英国がEUから離脱する、と、国民投票で決まった。
 なんと言っていいのやら。適切な言葉が見つからない。

 Webを掘り進めて、各メディアに掲載されている解説記事を読んで、内外の有識者のコメントに耳を傾ければ傾けるほど、何が起こっているのかがわからなくなる。

「何を言ってるんだ。結論は極めてシンプルじゃないか」

 と言う人がたくさんいることは知っている。
 そういうふうに自信を持って断言できるタイプの人は、おそらく日本で同じような国民投票が行われることがあったのだとしても、同じように自信に満ちた態度で一方の結論を選ぶのだろう。

 私はそういうタイプではない。
 わからないことはわからない。

 しかも、直感で理解できないことについては、考えれば考えるほどわからなくなる。昔からそういうことになっている。

 なので、現時点では、英国のEU離脱そのものについて何かを言おうとは思っていない。
 どちらかといえば、彼の地の国民投票がEU離脱を選択する結果に落着したことへの、内外の反響から浮かび上がってくる感慨についてあれこれ書いてみたいと思っている。

 まずひとつ目は、今回の投票結果を踏まえて「ポピュリズムの怖さ」という言い方が蔓延していることの不気味さについてだ。

 もう少し詳しく言うと、ここしばらく、メディアに載る記事やテレビの中で紹介されるコメントの中で「民主主義」という言葉と「ポピュリズム」という言葉が、無造作に使い分けられている感じがして、そのことがずっと気になっているということだ。

 なんというのか、投票や世論調査の結果で、望ましくない結果が出た場合に、その結果をもたらした調査の過程や投票の背景を「ポピュリズム」という言葉で分析している同じ人間が、望ましい投票結果については、「民主主義の勝利」「民意の重い選択」という言葉でそれを賞賛している感じがしているわけです。

 悪い結果はポピュリズムの作用で、良い結果は民主主義の成果だと言っているその人たちの中で、両者の区別はついているのだろうか。区別がついているのだとして、その区別の根拠は、自分にとっての結果の好ましさ以外に、何があるのだろうか。

 「民主主義」と「ポピュリズム」を分かつものの正体について、はっきりとした言葉で言及している人は少ない。

 実際、メディアを通してものを言う人間にとって、このあたりの議論は墓穴になりかねない。

 なんとなれば、「民意」や「民主主義」とされているものについてうっかりものを言うと、「愚民蔑視」「大衆蔑視」「選民思想」と決めつけられてしまうからだ。

 なので、多少とも世間知を持った人々は、通常、民意や民主主義や投票結果に苦言を呈する時には、「ポピュリズム」という言葉を使う。そう言っておけば、少なくとも表面上は、民主主義を批判したことにならず、その主体である民意を否定したことにもならないからだ。

 マズいステーキを食べさせられた客が、それまで「熟成」と言っていた言葉を翻して、「鮮度」という言い方でシェフを罵倒する態度に似ていると言えば似ている。

 民主主義自体を、直接マナイタに載せる論者もいると言えばいる。 
 舛添要一前都知事がテレビのワイドショーや週刊誌上で総叩きに遭っていたタイミングの6月16日に、古市憲寿という社会学者が、以下のような一連のツイートを配信している。

《舛添騒動を見ていて浮かんでくる言葉は「これが民主主義だ」。メディアスクラムはある面では事実だけど、それが視聴率や部数を稼ぐのも事実。メディアはみんなが見たいものを伝えてきただけ。そう、これが民主主義だ。》(こちら

《まあだから、都知事選にまた50億円かかるのも、次の知事ももしかしたらまた2年くらいで辞めて50億円かかるのも、そのときワイドショーで「舛添さんのほうがよかった」みたいな声があがるのも、まあ仕方ないと思いますよ。これが民主主義だから。》(こちら

《小さな悪が吊るされる炎上社会がどうなのという話もあるけど、それは裏を返せば社会を揺るがすような大事件がこの数年起きていないということでもある。当事者にとっては凄惨で辛くても、サリン事件や311並みの事件や災害が起こってないから、小さな悪が標的にされるわけで。》(こちら

《どんな社会にもお祭りは必要で、確かに舛添さんによってここしばらく社会は一つになってたもんなー。誰とでとその話題ができるという意味で。》(こちら

 古市氏の中に、字義通りに受け取れる内容以外のどんな意図があったのかは私の知るところではないのだが、一読者として、一連のツイートの行間から大衆蔑視のニュアンスを感じ取らないでいることはむずかしい。

 書いてある通りのことを素直に読むと、古市氏は、

「舛添騒動を愚劣だとか言ってるインテリの皆さんは民主主義をやたらと称揚している人たちでもあるわけだけど、でも、舛添さんみたいな人をリンチにかけて楽しむことこそがあなたたちの大好きな民主主義の実相なんじゃないの?」

