来年の6月に開催が予定されているFIFA2018ワールドカップ(以下「W杯」と表記)ロシア大会に出場する、32カ国の代表チームが決定した。

 大きな話題を呼んでいるのは、イタリア代表が60年ぶりにW杯への出場を逃したことだ。

 大変に残念な結果だ。

 私は、必ずしもイタリアのサッカーが大好きな観戦者でもないのだが、彼らの敗退には自分でも意外に感じるほど落胆している。

 それほど、彼らは特別な存在だった。

 サッカーの世界において、イタリアは、強豪チームでもあれば名門チームでもあるのだが、それ以上に、ある種の憎まれ役として決勝トーナメントの舞台には欠かせないキャラクターだった。

 佐々木小次郎のいない宮本武蔵物語が狙い通りのスリルを演出できず、ダースベーダーの出演しないスターウォーズのエピソードがたぶん観客を魅了できないのと同じように、イタリアが出場しないW杯は、多くのサッカーファンを失望させるはずだ。

 ひいきのチームをじわじわと苦しめるイタリアが、アンチフットボールの旗手として一方に覇を唱えていてくれないと、こちらの闘志がうまく起動してくれないからだ。

 イタリアの選手たちが毎度毎度展開せずにおかない守備的なサッカーは、正直に言えば、私の好みには合わない。が、それでも、彼らの重苦しいボール運びと、あざやかなタイミングで繰り出される乱暴なようでいてエレガントなスライディングには、いつも感心させられる。

 とりわけ、アジアやオセアニアのチームを相手にしたときの、ニシキヘビが子鹿をじわじわと絞め殺す時みたいな底意地の悪い勝ちっぷりは、芸術的ですらある。

 スキラッチ、インザーギ、デルピエロ、バッジオといった、ずる賢かったり抜け目がなかったりする前方の選手の華やかなプレーぶりと、マルディーニやバレージやカンナバーロをはじめとする堅忍不抜で秋霜烈日でガチムチな後ろの方の選手のどこまでも苦み走った渋さの対比が、イタリア代表ほど際立っているチームはほかにない。その意味でも、見る側に演劇的なカタルシスを感じさせるこのチームの不在はロシアでのW杯をさびしいものにすることだろう。

 でもまあ、実際に大会がはじまってしまえば、案外、誰もイタリアのことなど思い出さないものなのかもしれない。

 その場にいない者は忘れられる。
 サッカーファンはとりわけ不在者に冷たい。

 2002年大会の日本代表監督だったフィリップ・トルシエが、
 「いない人間は悪い」
 というフランスの(←たぶん)ことわざを引用したことがある。

 そのことわざを、当時のいくつかのスポーツ新聞の記者は、代表チームへの招集に応じなかったある選手(イタリアにいて来日しなかった)を非難する言葉と受けとめて、トルシエとその選手の確執を煽る記事を書いた。

 しかし、トルシエの真意は別のところにあった。少なくとも、私はそう思っている。

 「いない人間は悪い」
 というのは、
 「不在の人間は、罪を着せられがちだ」
 という意味のことわざで、トルシエがこの言葉を引用したのは、
 「良識のある人間は、その場にいない人間の噂話はしない」
 という意思の表明だったということになる。

 つまり彼は、より詳しい言葉に翻訳すれば

「君たちメディアの人間は、いまイタリアにいる○○選手について私に論評させようとしているようだが、それはフェアな態度じゃないよ」

 と言おうとしていたはずなのだ。

 が、結果として、トルシエの言葉は、誤解された。
 彼の言葉は、いつも誤解されていた。

 オシムの言葉も、ザッケローニの言葉も、ハリルホジッチの言葉も、毎回というわけではないが、時に応じて、微妙に冷淡なニュアンスで記事化されることが少なくなかった。

 どうしてなのか、スポーツ新聞の記者は、外国人監督による苦言や、外国人選手の愚痴や、外国人記者の疑問を、正確に翻訳しないのだ。

 いま現在も、モンゴルからやってきた横綱・日馬富士と、同じくモンゴル人力士である貴ノ岩の間で勃発したと言われている暴力事件について、スポーツ新聞とテレビのワイドショーが、連日、猛烈な勢いでニュースを配信している。

