異例の「白紙撤回」から、やり直しコンペを経て、隈研吾らによる新国立競技場の整備案が選ばれた。「負ける建築」を掲げる建築家が目指すのは、アートでもない、とんがってもいない、「木の建築」だった。本人の口から、その覚悟を聞く。

新国立競技場は波乱のプロジェクトとなりました。ザハ・ハディッドによる当初の案が“白紙撤回”。やり直しコンペには、どんないきさつで参加することになったのでしょうか。

:ザハ案がまさかキャンセルされるとは、思いもよりませんでした。国が関わる公式なコンペで選ばれたデザイン案が白紙撤回されるなどという事態は、通常は起こり得ません。しかも、やり直しコンペは、設計段階から施工業者が設計者とチームを組む「設計・施工一括方式」(いわゆる「デザインビルド」)で、大手ゼネコンが名乗りを上げれば、自分のような個人の名前で仕事をしている建築家にお呼びがかかるとは思えなかった。だから、突然、大成建設から「一緒にやりませんか」と連絡をもらったときは、心の中で「えーっ?」と驚きました。

青天の霹靂だったわけですね。

:にわかには信じてもらえないかもしれないけれども、ザハ案が選ばれた最初のコンペのときは、参加しようとまったく思わなかった。まずコンペの応募条件が、プリツカー賞やAIA(アメリカ建築家協会)ゴールドメダルといった、大御所しかもらえない賞の受賞者、あるいは大規模スタジアムの実績がある者、と書いてあった。どっちにしろ、ぼくなんかはお呼びじゃないな、と(笑)。

<b>隈 研吾(くま・けんご)</b><br />1954年、横浜市生まれ。1979年、東京大学工学部建築学科大学院修了。米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年より東京大学教授。
隈 研吾(くま・けんご)
1954年、横浜市生まれ。1979年、東京大学工学部建築学科大学院修了。米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年より東京大学教授。

最初のコンペではあっさり不参加を決めたけど、やり直しコンペでは声がかかった、と。

:自分がお呼びじゃないプロジェクトに応募して、何カ月もがんばって図面を描いても、報われる可能性は極めて低い。それより、ぼくは「呼ばれたらやる」という受け身のスタンスに徹しているんです。

 もちろん、この建物が日本にとって記念碑的に重要であることはわかっていました。それに、ぼくは1980年代から外苑前に事務所を構えていて、国立競技場のあたりは通勤路でもあるので、ザハ案への賛否をめぐって世間が騒がしくなると、いろいろと気になることが出てきた。同時に、建築家の責任が過剰に槍玉に挙げられるような状況を見るにつけ、「これは他人事ではない」と、だんだんと思うようになってきたんです。

国立競技場には何か個人的な思い入れはありますか?

:学生時代は、国立競技場の隣にあった「外苑テニスクラブ」に通い詰めていました。昼はそこでテニスをやって、夜は競技場の中に併設されていた「スポーツサウナ」という名前のジムに行くんです。学生が通えるぐらい安く利用できるお気楽なサウナでした。運動して、サウナで汗を流して、ビールを飲み、ラーメン食べて、また図面を描いていました。

すごい名前のジムですね(笑)。

ザハ建築を見て自分の進むべき道を知る

:それだけいろいろと思い出のある場所に、コンペ案のような巨大なとんがった建築物ができるということには、正直、胸がざわつきました。建築の設計コンペで、最終的な数社に残ることを「ショートリストされる」と表現しますが、ぼくらもザハ・ハディッドの事務所とは、いろいろな機会でショートリストされて、何回も負けてきました。

 ザハの打ち出す建築は、図面や模型で見たときに、「ああ、ユニークですごい!」と、思わされる迫力があります。最近では、台湾の橋のコンペ、それからイタリア・サルディニア島のミュージアムや、イスタンブールのアーバンデザインのコンペでも、ザハに負けています。

確かに、新国立競技場のデザイン案も、インパクトや迫力がありました。

:一方で、ぼくが目指すのは図面や模型ではなく、現実に体験したときに実感できる「質」です。人間の実感に重点を置くからこそ、建物をわざわざ低くしたり、地味な形にしたりします。そこをコンペの図面の段階で理解してもらうことは、簡単ではありません。でも、ザハ・ハディッドというきわめてパワフルな建築家とコンペで対戦したからこそ、「自分の道」をつきつめることの大切さが、あらためてわかったのです。ぼくはぼくの道を行くべきなのだ、と。

