天皇陛下が「生前退位」の意向を示されているというニュースが、突然流れてきた(こちらこちら)。

 久しぶりに心底から驚いた。
 動揺した、と申し上げても良い。
 とっさに考えたのは、

1.どうしてこのニュースがNHKのスクープだったのか。
2.共同通信の記事では、ソースが「政府関係者によると」になっているが、どういうことなのか。
3.そもそも「生前退位」というのは何か? 法制上の問題はないのか?

 といったあたりのことだった。
 で、自分なりに考えてみたのだが、よくわからなかった。

 私のアタマの中にあらかじめ備わっている知識では、歯が立たない。といって、どこをどう調べれば正しい情報にたどりつけるのかもわからない。ネット上には、直後から、色々なコメントが流れはじめていたが、どの書き込みを信用して良いのかについても、結局のところ、判断がつかない。

 お手上げだ。
 しばらくすると、宮内庁の次長が「報道の事実は一切ない」というコメントを発表したというニュースが流れてきた(こちら)。

 ん? 意味がわからない。状況が把握できない。またひとつ疑問が増えた。

4.NHKのニュースの約1時間後に、宮内庁次長が「報道の事実は一切ない」と述べている。何が起こっているのか。

 憶測すれば、いくつか仮説を並べることはできる。 
 しかし、これは、そういう問題ではない。私のような者が、あれこれと大御心を忖度したり、宮内庁内部の綱引きのありようを推理したところで、何の役に立つわけでもないのみならず、ものの言いよう次第では、有害な結果すら招きかねない。

 何か言うのだとしても、もう少し事実関係がはっきりしてからでないと、混乱に拍車をかける結果になる。
 いずれにせよ、しばらくは黙っているほかにどうしようもない。

 今言ったこととは別に、この種のこと(皇室に関する思い)は、そもそも他人に話すべきことではないのかもしれない。個人的にはそんな気がしてきている。

 なぜというに、皇室の問題は、制度や法律の問題である以前に、個人の内部にある感情の問題で、だとすると、それは安易に他人と共有できるものでもなければ、共有するにふさわしいものでもないはずだからだ。

 これからしばらくの間、私は天皇について様々な可能性を考えることになるだろう。
 でも、そうやって考えた内容や結果を、私は、誰にも伝えないかもしれない。

 私は、ずいぶん前から、皇室に関する事柄は、ひとり一人の日本人の心の内部に、極めて個人的な感情として根を張っているものだと考えるようになっている。それゆえ、その個々の国民の皇室への個人的な思いを「集団的に」扱おうとする態度には、警戒心を抱いている。

 皇室への感情は、少なくとも私にとってはプライバシーの範囲内にあるものだ。
 愛国心と同じく、それは、パブリックな問題ではない。
 たとえは悪いかもしれないが、それらは、私にとって、他人に公開すべきものではないという意味で、性生活と同じ箱に入っている。 

 賛成しない人もいるだろうが、自分がそういうタイプの羞恥心を持つ人間であるということについて、私は、他人にとやかく言われたいとは思っていない。

 この国の(というよりも、東アジアの国々の)為政者や公的な立場のリーダーは、いつも私的な事柄を公的に扱おうとして、過ちを犯すことになっている。

 別の言い方をすれば、「リーダー」と言う言葉を、「他人の感情をコントロールすることを許された人物」と脳内翻訳してしまうタイプの思い上がった人間が立候補するのが昔からの東アジアの選挙の定番だということでもある。

 というわけで、この話は、おしまいにする。
 今回は、せっかくなので、リーダーと家族に関連する話をする。

 天皇陛下の生前退位をめぐるニュースの数時間前、都知事選に関連して
「都知事選 自民、増田氏以外の応援処分」
 というニュースが伝えられた(こちら)。

 都連の候補者選びには、色々と言いたいことがある。
 自民党の候補者選びも、民進党(および野党共闘)の候補者探しも、最後までドタバタが続いて、大変に見苦しかった。

 いずれの党も、党中央と都連の思惑に食い違いがあることと、政策本位で選ぶ候補と知名度ありきで推したい候補が食い違っていることもあって、結局、最後まで一本化するのに苦労した。

