今年はバレンタインデーが日曜日にぶつかるため、関連業界は、オフィスで配られるいわゆる「義理チョコ」需要が減少することを懸念しているのだそうだが、一方、育児休暇を申請する方針を明らかにしていた国会議員に不倫疑惑が発覚して、育休をめぐる議論そのものが雲散霧消しつつある。

 この二つの話題は、一見、関係の無い、別の出来事だ。が、私の見るに、両者の間には通底する何かがある。今回は、バレンタインデーと育児休暇を結びつけるわれわれの対人感覚のめんどうくささについて書こうと思っている。こじつけだと思う人もあるだろうが、デキの良いこじつけは世界を動かすことができる。というよりも、バレンタインデーをめぐる商習慣自体、こじつけからスタートしている。

 バレンタインデーに女性から男性にチョコレートを贈る習慣が定着したのは、そんなに古い話ではない。私は、バレンタインという言葉が、まだほとんど誰にも知られていなかった時代のことを記憶している。

「そんなバカな」

 と思うかもしれないが、私たちはそんなバカだった。
 私は、バレンタインデーの日付についてはもちろん、同じ名前を持った人物がいたことや、その彼の来歴に関しても、まるで知識を持っていなかった。

 いまとなってはバレンタイン伝説の捏造過程について何も知らない若い人たちが多数派になっている。しかも、その彼らの中には、バレンタインデーを、はるか昔から続く伝統行事と考える粗忽者が、少なからぬ割合で含まれている。

 戦争体験やバブル経済でも同じことだが、現実に起こっていた出来事について、それを経験した世代の人間が繰り返し語ることを怠っていると、いつしか、歴史は、不都合な事実を「なかったこと」として省略するようになる。その意味で、私は、年長の人間が古い記憶を語ることには一定の意義があると考えている。なので、若い人たちは、めんどうくさがらずに聞いてください。

 バレンタインデーは、当初「年に一度だけ女の子が愛の告白をしてもかまわない日」として、中高生の間に広まったゲームみたいなものだった。

 私が中学校に入学したのは1969年だが、その時には既に、バレンタインデーに関する故事来歴は、少なくとも都内の男女共学の公立中学に通う生徒の間では、常識に属する知識となっており、それゆえ、2月14日は、13歳の子供たちにとって、一年のうちで最もスリリングな一日だった。

 小学校に通っていた時には、そんな話は聞いたこともなかった。
 ということは、1968年までは、バレンタインデーにまつわる愛の告白の伝統は存在していなかったことになる。

 あるいは、小学生だった私がバレンタインの存在を知らなかったのは、単に子供だったからで、バレンタインについて応分の知識を得たのが中学校に上がってからになった理由は、要するに私が色気づいたことの結果に過ぎなかったのかもしれない。

 ともあれ、バレンタインデーをめぐるエピソードは、1970年代にはいるや、あらゆる少年少女向けの漫画雑誌の正月明けからこっちの誌面を独占する、致死的に重要なテーマになっていった。

 ということは、バレンタインデーをめぐるあれこれの口承やトピックの最初の発生が、正確にどの時点に始まるのかはともかくとして、それが爆発的に普及したのが60年代の末期から70年代の初頭に至る数年の間であったことは、まず間違いのないところだと思う。
 さてしかし、その「女の子からの愛の告白」というややリキみ返ったモチーフを含んだ可憐な物語は、実のところ、そんなに長持ちしなかった。

 中高生というのは、今も昔も、何かに対して真剣になればなるほど、その自分の気持ちを自分で茶化しにかかってしまう傾向を持った人々であり、彼らの失敗はいつも自縄自縛の空回りから出発することになっている。

 「義理チョコ」という言葉をはじめて聞いたのは、たぶん、大学に通うようになった頃のことだ。

 1970年代の後半には、バレンタインデーをめぐるファンタジー物語は、既に相対化されはじめていたということだ。1980年代に入ると、私自身、いくつかの方面から義理チョコを受け取る人間になっていた。

 なんというのか、バレンタインのチョコレートが、流行当初以来しばらくの間備えていたひたむきさを喪失し、相身互いの互酬関係を反映した贈答習慣に組み込まれるようになってはじめて、わたくしども一般の男たちは、それを下賜される栄誉にあずかれるようになったということだ。 