:今回の新国立競技場は、奇跡のように、たまたまぼくのところにやってきました。最初のコンペには、参加すらしなかったのですから。でも、そのまま通り過ぎても、よかったんです。ほとんどの場合は、通り過ぎていってしまいます。その中で、ごくたまに、こうして神さまが気まぐれを起こすのかもしれません。

建築家が「受け身」のスタンスというのも意外な気がします。日本では、仕事は自分からもらいに行くもの、積極的に相手に飛び込んでいく心意気が大切だ、という考えが一般的ではないでしょうか。

:海外で仕事をする機会が増えるにつれて、自分から売り込んでいくスタンスはネガティブに作用すると思うようになりました。海外では、自分から「やりたい」とクライアントに向かって行くと、「この人は仕事がほしいんだ」と、甘く見られて、値切られたり、いじめ抜かれたりと、ろくなことが起こりません。

 日本では、仕事をしたければ、誠意をもって相手にお願いに行き、仕事を「いただいた」ら、あとは下僕(しもべ)になって、すべてを捧げる(笑)。日本の市場はパイが小さいので、濃密な人間関係が成立している環境では、「お願いにあがって、仕事をさせていただく」というマナーが効くのでしょう。しかし、世界市場という大きなパイでは、こっちからお願いに行ったが最後、自分の立ち位置は不利になる。そのため発言権が与えられず、いい仕事ができなくなるのです。

新国立競技場のやり直しコンペで選ばれた「A案」は木を使ったデザイン。木の庇(ひさし)が重なっていて、やさしい影を作り、庇の上部には野の草が植えられている(大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所JV作成/JSC提供)
新国立競技場のやり直しコンペで選ばれた「A案」は木を使ったデザイン。木の庇(ひさし)が重なっていて、やさしい影を作り、庇の上部には野の草が植えられている(大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所JV作成/JSC提供)

 建築家に限らず、日本のビジネスパーソンは、これからは仕事をもらいに行ったらいけない(笑)。会社員であっても、フリーランスであっても、自分の技を磨き、自分の仕事への信頼を周囲から獲得する。そうすれば、自らお願いに行かなくても、いい条件で仕事を頼まれるようになっていきます。少なくとも、そう信じてマインドセットした方がいい。「何でもやりますので、仕事をください」では、現実はジリ貧になる一方です。

とはいえ、プロジェクトが始まったらどうでしょう。受け身のスタンスでチームをまとめられるのでしょうか。新国立のプロジェクトではどうでしたか。

建築家の“自己主張”がプロジェクトの妨げに

:やり直しコンペの締め切りまで、2カ月半しかありませんでした。それなのに、建築家が「オレが、オレが」というスタンスでいたら、あっという間に時間切れになってしまいます。プロジェクトでは、大成建設と梓設計の人たち数十人でチームを組みましたが、なにしろ建築界においてすら、建築家という人種の定義は「ヘンなことを言い出して暴走する人たち」ですから(笑)。

 チームメンバーの懸念を払拭するために、最初のころはとにかく聞き役に徹しました。すると、メンバーから「今はこういう工法があります」「この場合は、こんな方法が使えます」と、最新の技術実例や、いろいろなアイデアが出てきます。一方で、最初からいきなり「この建物はこうすべきだ」と建築家が決めつけてしまうと、メンバーが遠慮し、あきらめて、「了解です。これでいきましょう」などと言うようになる。あとは日本的な「ことなかれ主義」に陥って、どんどんダメな方向に流れてしまう。

目に浮かぶようです。

:どんなプロジェクトでも最初は、“落としどころ”なんて見えないわけです。そんなときは、邪魔な発言をせず、うなずいたり、「うーん、どうですかね」と、ボソボソと話す。すると、みんなが遠慮せずに自由に意見を言える空気が生まれる。そして、「なんか、それ、違いませんか?」という意見がメンバーから出てくると、ぼくは逆にすごくうれしいんです。

なるほど。「受け身」はチームマネジメントでも生きてくるのですね。2カ月半で案をまとめる中で、「これならいけそうだ」と手応えを感じた瞬間は?

