない。
 ただ、アベノミクスの諸施策の中に、いまだに成果があがっていない部分があって、その停滞が増税の決断を妨げる要因になっていることは、どうしたって認めずには済まされないはずだ。

 ところが、首相は、自らの失政を頑として認めない。
 で、増税延期の理由を、アベノミクスの失敗ないしは停滞にではなく、「世界経済」に求める論陣を張っている。

 さきのG7で、首相は、現在の世界経済の状況がリーマンショック前の状況に似ているという旨の話をして、世界から招いた主要国の首脳に、各国が揃っての一斉の財政出動を促した。
 そして、その首相の発言は受け入れられなかった。
 ちなみに、フランスの高級紙ル・モンドは、5月26日付けの紙面で
「安倍晋三の無根拠なお騒がせ発言がG7を仰天させた」
 という見出しの記事を掲載している。

 にもかかわらず、首相は、G7を総括する27日2時からの会見において、各国首脳と世界経済に対する強い危機感を共有し、G7が責任をもってあらゆる政策を総動員して対応していくことで一致した旨を強調しつつ、

「今こそG7がその責任を果たさなければならない。G7で協調して、金融政策、財政政策、構造政策を進め、3本の矢を放っていく」

 と語り、その上で

「アベノミクスは失敗していないが、世界経済が直面している大きなリスクに対し、あらゆる政策を総動員する必要がある」

 と述べている。(こちら

 一連の発言を振り返ると、首相がサミットという大きな舞台を利用して、「世界経済の危機」という増税理由をアピールしたと言われても仕方がないと思う。

 当然の展開だが、サミットでの首相のパフォーマンスは、各方面からの批判にさらされることになった。
 毎日新聞が28日に配信した記事が、各国のメディアによるサミット批判を紹介している。いくつか引用すれば

※英紙フィナンシャル・タイムズ:「世界経済が着実に成長する中、安倍氏が説得力のない(リーマン・ショックが起きた)2008年との比較を持ち出したのは、安倍氏の増税延期計画を意味している」
※英BBC:「G7での安倍氏の使命は、一段の財政出動に賛成するよう各国首脳を説得することだったが、失敗した」
※仏ル・モンド:「安倍氏は『深刻なリスク』の存在を訴え、悲観主義で驚かせた」
※米経済メディアCNBC:「増税延期計画の一環」「あまりに芝居がかっている」
こちら

 といった調子だ。
 火ダルマと申し上げて良い状況だ。

 こうした批判に反発したのか、首相は、30日になって自らの「リーマン発言」を修正している。

《--略-- サミットにおける世界経済議論に関し、安倍首相は「私がリーマンショック前の状況に似ているとの認識を示したとの報道があるが、まったくの誤りである」と発言。「中国など新興国経済をめぐるいくつかの重要な指標で、リーマンショック以来の落ち込みをみせているとの事実を説明した」と述べたという。--略--(こちら)》

 私には、
《「リーマンショック前の状況に似ている」との認識を示した。》
 ことと
《「中国などの新興国をめぐるいくつかの経済指標で、リーマンショック以来の落ち込みを見せているとの事実を説明」した。》
 ことの間にある違いがよくわからない。
 どうしてこのような瑣末な言い回しの違いを言い立てて、自らの発言に関する報道を「まったくの誤り」と言い切ることができるのか、理解に苦しむ。

 ともあれ、こんな調子で、増税延期の下地は作られた。
 で、さすがに安倍首相の強弁ぶりに少々あきれていたわけなのだが、6月1日の記者会見を見て、あきれるというよりは、むしろ自分の方が責任を感じるみたいな奇妙な気持ちを抱くにいたっている次第だ。

 このうえ6月1日の記者会見について、逐語的に言いがかりをつけることは、面倒なのでやめておく。

 要旨については、ジャーナリストの江川紹子さんがツイッター上に書き込んでいた要約を転載させていただく。

《会見は要するに、日本経済はアベノミクスの成果が出ているが、中国など新興国の停滞で、世界経済はリスクに直面している。サミットで、その認識を各国リーダーと共有し、あらゆる政策を実行することになった。それで、「これまでの約束とは異なる新しい判断」をしたので、「参院選で国民の信を問う」と(こちら)》

 この直後のツイートで、江川さんは、
「あら、140字でかけちゃった……」
 とつぶやいている。

 実際、30分近くだらだらとしゃべった内容は、上にある140文字の中にほぼまるごとおさまっている。

 会見について幾人かの人々が指摘していたのは、
「新しい判断」
 という言葉のとてつもなさについてだった。

 「これまでのお約束とは異なる新しい判断」てなことで、約束を反故にすることがアリになったら、この社会を支えている信用秩序はガタガタになるぞ、というのが彼らの批判の主たる内容だ。

