元野球選手の清原和博氏が……と、一行目の冒頭のフレーズをタイプした時点で、その「元野球選手の清原和博氏」という主語のなんとも言えない据わりの悪さに気持ちをくじかれている。

 はじめに、「呼称」の問題を片付けておきたい。
 とはいうものの、片付くものなのかどうか、実のところ、確信が持てない。

 誰もが知っている有名な誰かが厄介な事件に巻き込まれると、いつも同じ問題が表面化する。
 私たちは、事件の渦中にある人物をどういう名前で呼ぶべきなのか、毎回、頭を悩ませる。

 基本的な前提として、わが国のマスメディアでは、いわゆる「公人」の名前を、敬称を略した「呼び捨て」で表記するならわしになっている。

 まず、この点から考えてみよう。
 清原元選手が現役の野球選手であった時代は、どの新聞も

「8回裏、清原の打ったセンター前タイムリーが…」

 と、彼の名前を敬称略で表記していた。
 テレビのアナウンサーも、

「清原の白スーツが…」

 などと、むき出しの苗字だけで呼びかけるのが通例だった。

 呼び捨て呼称には、おそらく、二つの意味がある。

 ひとつは、その名前が、「注釈や肩書抜きで通用する有名人」である旨の含意だ。明石家さんま、北野武、木村拓哉、羽生結弦、麻生太郎といったビッグネームは、なんの説明も伴わない本人の名前だけで、あらかじめ万人に認知されている。大臣やスケート選手や芸人としての肩書や注釈も要らない。名前だけですべてを説明することができる。

 もうひとつの意味は、呼び捨てにされる名前が「親しみ」とともに発音されているということだ。

 友だちや家族に準ずる親しい存在であるからこそ、他人行儀な敬称や敬語はむしろ無用になる。彼らの名前の末尾には、「さん」や「氏」とは別の、カジュアルな接尾語が付く。松ちゃん、吾郎ちゃん、ともちん、サシコ、まゆゆ…と、名前の前後に付く装飾は、愛称、ニックネームから自他の未分化な幼児的な呼びかけに至るまでのあらゆるバリエーションを含むことができる。

 その、親愛の対象であったセレブリティーの名前に「氏」なり「さん」なりの敬称が付く事態は、その「公人」であった彼または彼女が、「公的」な存在でなくなったタイミングで起こる。

 スポーツ選手が現役を引退したり、レコード歌手が結婚して主婦になったりすると、その日から、彼らは名前の末尾に「氏」なり「さん」のついた、「パンピー」の扱いになる。

 引退した女優が久しぶりにテレビ画面に顔を出す時、彼女は、昔通りの名前では呼ばれない。必ず「さん」付けで呼ばれる。そうでないと様々な方面に対して失礼であるのみならず、業界的にケジメがつかないからだ。

 テレビ画面の中は、文化人枠の出演者にだけ敬称が付く。
 たとえば津田大介さんの出演場面では、敬称ないしは肩書付きの字幕テロップが表示される。
 一方、隣に座っているカンニング竹山の名前はそのまま呼び捨てで処理されている。

 が、出演料は、文化人の方が安い。
 逆に、呼び捨ての名前でキャスティングされている出演者には、その「芸」なり「存在感」に見合った高額なギャランティーが支出される。

 引退したマラソン選手が解説者として放送席に座る場合には、「さん」が付く。理由はたぶん、ギャラが安いからだ。邪推かもしれないが。

 何が言いたいのかというと、「呼び捨て扱い」は、一見、粗雑な扱いであるようでいて、その実、ある種の「特権」を意味してもいるということだ。
 清原氏はその「公人」である特権を、喪失した。
 ここが大切なポイントだ。

 もうひとつ、他人の名前を呼ぶ際に、敬称とは別に「肩書」という便利な距離調節ツールがある。

 われわれの社会には、本来、礼儀にはかなっているものの他人行儀で冷淡な感じのする「敬称付き呼称」と、逆に、親しみを感じさせる半面失礼に響きかねない「呼び捨て呼称」の二通りの呼びかけ方しか存在しないのだが、その間の曖昧微妙な距離をわれわれは「肩書き付き呼称」を利用することでしのいでいる。

 「山田選手」「安倍首相」「羽生名人」「柳瀬プロデューサー」と、その人物の属している組織における位階なり地位なりを反映した言葉を付けておけば、印象として「馴れ馴れしさ」にも「よそよそしさ」にも流れない、フラットな距離を確保することができる。