 重要なのは、バレンタインが「女性の側からの愛情の告白」という、それまでの日本の社会の中ではタブーとされていた行動にきっかけを与えたことだけではない。われわれにとってより大きな意味を持っているのは、「真摯な感情の表出」を伴っていたはずの行動が、出発して何年もたたないうちに、「義理」に絡め取られてしまった経緯と、そのことがもたらした停滞だ。この国では、何か新しいことがはじまると、必ず、「義理」という概念が、その新しい何かの発展を阻止しにかかることになっている。「義理チョコ」は、その典型例だ。おかげで、可憐な習慣がひとつ失われ、鬱陶しい贈答儀礼がひとつ増えたわけだ。

 バレンタインの物語が発明された当初、チョコレートが象徴していたものは、「恋愛感情」であり「片思い」であり「隠された本心」であり、つまるところ、「私情」だった。これに対して「義理チョコ」の登場と普及は、初期のバレンタインチョコに託されていた「私情」ないしは「人情」が、「義理」という、より包括的な概念に丸め込まれたことを意味している。

 いまにして思えば、バレンタインのチョコレートは、二つの革命的な変化をはらんでいた。ひとつは、「女の子なんだから」「女だてらに」「女は女らしく」といった言葉で抑圧されてきた女性の感情を肯定したということ。もうひとつは、チョコレートが、男女に限らず、長い間「秘するが花」とされていた「秘め事」であるこの国の「恋愛」を、ハリウッド映画のスクリーンの中にいる男女がそうしているみたいな形で公然化するための公明正大な回路を用意したことだ。その、二つの革命が、「義理」によって、二つながらに踏みにじられたというのが、つまりは、聖バレンタインデーの虐殺の真意だったのだというふうに私は理解している。まあ、大げさといえば大げさな解釈ではあるが。

「義理と人情を秤(はかり)にかけりゃ、義理が重たい男の世界」

 と、歌の文句にもある通り、 わたくしどもこの極東の島国で暮らす人間たちは、古来から、「義理」を「人情」よりも優位な徳目として位置づけてきた。このことが具体的に何を意味しているのかというと、要するに、「私心」よりは「公の建前」を重視し「個人的」な「わがまま」よりは「社会人」としての「たしなみ」に従うのが、あらまほしき大人の生き方だということで、つまるところ、われわれは、「個人」よりも「集団」を大切にするべく条件付けられている生き物なのである。

 ちなみに「義理」という言葉を辞書で引いてみると

《・物事の正しい道筋。人間のふみおこなうべき正しい道。道理。
・対人関係や社会関係の中で、守るべき道理として意識されたもの。道義。 「 -を欠く」 「 -と人情の板挟み」 「今さら頼めた-ではない」 ・他人との交際上やむを得ずしなければならないこと。 「お-で顔を出す」  --以下略--》大辞林(三省堂)より

 てなことになっている。

 「義理」は、独立した「個人」のオリジナルな「内心」ではない。むしろそれを圧殺・否定するものだ。「義理」は、「集団の中の一員」として暮らし、「対人関係」「社会関係」の中で生きる社会的存在としての日本人の、「義務」や「役割」を強調した概念であり、その意味では、「一個の人間の正直な気持ち」「個人的な心情」である「人情」とは、正反対の言葉なのであるからして。

 してみると、「一人の女性として、特定の誰かに対して個人的な恋愛感情を抱いていることを表明する」ための物品であった「チョコレート」が、いつしか「特定の個人にだけチョコレートを配りたいという私情から離れて、集団の一体感の醸成に寄与するべく、行き来のある人間のすべてにまんべんなく行き渡るように配慮した」贈答品である「義理チョコ」に化けたのは、「個人」が「集団」に「人情」が「義理」に、「感情」が「立場」に、「恋愛」が「雇用関係」に敗北した結果である点で、極めて日本的ななりゆきだったということになる。

 最初にちょっとだけ触れた育休の話題も、よく似た経路をたどっている。

 この話題が注目を集めたのは、国民の付託を受けた国会議員の、しかも「母」ではない、「父親」である男性の側が、育児休暇を要求することの意味について、様々な議論が生まれたからだった。

 育休を取ることを宣言した宮崎謙介衆議院議員を応援する立場の人々は、
「国会議員だからこそ」 「男性だからむしろ」  育休を取る意義が大きいという旨の主張を展開した。

 どういうことなのかというと、育休の申請をためらうことの多い一般国民に範を垂れる意味で、指導的な立場の人間であり、メディアの注目を浴びることの多い国会議員が育休を取ることには大きな意義があるということだ。