 的なぶっちゃけ発言をカマすことで、世間の有識者から一本取ったつもりでいるかに見える。

「いや、いくらなんでもそこまでバカじゃないだろ」
「中学二年生のシニカルなオレ様カコイイ日記じゃあるまいし」
「社会を嘲笑する社会学者って、動物虐待をやらかす動物学者より始末に負えないぞ」
「深読みする必要ないだろ。一段高いところに立ったものの言い方をしてみたかったってだけだよ」

 あえて親切な読み方をすればだが、古市氏は、「民主主義」という言葉が聖域化している現状を揶揄する意味をこめて、あえて「ポピュリズム」という言葉を使わずに、民主主義の危うさを指摘したのかもしれない。

 「民主主義民主主義ってあんたたちは宗教みたいにありがたがっているけど、君らの言う民主主義っていうのは、まさに舛添リンチ報道を主導しているこれのことだよ」
 と。
 とすれば、その見方には一理あると思う。

 たしかに、民主主義は万能ではない。うっかりすると典型的なポピュリズムに陥る。そうでなくても、常に正しい選択をしているわけではない。むしろ結果から見て、誤った選択肢を選ぶケースの方が多いのかもしれない。

 とはいえ、時に誤った選択をし、少なからぬケースで感情にかられた決断に傾くのではあっても、それでも民主主義は、権力の暴走への安全弁として、確保しておかなければならない最後の砦ではある。

 賢明で寛大で隅々まで目の届く独裁者が下す決断の方が、素早く、合理的で、なおかつ多くの場合正しいのだとしても、権力が属人的な振る舞い方をすることの危険性は、やはり無視できないからだ。

 私が、いまここで、民主主義について、教科書に載っているみたいなきれいごとを並べ立てていることに関して

「なにをいまさら」
「お花畑チューリップ帽子演説おつかれ」
「はいはい、民主主義サイコーね」
「ソレ、デモクラ音頭でタコ踊りったらアヒャヒャノヒャ」
「こいつのお説教が終わったら起こしてくれ」

 的な反応を示している読者は、少なくないはずだ。
 彼らは「きれいごと」がきらいだ。

 そして、その「きれいごと」が大嫌いな彼らにとって、ユナイテッド・キングダムでこのたび起こっている出来事の一部始終は、民主主義というきれいごとがまさにその馬脚をあらわしている意味で一大痛快事ということになる。

 私が憂慮しているのはそこだ。
 EU統合の理念が傷ついたことも問題なら、連合王国の枠組みが崩壊の危機に瀕していることも大問題だし、それらとは別に世界経済がこの先しばらくの間混乱しつづけるであろうことも、大変に心配な事態ではある。

 ただ、私は、そうした表面上の影響よりも、今回の国民投票を通じて、「民主主義」という看板への信頼が毀損されたことが思いの外大きな損失で、今後、このことは、民主主義を軽んじることになるわれわれ自身へのしっぺ返しとして静かに進行するのだろうと思っている。

 民主主義のような理念は、それが万人に信頼されることによってはじめて正しく機能する設定になっている。

 その運用のされ方は、不換紙幣が信用によってその価値を保っている姿に似ている。
 説明する。

 日本銀行が発行している貨幣(紙幣)は、日銀を含む金融システムへの絶対の信頼を前提としてその価値を維持している。たとえば、日銀が消費税込みの108円硬貨だとか1万800円紙幣を発行するみたいな頭の悪い施策を連発して、信頼を失ったら、貨幣は貨幣としての価値を失うことになり、経済システムはその日から機能しなくなるだろう。

 同じように、デモクラシーを基本に据えた統治システムも、民主主義的な選択という最も根本的なところについて、われわれが疑念を持ちはじめるや、その安定性を減ずることになる。

 国民投票によって「愚かな」(少なくともそう見える)決断を下してしまったのが、ほかでもないわが国の議会制民主主義のモデルとなった国である英国であった点もなかなか痛い。

 ネットの書き込みを見ると、英国の投票結果を見て勝ち誇っている人々がたくさんいることがわかる。

 彼らは一体何に勝ったのだろうか。
 たぶん、「良識」に、だ。

 いけ好かないインテリや、いい子ちゃんぶりっ子のマスコミの連中が二言目には説教ったらしく振り回している伝家の宝刀たる民主主義がものの見事にやらかしたのだから、これが痛快でないはずがない。