 私は、この大量報道の中にも、誤解をはらんだ情報が混入していると思っている。

 昼となく夜となく垂れ流しにされているそれらの噂話は、悪意のある誤解というよりは、「自分たちにとって理解しやすい方向に読み替えた誤解」という感じの与太話ではあるのだが、それでも、場合によっては、その種の「メディア受信者の先入観に媚びた解釈」は、悪意ある偏見よりもタチの悪い差別を招来しかねない。

 「どうせガイジンには日本文化の微妙なところはわからない」
 「ガイジンって、○○だよね」

 というその種の背景説明なりコメントなりが示唆しようとしている安易な結論は、あるタイプの人々を気持ち良くさせる効果を持っている。

 別の言い方をすれば、われわれは、「日本文化の微妙さを感知できない外国人」をエピソードの中に登場させることで、結論として日本文化のユニークさと繊細さを強調するタイプのストーリーを好む傾向を持っているわけで、つまるところ、われら日本人は、悪気があるとか、差別する意図があるということではなくて、結果として、日本を訪れていたり住んでいたりする外国人に「わからんちん」の役割を押し付けてしまいがちな人々なのである。

 今回の報道には、同じような決めつけや歪曲が相当な割合で含まれていると私は考えている。

 事件の真相そのものはいまだにはっきりしていない。
 協会には隠蔽の意図があるのかもしれない。
 医者は、誰かの意を受けた立場で発言しているのかもしれない。
 一方の情報の発信者である部屋の親方は、あるいは思い込みの強い人であるのかもしれない。
 当事者の中にはとにかく騒ぎ立てる人たちを鬱陶しく思って話をまとめにかかっている人間がいるのかもしれない。

 いずれにせよ、どういう背景があって何が起こったのかについて、現段階で確定的なことは言えない。
 にもかかわらず、事実がはっきりしていないというこのことが、むしろ報道の総量を拡大させている。

 報道が加熱しているのは、相撲ファンが事態の推移を重大視しているからではない。単に外国人の横綱をめぐる真相のはっきりしない不祥事が、メディアの人間にとっておいしいネタだからだ。

 なぜおいしいのかというと、外国人が日本社会の中で演ずる不適応の物語を娯楽として消費したがる空気がわれわれの中に底流しているからで、私が個人的に抱いている感慨では、その傾向(在日外国人の些細な逸脱を過大に取り上げる傾向)は、日本人の長所や特徴を過大に宣伝して喜ぼうとする傾向と対を為すものでもある。

 われわれは、外国人を憎んでいるのではない。

 しかしながら、外国人が適応に苦しむ独特な文化を持つ国の国民であることに奇妙な誇りを抱いていたりはするわけで、このことは、この国で暮らす外国人を、結果として大いに圧迫しているに違いないのだ。

 実に気持ちの悪い話ではないか。
 話を元に戻す。

 イタリアが最終的にW杯への出場権を逃すことになった対スウェーデンの試合は、テレビで見た。
 90分を戦い切って0対0のスコアレスドローで終わるなんとも重苦しいゲームだった。

 ひとつひとつのプレーやボールの行方よりも、選手の心情や緊張感ばかりが身に迫ってくるこの状況でのサッカー観戦は、スポーツの中継というよりは、災害現場の実況中継を見せられている時の気分に近い。

 トシをとったせいなのか、私は最近、この種の中継がもたらす緊張感に苦痛をおぼえるようになってきている。

 欧州サッカー連盟の公式サイトによると、イタリアのボール支配率はなんと75%だったという。パス数でもスウェーデンの194本に対して712本と、数字の上では、完全に試合を支配している。

 なのに、どうやっても点が入らない。
 見ていて気の毒だった。

 日本代表がタイだとかヨルダンあたりを相手になかなか点の入らない展開に苦しむことがあるが、それでも、ここまであからさまに空回りしたゲームは見た記憶がない。

 ボール扱いの巧みさや戦術の練度を見る限り、両者の実力差は素人目にもはっきりしている。おそらく、スウェーデンとイタリアが10回戦えば、8回まではイタリアが勝つはずだ。

 なのに、今回のW杯予選では、その残りの2回の負けと引き分けの分が割り当てられてしまった。

 長く続くサッカーの歴史の中ではこういうこともある。
 あえて別の見方をすれば、こういうジャイアントキリングが起こることもまた、サッカーの醍醐味のひとつではある。そう思ってイタリア国民は心静かに4年後を期してほしい。