 そんなわけで、われわれは、どう扱うべきなのか判断がつかない人物に直面すると、とりあえずその人間を組織の肩書で呼ぶことにしている。そうしていればとりあえずは無難だ。なんとなれば、われら日本人は多くの場面において「個人」にではなくて「組織」に向かい合うように条件付けられているからで、無論、相手も相手で、「個人」としてではなく、「組織」の一員として行動する時の方が、より自由に振る舞えるからだ。ちなみに、ここでいう「自由」とは、「自分の頭でものを考えなくて済む」という意味の日本語で、英語の「フリーダム」や「リバティー」とは別のものだ。むしろ、対義語かもしれない。

 話がズレた。元に戻す。
 清原和博氏がわれわれを困惑させるのは、現在の彼が公式な「肩書」を持っていないからだ。

 われわれの社会は、組織に属していない人間を適切に扱うプロトコルを持っていない。
 というよりも、組織に属さない人間を人間と見なさない判定ルーチンを導入することで、なんとかシステムを維持させているのかもしれない。

 今回の場合のように、「容疑者」と呼んでしまうことがなんとなくはばかられ、なおかつ、敬称付きで表記することも社会的合意に反しているように感じられる事例では、これまで、メディアは「稲垣メンバー」「島田紳助司会者」といった感じの、苦肉の「肩書呼称」を発明することで、その苦境をしのいできた。稲垣吾郎容疑者とは口が裂けても言えないし、かといって、稲垣吾郎氏と表記したのではジャーナリストとしての見識が疑われる。そこで、「メンバー」という奇跡みたいな集団帰属呼称が発案されたわけだ。

 ところが、清原はプーだ。
 これは大変に困る。

 無職者はわれわれを混乱させる。
 法定伝染病の保菌者が突然病院の窓口に現れた時みたいに、人々は、彼を恐れる。

 清原元選手は、何の組織にも属していない。いかなるグループのメンバーでもない。
 とすれば、うちの国の不文律の中では、彼のような単独行の人間は、その時点で既に半ば反社会的な……というのは、まあ、言い過ぎなのであろう。が、ともあれ、彼の呼称は、「清原和博容疑者」に統一されつつある。結局、彼には「元選手」という遠い記憶を除けば「容疑者」という肩書しか残されていないということだ。

 とはいえ、原点に立ち返って考えてみれば、そもそも「容疑者」というこの接尾語は、実は、何も説明していない。
 推定無罪の原則からすれば、「容疑者」は、検察側が暫定的に貼り付けたレッテルに過ぎないとも言える。
 その意味では、法廷の外で通用させて良い肩書ではないのかもしれない。

 とはいえ、敬意の対象である場所から滑り落ち、親しみの対象であった過去からも追放された存在である以上、清原容疑者には、「清原氏」という敬称付き呼称も、「清原」という呼び捨て呼称も使えないわけで、彼は、社会から呼びかけられる符合としての「名前」を喪失している。

 とすれば、「清原容疑者」という呼びかけ方は、若干不当ではあるものの、そう呼ぶほかに適切な呼び方が無いという意味で、現状の彼の唯一の立ち位置ではある。
 なんとも気の毒な立場だ。

 清原元選手については、彼がスーパー高校生スラッガーであった当時から、色々な場所で、何回となく原稿を書いている。

 さきほど、ハードディスクの中に残っているテキストの中から、「清原」という単語を含むものをデスクトップ検索して、一通り読み返してみた。

 率直に言って、どれも、なかなか良く書けている文章だと思った。
 それだけ、私は、この選手に強い思い入れを持っていたのだろう。

 ただ、西武から巨人に移籍したあたりから、私の書き方は、微妙に冷ややかになっている。

 私が、96年の巨人軍への移籍以降の原稿の中で、繰り返し遠回しに苦言を呈していたのは、清原元選手個人の資質や野球観に対してではなかった。私は、清原和博という人間が担わされていたキャラクターとしての「番長」「侠気(おとこぎ)」「マッチョ」に、いつも違和感を表明していた。

 まあ、好みの問題と言ってしまえばそれまでではある。
 しかし私は、彼がクスリに手を出した理由を、色々な人が言っているように、

「さびしかったから」
「弱い人間だったから」

 だとは思っていない。
 清原和博という選手は、たしかに若い頃から、情に脆い部分を感じさせるキャラクターだったし、スターに特有の過剰な自尊心を持っていたりもした。が、基本的には、スポーツマンとしての強い自我と精神力を備えていたはずだ、と、私は、そう思っている。

 私自身は、清原氏本人には一度も会ったことはない。
 肉声を聞いたこともない。
 ただ、メディアを通して瞥見した姿から彼の内心を想像しているだけだ。

 その私の目から見て、清原和博元選手の変貌は、なによりもまず、「外見」に現れていた。
 これは、私の立場からは、「外見」の変化ぐらいしか観察できないということでもある。
 そのことは承知している。
 だから、外見から読み取れる以上のことは言わないでおこうとも思っている。