:建築の設計にあたって、ぼくがいつも意図していることが二つあります。一つは「なるべく建物の高さを低くしたい」ということ。もう一つは、「地元の自然素材を使いたい」ということ。単純なんです(笑)。

 ザハ案の新国立競技場は、建物の高さが75メートルと、非常に高く設定されていました。やり直しコンペでは、それをどこまで低くできるか、というのがチャレンジでした。屋根を支える構造を単純化して、3層になっている客席の各階の高さを切り詰めていくと、全体の高さが「49メートルまで下げられる」と構造チームから聞いたとき、「よし、いける」と、初めて自信のようなものが湧き上がってきました。ちなみに、旧・国立競技場では、照明の上部が60メートルの高さでした。

「地元の自然素材を使う」といえば、新国立では木がふんだんに使われているデザインになっていますね。

:やり直しコンペの要項には、「我が国の気候・風土・伝統を現代的に表現するスタジアム」という文言があります。そのため、大成建設サイドはぼくの名前を思いついたのではないかとも推察します。というのも、近年では、新潟県長岡市の市庁舎の「アオーレ長岡」(2012年)や東京都の「豊島区役所」(2015年)が、大成建設と一緒に手がけたプロジェクトで、いずれも従来の公共建築とは違って、木をたくさん使っています。

 アオーレ長岡は、地元産の越後杉をふんだんに使い、中央に「ナカドマ」と名付けた農家の土間のような温かみのある中庭空間を設けています。ナカドマには毎日のように、おじいちゃん、おばあちゃん、学校帰りの小中学生、高校生、子育て中のお母さんたちが集まって、来訪者数は年間で120万人に達していると聞いて驚きました。そのにぎわいを見て、大成建設はぼくの作風を、「今の時代に市民から愛される建築」として評価したのかもしれません。

木を使った公共建築というのは増えているのでしょうか。やり直しコンペで対抗となった「B案」も木を使用したデザインでした。

:今、建築界では、「日本的な工法」や「木を使うこと」に関して、積極的な追い風が吹いています。この十数年の間に、木造建築物の耐火技術が著しく進んだことを受けて、法令の改正や、木造の大型公共建築物への支援制度が各段に整いました。

 「木の建築」が求められているのは、日本だけではなく、世界的な傾向です。例えば現在、ぼくの事務所では「スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)」の校舎を、木造のデザインで手がけています。また、オレゴン州ポートランド「ジャパニーズガーデン」の再整備プロジェクトでは、建築材料として地元の木材を多く使う予定です。

東京・青山の隈研吾建築都市設計事務所にて
東京・青山の隈研吾建築都市設計事務所にて

「木の建築」に人々は飢えている

やはり、木の持つ温かさや安心感に人々は飢えているのですね。もちろん、木を使えば二酸化炭素の排出量という環境面でも大きなメリットがあります。

:それに、木を使うことで経済的なメリットも得られます。今回の設計では、外壁には杉、屋根を支える構造には唐松を使っています。どちらも国産で、しかも手に入りやすい。ゆえに価格も安い。たとえば杉の羽目板は幅10.5センチで、最も安い流通材です。町工場でパネル化すれば、そのまま現場に持っていくことができます。屋根の唐松は高さ33センチのこぶりな集成材で、加工に特別な設備はいらず、どんな小さな集成材工場でも作ることができます。

 「小さな工場で普通に使われている地味な技術」というのがポイントだと思っています。というのも、現在は技術革新によって、「大型木造」という概念も建築界に広まってきました。大型木造は、木を貼り合わせてコンクリートのような巨大な集成材を作って建物を建てるやり方で、コンクリートの形態を木に置き換えただけ。そういった大型木造は、最先端の工場でしか作れないのです。

そういえば、「B案」では、長さ約19メートル、太さ1.3~1.5メートルの木製の柱72本がスタジアムを囲む、となっていましたが、これがいわゆる大型木造でしょうか。

:B案のシンボリックな柱には強い違和感を覚えました。それよりも、「小さな技術」の繰り返しで8万人収容の大きなスタジアムを作るというチャレンジのほうに、心が惹かれます。それこそがデモクラシーではないでしょうか。21世紀のデモクラシーとは、木の中にひそんでいるんです。

隈 研吾(くま・けんご)
1954年、横浜市生まれ。1979年、東京大学工学部建築学科大学院修了。米コロンビア大学客員研究員を経て、隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年より東京大学教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞。同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。2011年「梼原・木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『負ける建築』『つなぐ建築』『建築家、走る』『僕の場所』、清野由美との共著に『新・都市論TOKYO』『新・ムラ論TOKYO』などがある。(写真:鈴木愛子、以下同)

※この連載は、書籍『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか』 の内容を再構成したものです。

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