 それだけ、広報の意味が大きくなるし、
「国会議員が取っているのだから」  ということになれば、一般の職場でも、要求がしやすくなるからだ。  男性が育休を取ることも、同じく、先駆者として、率先垂範の例を示す意味が大きい。  議員同士のカップルである国会議員の男女が、夫婦ともにそれぞれ育休を取ることも、育休制度の宣伝にとって、これ以上ないモデルケースになる。

 というわけで、多くの人々が、金子恵美、宮崎謙介両議員の育休申請を祝福した。
 ここまでは、大変にわかりやすい展開だ。

 無論、反対する人々もいた。
 面白いのはその反対の論拠が、見事に裏返しになっていたところだ。彼らは、 「国会議員であるにもかかわらず」 「男のくせに」  育休を申請するとは何事だ、という理屈で、彼の育児休暇取得に苦言を呈していた。

 国民の付託を受け、税金の中から少なからぬ報酬を得ている国会議員が、自己都合で仕事を休むのは、職場放棄であり、それどころか投票してくれた有権者への裏切りですらある。
 また、仕事に命をかけるべき男盛りの議員が、国家の大業を放り出して家庭に逃げこむ姿は、国民に範を垂れる意味でも非常によろしくない。

 要するに、「コドモなんかにかまけていて男の仕事ができるか」というお話だ。

 賛成、反対、いずれの考えが正しいのかについては、とりあえず、ここでは結論を出さない。

 私が残念に思っているのは、宮崎議員に不倫が発覚した瞬間に、育休の是非を問う議論そのものがまるごと無効化してしまったことだ。

 個人的には、国会議員の育休に関しては、賛成する意見にも反対する意見にも、それぞれ、もっともな論拠があると思っている。「一般企業の育休取得者への不当な風当たりを弱めるためにも、国会議員は率先して堂々と育休を取るべきだ」という意見にはなるほどその通りだと思わせる力があるし、「国会議員の重責を思えば、育休を取りたい気持ちは抑えて、国民に奉仕するべきだ」という見方にも、一定の説得力はある。

 とすれば、両陣営が議論を深めることは、双方にとって望ましい展開だった。私自身、個人的にも、一刀両断の結論が出るのかどうかはともかく、育休について、幅広い立場の人々がこの議論に参加したことの意味は小さくなかったと思っている。

 ところが、議論は、当該の議員に「ゲス不倫」が発覚するや、突如、シャットダウンされた。

 実にバカな話だ。
 いや、心情的にはわかる。

 育休議員を英雄扱いにして持ち上げていた人たちにしてみれば、ハシゴを外された気持ちなのであろうし、育休議員を職場放棄の徒として論難していた人々からすれば、「そらみたことか」というお話になる。どっちにしても、「育休の是非」というお話は、吹き飛んでしまう。そこのところの行きがかりは大いに理解できる。

 でも、心情的にはともかく、育休の是非とそれを申請する人間の品格の高低は、議論のスジとして、まったく別の話だ。ここのところは切り分けて議論しなければいけない。

 育休は、労働者の「権利」だ。
 「権利」である以上、あらゆる労働者に保障されていなければならない。
 逆に言えば、すべての人間に与えられているのでなければ、それは「権利」と呼ぶことはできない。

 今回のケースは、「権利」ということについて、良くない誤解を与える結果をもたらしている。
 すなわち「権利を行使するには、それなりの資格が必要だ」という誤った理解を世間に流布しているということだ。
 ということになると、「育休」への理解は、むしろ後退する。

 今回のすったもんだを通じて、「育休議員」がヘタを打って、「議員の育休」という問題提起自体が、思い出すのも恥ずかしいお笑い種になってしまったことは、返す返すも残念な展開だ。おかげで、「育休」は、「すべての労働者に与えられた権利」であるという本来の意味を喪失して、「育休に値する労働者だけが育休を許される」という「条件給付」の地点に泥まみれで放置される結果となっている。

 このままだと、「育休」は、労働者があらかじめ持っている「権利」ではなくて、雇用者からご褒美として給付される「温情」だという解釈が定着することになる。
 というよりも、すでにそうなっているのかもしれない。

 今回の一連のなりゆきは、「私心の発露」として出発したバレンタインチョコが、集団主義の圧力にヘコまされて、いつしか「贈答義務の遂行」という、「義理チョコ配布行動」に変貌した経緯と、なんだかとても良く似ている。かように、うちの国では、権利として要求されているものが義務に変質し、自己表現として出発したものが集団意思への同調に化けるみたいな不気味な事例が、ずっと昔から絶えることなく続発している。