 敗因はわからない。
 当然だ。

 強い側のチームが負けたのだから、仮にその敗北に原因があるのだとしても、その敗因はスジの通ったものではないはずなのであって、要するにそんなことは考えるだけ無駄なのだ。

 わからないことに答えを求めるべきではない。
 これはとても大切な心得だ。

 考えてもわからないことの原因を、理由を、無理やりに見つけ出すために、時にわれわれはバカな背理にすがる。そして、その背理が次の敗因を形成したりする。なんとバカな展開ではないか。

 サッカーの世界でも、理不尽な負けが続くと、バカなファンやバカなフロントが理不尽な生贄を求めることがあって、それがためにさらに理不尽な敗北傾向が確定するケースがある。私がサポートしているチームでも、過去にそういうことが何回かあったと記憶している。

 と、間違った敗因を見つけようとすることの有害さを自分の口でここまで言い立てておいて、いまさらこんなことを言い出すのは面映いのだが、ひとつだけ、イタリアの敗因について、いま思いついたことを述べておきたい。無意味でも有害でも滑稽でも、それでもやはり敗因を分析してしまいたくなるのがサッカーファンの愚かさなのだと思って、どうかご容赦いただきたい。われわれは永遠に答えを欲しがる生き物なのだ。

 思うに、イタリアの敗北には、スタジアムの貧弱さがあずかっている。

 テレビでヨーロッパのサッカーを見ていて印象深く感じるのは、イタリアのサッカー場がほかのヨーロッパ諸国のそれに比べて、明らかにショボいことだ。

 芝の不揃いさもさることながら、施設が老朽化していて、観客席がボロボロだったり、あるいはスタジアムそのものが陸上競技場との兼用で客席とピッチの間に無粋な陸上トラックが周回していたりするケースが目立つ。

 テレビで見ていても、なんだかサッカーが魅力を欠いた競技に見えてしまう。だから、私自身、最近は、イタリアのリーグのサッカーはあまり見ない。

 無論、貧弱な施設でサッカーをプレイすることが、ただちにサッカー技術の低下に結びつくわけではない。それでも、観客動員が低迷しているリーグでサッカーをプレイしている選手が、W杯への出場を決めるような緊張した試合で思うような実力を発揮できないケースは、おそらく増えるのではあるまいか。

 イングランドやドイツなど、最近ワールドカップやオリンピックを誘致した国では、最新のサッカー場が数多く整備されて、芝の状態もスタジアムの施設も素晴らしく変貌している。なので、観客動員も上昇傾向で、リーグ自体の収益や評価も上昇している。

 引き比べて、イタリアは、90年代までは世界一と言われたリーグであったのに、21世紀にはいってからは観客動員とリーグ収入の低迷に悩んでいる。その大きな理由のひとつがスタジアムの老朽化だと言われている。

 スタジアムがショボいからサッカーが弱くなるというお話は、結局のところ、最後にモノを言うのはカネだという結論に直結してしまう感じで、あんまり楽しい帰結ではない。

 が、楽しいのかどうかはともかくとして、スタジアムの老朽化とリーグの観客動員低迷は、実は日本のサッカーにも言える。

 うちの国のサッカー場は、90年代にJリーグが開幕し、2002年にワールドカップが誘致された時代に大幅に改善されたのだが、実は、それ以来、はやくも老朽化の道を歩みはじめている。

 2020年のオリンピックでも、念願の国立サッカー場の建設は実現しなかった。
 残念だ。

 4年後、あるいは8年後のW杯予選で、われらの日本代表チームが本戦への出場を逃して、その時に、
 「ほら、国立サッカー場を作らなかったからだ」
 と恨み言を言う未来を私は恐れている。

 そうならないために、いまからでも、建設中の国立競技場をサッカー専用スタジアムに変更するプランを検討してみてくれないだろうか。もし小池百合子都知事が私のプランに乗ってくれるのなら、副知事をやってあげても良いと思っている。

 ぜひ検討してほしい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)
オダジマさんのイベント告知です。
副都知事選への抱負を聞きに是非(嘘です)

 来る12月13日(水)、小田嶋隆さん、平川克美さんが月例で行っているトークイベント「二人でお茶を」の拡大版が開催されます。

 詳細は→こちら

 以下、小田嶋さんからメッセージを転載いたします。

「義理にからんだ忘年会をひとつキャンセルしてご参加くださるとうれしいです。よろしくお願いします」

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