 ただ、外見に現れるものは、本人が考えている以上に大きい。
 私が、彼についていつも思っていたのは、彼の「美意識」が、ある時期から、あからさまにヤンキー志向になっていたことだ。

 美意識は、外見に現れる。
 というよりも、あるタイプの人間は、言葉よりもファッションで、内心の鬱屈を語るものなのであって、清原のような人間の内面は、なによりもその外見に表現されていたということだ。

 で、私は、野球生活後半の清原が、なにかにつけて振り回していた「男」という言葉が、彼が野球選手としての道を踏み誤る原因になったのではないかと考えている次第なのである。

 以下に、2009年の2月に、週刊「SPA!」誌上に書いた、清原和博著『男道』の書評原稿を転載する。

 目新しい話はほとんど無い。清原をウォッチングして来た人間にとっては、どれもこれも既出の話題ばかりだ。が、「見方」は違っている。どういうことなのかというと、スポーツ新聞の記者が書いた「事実」と、清原和博が語る「真相」の間に、大きな「ズレ」があるということだ。「ズレ」は、必ずしも事実関係の食い違いを意味しているのではない。言ってみれば、一つの出来事を別の立場から説明する際に生じる「見解の相違」だ。そして、両者の「距離」は、あきれるほど遠い。まるで別の話であるみたいに。

 結局、清原という選手をめぐる「物語」には、それだけ大きなバイアスがかかっていたということなのであろう。その意味では、「怪物」と呼ばれ、「所沢の種馬」と別名され、「ダンジリファイター」と名付けられ、「番長」と称され、「ダボパンスラッガー」と言われたこの稀有な野球人は、メディアが面白がって捏造するプロットの犠牲者だった。が、それ以上に、清原は、清原自身が語る「男」という物語の主人公だった。であるから、たとえば、仰木監督の再三にわたる誘いを固辞しながら、その仰木氏の没後、一転、移籍の道を選んだことについて、清原自身による解説は、周囲の観察とはまったく違っている。

 清原発の「男」の物語を、私は丸呑みにすることが出来なかった。おそらく「男気」を欠いているからだ。というのも、「男気」とは、提示された物語を鵜呑みにする度量のことだからだ。別の言い方をするなら、「男気」とは、誰かの話を丸呑みに信じ込む純粋さ、もしくは誰かのためにバカになる能力を意味しており、結局のところ「幼児性」そのものだからだ。というわけで、本書は清原の「男気」に同調できる「男」にとっては、熱い真実の本だということになる。

 最後の部分は、奥歯にもののはさまったような書き方になっている。要するに私は、本書を読んで、清原の純粋さに打たれはしたものの、書いてある内容には賛同できなかったということだ。

 感心しなかった理由は、以下に引用する原稿に書いてある。
 これは、同年の11月に、「Sight」誌のために書いた、「2009年のベストセラーを読む」という記事の一部だ。

 --略-- 『男道』(清原和博:幻冬舎)は、男性原理のあれこれが横溢している書物だ。男の愚かさ、男の独善、男の虚栄、そして男の小心と男の弁解と男の自己愛。

 キヨハラのような男の欠点は、自分の欠点を自覚できないところにある。というよりも、男を自認している男の自意識は、自己と他者の双方に対して、おそろしいほどに無神経なのである。

 清原の言い分は徹頭徹尾身勝手だ。

 ファンダムの中の人間は、きっとその言い分を全面肯定する。逆に言えば、そういうファンの全面肯定が、清原という全面皇帝を作り上げてしまったわけだ。

 熱狂的なファンでなくても、清原に好意を抱いている野球ファンは、彼の述べるところを理解するだろう。でも、理解はしても納得はしない。

 私は単にあきれた。--略--

 事件の第一報を受けて、私が感じたのは、この時と同じ「あきれた」という感情だった。

 が、今回は、それ以上に、いたましさを強く感じている。
 大げさに言えば、私は、清原が犯した過ちを、自分が犯した罪であるように感じている。

 そういうふうに、見ている者に、敬意や親しみだけではなくて、責任を感じさせるような存在を、スターと呼ぶのだと思う。

 その意味で、清原は、稀代のスター選手だった。
 できれば、立ち直ってほしい。

男の道は独善で虚栄で小心で自己愛で…
コラムの道は…あれ、似てる?

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記事掲載当初、本文中で「固持しながら」としていましたが、正しくは「固辞しながら」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2016/02/08 13:00]
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