 古い考えの政治家の中には、もともと
「権利の取得は義務の遂行と引きかえに与えられるものだ」
「権利と義務はバーターです」
「権利だけを主張する人間は卑怯だ」
「天賦人権説は人間を堕落させる」
 という考え方が、牢固として根を張っている。

 彼らのアタマの中には、まず、国民としての義務があって、その義務を果たさない人間に、権利などあってたまるものかと思っている。

 いまから4年ほど前、世耕弘成議員が、ある雜誌に、生活保護を受給している国民について「権利の制限は仕方ない」とする内容の文章を寄稿したことがある(こちら)。

 この中で、世耕氏は、「フルスペックの人権」という言葉を使って、生活保護受給者が給付金の使い途を自分で決めることへの違和感を表明している。驚くべき言い回しだと申し上げなければならない。つまり、ここで、世耕さんは、「人権」を、「スペック」という暫定的な属性というのか、条件次第で増減する給付対象であるかのように描写しているわけで、これは、「天賦人権説」の否定と言われても仕方の無い議論だ。

 ちなみに、片山さつき議員も、自民党の憲法草案を解説する流れの中で、「天賦人権説」を否定している(こちら)。

 いまさら私があきれてみせたところでどうなるものでもないと思うので、特に論評はしない。

 片山議員や世耕議員のような考え方は、おそらく、自民党議員の中で、多数派を占めているはずだ。主語を日本国民に変えてみても、おそらく事情は変わらない。もしかしたら、「権利は義務とワンセットでしょ?」と思っている人間が多数派で、天賦人権説を教科書通りに信じている国民の方がむしろ少数派なのかもしれない。

 育児休暇を、「それに値する人にだけ与えられる特権」ぐらいの位置にとどめておく方が、現場はうまく回るはずだと考えている労働者や経営者は、おそらく少なくない。たしかに、

「○○さんは、ふだんからあんなに頑張っているんだから、育休ぐらい取らせてあげようじゃないか」

 と、職場の同僚の誰もがそう考える人だけが育休を取るのであれば、色々とうまく行くようにも見える。
 でも、実際には、

「ふだんから他人の分まで余計に働いて頑張っている人」

 は、普通に考えて

「いきなり休まれたら職場が大混乱に陥る非常に重要な同僚」

 でもある。
 つまり、職場的には、「休む資格のある人」は、同時に「休まれたら困る人」でもあるわけで、結局のところ「育児休暇」は、チョコレートがそうされたのと同じように、世間の「義理」のガバナンスに委ねられることになるはずなのである。

 一方、「ふだんから適当にやっていて、とてもじゃないけど、子供ができたからって、休みを与えて仕事を肩代わりしてやるつもりになんかなれない」同僚は、「休んだからってたいした影響もない」労働者でもある。

 結局、「権利」について、「資格」を問う議論をすることは、不毛であるのみならず、有害なのだ。

 育休議員は、立派な人ではないのかもしれない。
 が、育休は、立派な人でなくても、有用な労働者でなくても、同僚に好かれていなくても、子を持つ労働者のすべてが差別されることなく、堂々と、当然の権利として、申請・取得できるものでなければならない。

 そうでないと、「育児休暇」は、「ぬけぬけと申請する図々しい奴だけが取得する呪われた権利」になってしまう。

 個人的には、権利を取得するものが、感謝し、アタマを下げるべきで、給付を受ける国民が、うしろめたい感情を抱き、自らを律し、こそこそと下を向いて生きるべきだという感覚には、「義理」の感覚が強く作用していると思っている。

 義理堅い人間が損をすることになっているからこそ義理を果たす人間が尊敬を集めるというなんだか空恐ろしいこのディストピアで、義理を踏みにじる生き方を貫徹しようとしている私は、意気地なしに与えられる休暇が設定されていないことにとても疲れている。
 ずっと昔
「義理ならいらないよ」
 と、言った私に
「何言ってんの? 温情に決まってるじゃない」
 と言った女性がいたが、彼女は間違っていたと思う。
 心優しい人間は、時にはウソをつかなければならない。

「ズッ友チョコ」(ずっと親友だよ、という意味)を見たとき
男子にとって最悪の義理チョコかもと思いました。

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