 同感だ。

「おまえから借りてるカネだけどさ、返済期限と利子についてこれまでの約束とは異なる新しい判断で対応することにしたんでそこんとこよろしくたのむわ」

「おい。チャーシューメンが3500円って、これ、どういうことだ?」

「はい、メニューに記載しているお値段とは異なる新しい判断で代金をご請求させていただいております」

「先生、レポート提出の期限ですが、新しい判断で夏休み明けまで延期させてもらいます。枚数についても新しい判断で検討中です。よろしくどうぞ」

 てな調子で、前言撤回が自在にできる世の中になったら、正直な人間は生きていくのが難しくなるだろう。もしかしたら、すでにそうなっているのかもしれないが。

 それにつけても訝しいのは、このとてつもない言葉を発明するに至った首相の内心の変化だ。

 こんな

「立ち読みじゃないよすわり読みだよ」

 じみた小学5年生の頓智みたいな言い訳を、いったい脳のどの部位を活性化させれば、思いつくことができるようになるのだろうか。

 問題は、この「新しい判断」という新機軸のディベート技術の出来不出来ではない。
 どうしてここまで他人をナメた理屈を持ち出してまで、真摯な謝罪を拒む精神状態に首相が陥ってしまったのかということが、真に重要なリスクだと思う。

 考えなければならないのは、首相が、単に子供じみた意地で謝罪を拒否しているのではなくて、より周到な深謀遠慮の結果として、アクロバチックな強弁を敢行している可能性についてだ。

 説明する。
 私が恐れるのは、首相のアタマの中では、

「謝罪するリーダーは信頼を失う」

 という公式が牢固として根を張っていて、だからこそ彼は、素直に謝った方が楽なケースでも、決してアタマを下げることをせずにいるのかもしれないということだ。

 普通に考えれば、今回の事態で、たとえば、

「アベノミクスは、いまだ道半ばです。残念ながら、わたくしどもの施策は、完全な結果を出すに至っていません。このうえは、国民の皆様に自らの不明と至らなさを謝罪するとともに、いましばらくの猶予をいただくことを、伏してお願いする所存です」

 ぐらいなことを言って、きっぱりとアタマを下げれば、消費増税の延期自体は、そんなに大きな失点にはならないと思う。

 なにしろ、安倍首相の支持率は、多少の変動はあるものの、中長期的には高い水準で安定している。
 とすれば、真率な謝罪と説明は、かえって首相個人への支持と共感を高める結果をもたらす可能性すら考えられる。

 にもかかわらず、安倍さんは謝らない。
 世界経済を持ち出したり、サミットのお仲間の威光を借りたりしつつ、さらには新しい判断などというダブルスピークじみた新語を発明してまで、強気の姿勢を保とうとしている。

 どうかしている……と思うのは、私の考えが浅いせいで、もしかしたら、安倍首相ご自身がそう考えているのであろう通り、21世紀の日本人のモードは、すでに決して謝罪しないリーダーに頼もしさを感じる段階に変質してしまっているのかもしれない。

 この2年ほど、安倍さんの態度やしゃべり方を見聞してきた結果としてつくづく感じるのは、自己肥大の結果なのか、演出上のキャラ付けなのかはともかくとして、いずれにせよ、言葉の調子が、いちじるしく断定的になっていることだ。

 この態度の変化が、単純に安倍首相ご自身の内心の変化を反映したものであるのなら、話はわかりやすいし、ある意味で対処もしやすい。

 しかし、首相の強気が、強気の態度を見せるほど支持率が上昇するメカニズムを理解した上での、確信に基づいた行動なのだとすると、話はやっかいだ。

 というのも、高い支持率に慢心した首相が自信過剰に陥っているのではなくて、われら一般国民が、強力で独裁的なリーダーを待望しているのだとすると、その心情につける薬は、おそらく存在しないからだ。

 今年の1月に亡くなったデビッド・ボウイが、ジョージ・オーウェルの「1984」に材をとって制作した、「ダイヤモンドの犬」(Diamond Dogs)というアルバムの中に、「ビッグブラザー」(Big Brother)という曲がある。

 近未来の独裁国家で暮らす民衆が強力な統治機構を歓迎する心情を歌ったものだ。
 もっとも、ここで言う「近未来の独裁国家」は、この曲を含むレコードが発売された1974年から見て、1984年が近未来だったという意味で、いまとなっては、どちらの年号も遠い過去になってしまっている。

 人間の性質と政治の本質は、ジョージ・オーウェルが原作小説を書いた1949年の時点から、そんなに変わっていないのかもしれない。
 「ビッグブラザー」のサビの部分の歌詞は、以下のように歌われている。

Someone to claim us, someone to follow
Someone to shame us, some brave apollo
Someone to fool us, someone like you
We want you big brother, big brother

強く主張する人 着いて行くべき誰か
われらをはずかしめる存在 勇者アポロの如き人物
われらを軽んじるあなたのような英雄
私たちは ビッグブラザー あなたを待望している

 安倍首相は、来る参院選を、消費増税延期の信を問う戦いである、というふうに位置づけている。
 結果次第では、私たちがビッグブラザーを待望していることを認めなければならないと思っている。

 国民の多数派が強いリーダーを求めているのだとしたら、それは、多くの国民が、自分たちが自分たちのリーダーである民主主義の設定の面倒くささを拒否しているということなのだから、その時は仕方がない。
 自分たちが自分たちの奴隷になる世界を受けいれるほかにどうしようもないのだろう。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

そう言えば毎日使っているパソコンが、いつの間にか
勝手にOSごと更新される世界になってました…

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