 一本化できないことそのものは仕方がないのだとして、候補者の名前が変わる度にそれまで言ったことを変えるのは、政党としてあるまじき姿だったと思っている。都連の人間と党本部の人間が、同じ時期に違う候補を立てようとして相互に矛盾する情報を流してしまい、それが表面化したことも、都連のガバナンスの貧弱さを天下にあまねく知らしめる意味で、良い恥さらしだったと評価せざるを得ない。

 最初から経緯を見ていた都民はほとほとうんざりしたはずだし、一連の茶番劇に投票意欲を失いつつある有権者も少なくないはずだ。

 そんなわけなので、誰が当選するのかはともかく、投票率が史上最低を記録することだけは現段階で断言して差し支えないと思う。あまりにも馬鹿げている。

 記事に戻る。
 一読して、なによりも驚かされるのは、都連が、議員の親族が非推薦の候補者を応援するような政治活動を禁止している点だ。

 禁止できると、彼ら彼女ら(以下煩瑣なので “彼ら”と書きます)は本気でそう考えたのだろうか。
 これまた、あまりにも馬鹿げている。
 というよりも、一点の曇りもない馬鹿のやりざまだ。

 自民党の東京都連は、来たる都知事選において、都連に所属する国会議員や地方議員(都議会議員、区議会議員など)に対して、党が推薦していない候補を応援した場合に除名などを含む処分を科す旨の文書を配布している。問題は、その文書の「下記に揚げる事項を厳守し」としてナンバリングして列挙した、「記」の部分の3つの文のうちの三番目だ。

 その項目は、こう書かれている。

《3.各級議員(親族含む)が、非推薦の候補を応援した場合は、党則並びに都連規約、賞罰規定に基づき、除名等の処分の対象になります。》

 文体は重々しいが、いかんせん馬鹿さ加減が炸裂している。笑わずに最後まで読むことの難しい文章だ。

 都連が、所属議員に対して、非推薦の候補者を応援することを禁じようとした事情はわかる。
 組織として推薦した候補者が決まった以上、それ以外の候補者を応援する行動は、裏切りになる。それを許したのでは、政党が政党である前提が、失われてしまう。当然の措置だ。

 が、これほどまでに「当然」なことは、あえて文書の形にして配布するまでもない。議員として政治活動をしている都連所属の政治家であれば、誰でも知っていることだ。

 同じ理想を抱き、いくつかの共通した政策のために一致団結して活動することを誓ったからこそ、彼らは党と名のつく組織を立ち上げ、政党の名のもとに活動し、選挙に臨み、党費を支払い、党の庇護と指導に従うことで自分たちの政治思想を体現しているはずだ。

 その同志である彼らに、「非推薦の候補を応援するな」という旨の文書を配布するということは、プロのサッカー選手に向かって試合前のミーティングで「いいかい。ボールを手で持って運んじゃダメだよ」という訓示を垂れるのと同じことで、いずれも、言わずもがなのバカな指令だということになる。

 ということはつまり、都連が、このたび、あえて文書を配布してまで所属議員に訴えようとしたのは、3番目の項目の括弧内にある「(親族を含む)」という部分を強調したかったからだと考えざるを得ない。

 彼らは、
「自分たちは、党の方針からの逸脱をこれまで以上に厳しく監視する所存なのであるからして、そのつもりでいるように」
「たとえ、議員本人ではなく、親族が非推薦議員を応援しているケースが発覚した場合であっても、われわれは、甘い顔はしない。必ず処分する。それほどにわれわれは真剣なのである」

 と、そういう気分を込めた文言なのだと思う。

 あるいは、両方の候補者の当選後を勘案して二股をかけておこうとする議員が、親族の名義を使って何らかの選挙協力(方法はいくらでもある)をする可能性をあらかじめ封じておく意味があったのかもしれない。
 これぐらい厳しく言っておかないと、ビラ配りを手伝ったり、集会にちょっとだけ顔を出す議員が現れないとも限らない、と、都連のトップが懸念を抱いているということでもあるのだろう。

 しかし、問題は、都連のトップの誰かが、自分たちの決意の固さと、都連がこのたびの選挙に臨む厳しい態度を強調する目的であえて書き加えたのであったとしても、「(親族を含む)」というこの括弧内の規定が、どこからどう見ても、まるっきり擁護の理屈の見つからない、極めて前近代的かつ腐れマッチョ的な恫喝であった点にある。