「おお、民主主義やるじゃないか」
「まったく民意さんったらお茶目なんだからぁw」
「昨晩からUK祭りで寝てません。楽しすぎます」

 という感じの彼らのはしゃぎっぷりは、必ずしも対岸の火事だからという理由だけで亢進しているものではない。

 彼らは、自分たちの嫌いな「良識派」や「インテリ」や「マスコミ」や「おサヨクさま」がうろたえる事態なら、なんであれ歓迎するのだ。

 民主主義の根幹を支える「民意」の一部には、常に破滅を志向する人々の呪詛が含まれている。

「ざまあみろ」
「そらみたことか」

 という、見物人を喜ばせる誰かの転落は、どんな場合にでも一部の人々を狂喜させる。
 舛添騒動に寄せられた古市氏のツイートの中にも、そのことを指摘した部分があったのだが、ここで大切なのは、

「どんな社会にもお祭りは必要で、確かに舛添さんによってここしばらく社会は一つになってたもんなー」

 と、クールに指摘しているこの言葉自体が、実は生け贄を屠る「祭り」の一部分になっていることだ。結局、彼のツイートは

「ボクは、そこいらへんの良識派なんかじゃないよー」
 という、半笑いのマニフェストを含んでいるわけで、「祭り」には、この種の自己肯定が欠かせなかったりする。

 で、その「祭り」が、民意の中で一定以上の影響力を持つに至った時、民主主義は自壊する。

 古市氏の一連のツイートは、舛添リンチ報道を揶揄するとともに、そのリンチ報道の非道を嘆いてみせる良識派の言いざまをも嘲笑している点で、二重の意味の呪詛を含んでいる。

 そして、これら「祭り」全般に見られる「呪詛」(他人の不幸を望み、他人の失敗を嗤う心情)こそが、現代のポピュリズムを、単なる人気者万歳の脳天気なものから、より悪質なものへ変化せしめた正体なのだ。

 今回、いわゆる有識者のコメントの中にも「ポピュリズム」批判を通じて、「民主主義」への疑念を示唆するものがいくつか見られる。

 特にワンイシューについて直接国民の声を聴く制度である「国民投票」には、数多くの疑問の声が寄せられた。

 私自身、二者択一の選択を迫るタイプの国民投票(住民投票)は、

  1. 投票者(国民や住民)の感情を煽る政治宣伝が横行する。
  2. 議論が単純化し、両極化し、敵対化し、相互不信化する。
  3. 投票が終わった後に、分断と対立が尾を引く。
  4. 現状維持と改革の二つの選択肢が提示された場合、現状維持を求める人々よりも、改革を志向する人々の方がより高い確率で投票所に足を運ぶことになる。
  5. ワンイシューの課題とは別の理由で、単に現状への不満のはけ口として現状否定の結論を選ぶ有権者が一定数現れる。

 といった理由から、穏当な結果に落着しにくいと考えている。その意味では、安易な国民投票(住民投票)の乱発には賛成したくないと思っている。

 だが、それはそれとして、私は、英国の結果を見たネット民が、英国民を嘲笑し、民主主義の敗北に快哉を叫ぶ姿に、とても「いやな感じ」をおぼえている。彼らが愚民を罵倒し、低学歴を揶揄し、貧困層を攻撃し、移民に対して残酷な言葉を投げかけているのを眺めながら、民主主義が後退している実感を拭い得なくなっていると言っても良い。

 民主主義を無効化するのが愚民の存在である点については、彼らの言う通りだ。
 たしかに、愚民による民意が政策を動かすに足る力を持った時、民主主義は衆愚政治に姿を変えるのだろう。

 しかし、では、どんな考えが有権者を愚民に変えるのかといえば、おそらくそのうちの最も大きなものは、愚民蔑視思想であるはずなのだ。

 もう一歩踏み込んだ言い方をするなら、愚民とは愚民を蔑視している当の本人を指す言葉だということになる。

「愚民どもに政治の実権を握らせてたまるものか」
「愚民を排除しないとこの国は滅亡する」

 というこれらの言葉の「愚民」を「移民」に入れ換えても、スローガンの意図はほぼ変わらない。そして、このスローガンは、世界中の街角で叫ばれ始めている。

 英国で起こった今回の出来事を、私は、終始、「もしうちの国で同じようなことが起こったら」という目で見ていた。
 で、投票の結果を確認した上で、現在私が抱いている感慨は、大変に暗いものだ。

 英国をはじめとするヨーロッパ諸国と比べて、移民がもたらす摩擦や軋轢が圧倒的に少ないわが国において、排外的な活動が一定の支持を集めているというこのことだけを見ても、私は、近い将来、この国で実施されるかもしれない国民投票の結果を楽観できない。当然だ。私たちの国には愚民を排撃しようとする人間が多すぎる。

 そして彼らの数が増えた結果も、まごうかたなき「民主主義による決定」だ。

 とりあえずは、東京都知事選に立候補している有名な排外主義者がどの程度の票を集めるのかを注目している。
 票数によっては、荒川の向こう側に移住することも検討しなければならないと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

現地の分離派は「やっちゃった…」と
青ざめているそうですが。

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