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食事の支度をしながら母親の話をするサダム・エマル(12歳)。「母さんに会いたい。母さんの作る鶏肉料理はおいしいんだ」(PHOTOGRAPH BY MUHAMMED MUHEISEN, NATIONAL GEOGRAPHIC)
声がしたので覗いてみると、2人の少年がいた。
ここはヨーロッパ南東部バルカン半島に位置するセルビア共和国。クロアチアとの国境に沿って木々が連なる細長い森に、彼らはいた。
年齢は12歳と16歳。アフガニスタンからやってきて、この森でもう何週間も生活しているという。アーチのように伸びた枝が頭上で重なり合い、2人のテントを抱きかかえるように覆っている。
彼らの隠れ家のすぐ横には、2人がたどりつきたいと願ってやまない、クロアチアへと続く道がある。欧州連合(EU)加盟国であるクロアチアと、非加盟国であるセルビアを結ぶ錆びついた鉄道の線路だ。これまでに、何度もここを通ってクロアチアへ入ろうとして、そのたびに国境警備隊に追い返された。時には殴られ、時には最も大切な所持品である靴を奪われた。
遠くクロアチアの国境近くで、赤い光が2つ点滅していた。その光さえも、「止まれ」「近寄るな」「ヨーロッパはお前たちを歓迎しない」と言っているように見える。(参考記事:「欧州に続々と到着する難民たち」)
12歳エマルの冒険
緑色の瞳をした12歳のサダム・エマルは、それでもあきらめようとしない。時は早春。既に7カ月間、5000キロ以上の道のりを、家族の同伴もなく、密入国斡旋人の助けだけを借りて旅してきた。
普通ならまだ街を出ることさえ許されないような年齢で、エマルは荒廃したアフガニスタンのナンガルハール州にある自宅を離れ、パキスタン、イラン、トルコを通ってEU加盟国であるブルガリアへ入国した。ところが、エマルと他の難民たちはそこを強制的に追い出され、セルビアへ到達したという。
エマルだけではない。2015~2016年に、彼と同じような旅をした子どもの難民は約30万人もいた。それ以前の年と比べて5倍の増加だ。現在、祖国の苦難と抑圧を逃れた難民が世界的に大移動する未曽有の事態が起こっている。子どもたちもまた、その流れに加わっている。少なくとも、そのうち17万人の子どもが、ヨーロッパへの難民申請を行った。エマルは、ドイツへ渡ることを夢見ている。(参考記事:「7万人もの難民が押し寄せた176人の村の現実」)
ところが今、エマルは数千人ものほかの難民とともに、セルビアで足止めを食っている。2016年3月以来、国境での取り締まりが強化され、バルカン諸国からEUへの入国が厳しくなったためだ。(参考記事:「ハンガリー国境閉鎖で難民不安、写真家が撮影」)
ユニセフ(国連児童基金)のセルビア代表ミケル・サン・ロット氏によると、セルビアにいる約7000人の難民のうち46%が未成年者であるという。そのほとんどはアフガニスタン出身で、3人に1人は保護者を伴っていない。エマルのように、この先も危険な旅を続ける子どもたちは、窃盗や性犯罪、人身売買の標的にされかねないとサン・ロット氏は警戒する。
「『以前いたところと比べれば、ここはずっといいでしょう』と尋ねると、誰もが皆うなずくのですが、それでもセルビアにはとどまらずにEUへ行きたがるんです」。しかし、EUに入ろうとした子どもたちが捕らえられ、暴行を受け、協定に反して強制送還されているという話を聞き、サン・ロット氏は危機感を募らせている。「なかにはこの先どうなるのかわからず、精神的に追い詰められる子どももいます。将来が全く見えないのです」
イランで殴られ、ブルガリアで殴られ
エマルは、セルビアに隣接するEU加盟国のハンガリーやクロアチアへ入るため、国境の厳重な警備を走って突破しようとして、18回失敗している。若者たちはこれを「ゲーム」と呼び、その先にはより良い暮らしが待っていると信じている。エマルはまだあきらめていない。新しい靴が手に入り次第、再び挑戦するつもりだ。「サイズは42」。足にはいている薄汚れた靴下を指さしながら、エマルは言った。
一日の終わりを告げる柔らかな陽の光が葉の間から差し込むなか、エマルとその友人で16歳のファイサル・サリームが夕食の準備をしていた。エマルは、難民センターで配布されていた3000セルビア・ディナール(約3300円)分の引換券を使って食材を購入した。この券は、非営利団体によって寄付されたものだ。その3分の2を使って引き換えたものが、ビニール袋に入れられて彼の周りに置かれている。鶏肉数切れ、食用油、野菜、そしてパンが3斤。
「ひどく疲れてる。とてもつらいよ」。エマルはそう言うと、たき火の上に乗せた黒焦げの鍋に生の鶏肉を入れた。「ブルガリアで殴られ、イランで殴られ、セルビアで足止めを食っている。ここ3週間で体を洗ったのは1回だけ。家にいた時には毎日シャワーを使っていたのに」
自炊し、自力で生活し、難民の地下世界を渡り歩き、戦争を生き延びた子どもたちは、本来なら通学バッグを背負うべきその肩に、家族の期待を全て背負っている。セルビア政府は18の難民施設を運営し、食事や寝る場所を提供しているが、エマルとサリームは、いつ「ゲーム」のチャンスが巡ってきてもいいように、できるだけ国境に近い場所にとどまっていたいのだという。(参考記事:「閉鎖した刑務所に暮らす難民、写真14点、オランダ」)
危険は承知の上だ。セルビア人に刃物で刺されたり、物を盗まれた友だちもいたという。線路をやってくる列車をよけ損ねて命を落とした16歳のパキスタン人のこと、飢えに苦しんだ日々のことを振り返る。「今日、神は食べるものを与えられた」と、エマルは言う。「別の日には…」
煙に目をしばたたかせながら、エマルは鶏肉に焦げ目をつけると、水とピーマンを加えた。一家の長男だというが、3カ月前に電話を盗まれて以来、シングルマザーの母親と話をしていない。サリームが電話を貸してくれるといったが、アフガニスタンの自宅の電話番号を覚えていなかった。沈んだ顔に、エマルは笑顔を作った。「母さんのために祈っている。会いたい。母さんの作る鶏肉料理はすごくおいしいんだ」(参考記事:「処刑、掃討、性暴力、世界で最も弾圧されている民族ロヒンギャ」)
つづく(明日公開します)