 この「家族条項」は、はからずも自民党議員の中に蔓延している著しく封建的な家族観を、ものの見事に露呈してしまっている。

 彼らの考えでは、議員の親族は、議員の政治活動に従うべきだということになる。

 たとえば、お父さんが議員をやっている場合、その妻は、夫と別の政党を支持してはいけないことになる。子供も、兄弟も、姉妹も、親も同様だ。議員の家族は、党が推薦していない候補者は、たとえ同じ党の議員であっても応援してはいけない。応援すれば、一家の大黒柱が除名され、場合によっては職を失うことになる。

 逆に言えば、都連が配布した文書の中の「家族規定」は、都連の幹部が、
「自分の親族をまとめることもできない人間に議員をつとめる資格は無い」
 と考えていることを示唆している。
 この種の考え方は、政治資金や秘書給与の付け替え先に親族を利用する議員の感覚から派生しているもので、要するに彼らは、親族を議員の付属物ぐらいに考えているということでもある。

 文章を起草した都連の人間は、家族にも人権があることをどのように考えているのだろうか。
 議員の親族は、自由な政治活動を許されていないのだろうか?
 親族に自民党議員がいたら、その人間は、自動的に自民党を支持しないといけないのか?
 議員というのはそれほど偉いものなのか?

 あるいは、議員の妻や子供が、党の推薦を受けていない候補者を応援したことで、その議員を除名することを許されているのだとしたら、その党組織は、恐怖政治を敷いているということになるが、身内に向けたガバナンスにおいて、そのような恫喝的な組織運営をする政党が、民主国家の中で政治活動をする政治団体として通用するものなのだろうか。

 彼らは、「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」という憲法第19条を無視し、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする」という憲法第13条を、たわけた空文だとでも思っているのだろうか。

 私は、自民党という政党が、さすがにここまでひどい政党だとは思っていない。

 今回の出来事は、都連の上の方に、いくぶん困った人間がいるということを暗示しているに過ぎないと思っている。

 それでも、都連がこんなバカげた文書を配布してしまったのは、おそらく、昨今、自民党内における「家族」についての考え方が、旧民法的というのか、戦前的というのか、東アジア儒教社会的というのか、「日本会議」の勢力伸長に影響された、父権主義的な家族観に回帰していることのひとつの現れでもあるんだろうな、くらいは考えてしまう。

 先にご紹介した憲法第13条は、自民党の改憲草案では、以下のように改められている。
《第13条(人としての尊重等)全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。》

 ご覧のとおり、「個人」が「人」に、「公共の福祉」が「公益および公の秩序」に置き換えられている。

 ささいな言葉の違いに過ぎないと思う人もあるだろう。
 が、ささいな言葉を入れ換えてでも、なんとかニュアンスを変えようとしているからこそ、彼らは憲法を書き換えようとしている。

 「個人」を「人」に換えるのは、自民党の議員さんが二言目には口にする「行き過ぎた個人主義」を正したい気持ちを反映したものだ。権利権利と、おのれの欲と利己的な自己利益ばかりを主張するようになった、戦後社会の醜い日本人の心性を糺して、家族と支え合い、地域の責任を担い、国を守る気概を持った集団の中の「人」であることを求めるために、あえて金八先生が黒板に書いた通りの、支え合う人と人の絵柄通りの「人」を持ってきたというわけだ。

 「公共の福祉」を「公益および公の秩序」と、より明確な言葉で強く定義したのも、「人」と「公」のバランスを、「個人」よりは「公」寄りに修正しようとする意図のあらわれだと思う。

 もうひとつ、自民党の憲法草案では、第24条に以下の文言が新設されている。

《家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。
家族は、互いに助け合わなければならない。》

 都連の誰かが、ああいう文書を起草したのは、この条文が、アタマのどこかにあったからだと思う。

 私自身も、家族は助け合うものだと思っている。
 助け合う家族と助け合わない家族があるのなら、助け合う家族の方が望ましいとも思っている。

 ただ、家族が助け合うべきであることは、ポテトチップスの袋を開ける時に力ずくで破くべきではないことと同じく、憲法に書くようなことではない。
 憲法は、国民を縛るものではない。
 でもまあ、もし縛られたい国民が半数を超えるようなら、そういう憲法ができるのも仕方がないのだろう。

 せめて貯金をしておくことにしよう。
 最近、こればっかりだが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

縛るのは憲法じゃなくて、〆切ですよね。
破った場合は社規に基づき処(以下略)

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