仮想通貨取引の大手、コインチェックから、仮想通貨のひとつである「NEM」が大量に不正流出したのだそうだ。

 よくわからないニュースだ。

 まず「仮想通貨」という概念がわからない。
 加えて「不正流出」が具体的にどういう動作なり現象を指して言っている言葉なのかが判然としない。

 というよりも、そもそも仮想通貨が流通している基本的な仕組みを理解できていない以上、このニュースは、どこをどう切り取ったところで自分にわかるはずのない話題なのだ。

 そう思って、自力で当たれる範囲のソースを辿って、色々と勉強してみた。

 結果は、「わからない」というところから一歩も外に出ていない。
 ただ、勉強した結果がまるで無意味だったわけでもない。

 具体的に言うと、それまで、なんとなくわからなかった部分が、はっきりとわからなくなった。この点が進歩といえば進歩なのだろうと、個人的にはそう思っている。

 つまり、自分が何をわかっていないのかについてある程度把握できたのだから、何がわかっていないのかさえわかっていなかった段階よりは、多少前に進んでいるのではなかろうかということだ。

 でもまあ、結論としてまるでわかっていないことに変わりはない。

 自分なりに見当をつけている部分がまるでないこともないのだが、素人が手近な検索結果から導き出した当てずっぽうの推論を開陳してみたところで、さして有意義な記事ができあがるようにも思えないので、当件について、私の見立てを述べることは差し控える。

 代わりに、ここでは、この3日ほど、このニュースへの人々の反応を眺めながら私が感じたことを書くことにする。
 どうせそれ以上のことはできないのだからして。

 仮想通貨不正流出のニュースを知った人々の多くが最初に見せた態度は、
 「そら見たことか」
 という感じのリアクションだった。
 第一報に触れた時の私自身の感想も、そんなに遠くない。
 「ああ、やっぱりな」
 と、私は思った。こんなことがいずれ起こる気がしていたからだ。

 仮想通貨がハッキングによって流出する事態を正確に予期していたというのではない。
 「仮想通貨がどういうものなのかはよくわからないが、こういうよくわからないものに手を出してる人たちはいずれろくでもない目に遭うはずだ」
 といった感じの、およそ不明瞭な予感のようなものを抱いていたに過ぎない。

 ともあれ、私に限らず、ビットコインを初めとする仮想通貨周辺のあれこれについて「わからないものへの忌避感」を抱いていた向きは少なくなかったはずで、そういう世の中の新奇な動きにビビッドな反応を示さない鈍感な多数派に属するわれわれは、ありていに言って、今回の出来事をうれしそうな顔で話題にしていたはずなのだ。

 「仮想通貨の将来性ってな話とは別に、あの会社がダメなことぐらいはわかってないとダメだろ」
 「たしかに、ホームページ見に行ってみたけど、27歳のトッポい顔した社長が、大学のサークルみたいなノリでウェイウェイいいながら経営してる会社を信じて取引に使った時点で、山羊に手紙の配達を頼んだヤツと同じだよな」
 「ひどいことになるだろうな」
 「どんどんひどくなることを希望します」
 「まあ、こういう会社がバカな被害者ともども消えてなくなることは、集めた落ち葉を焼き払うみたいな意味で環境の浄化に寄与してるわけだわな」

 てな調子で、各種ネットメディア上で発言する匿名の紳士淑女の皆さんは、おおむね、今回の混乱を歓迎していた。

 他人の不幸である点がはっきりしている限りにおいて、この種の経済事件には常にホットな需要がある。われわれは、自分に利益をもたらさない情報であっても、他人の損害を伝えるニュースであれば、その情報から一定の心理的充足を得ることができる。メディアのある部分は、その種の情報を売買するために運営されている。

 こうしたなかで、私がなんとなく気になったのは、被害者を嘲笑するコメントの中に
 「欲望に目がくらんでやがるから」
 「投資なんかで儲けようとする根性が……」
 「だいたいお金というのは額に汗して働くことを通じて得るのが本筋で……」
 「要するに正業で稼いでない連中が淘汰されたってことだろ?」
 という感じのはじめからバカにしたものの見方が目立っていたことだ。

 元来、私は「正業」とか「額に汗して」みたいな立場からの言い様には本能的な反発を抱く。

 そんなふうだから正業に就けていないのだと言われてしまえばその通りではあるのだろうが、その点はともかく、今回、仮想通貨でいくばくかの資金を焦げ付かせている被害者に対して、「正業に就いている」設定の人たちが投げつけてみせた嘲笑に、私は不快感を抱かずにおれなかった。というのも、彼らのものの言い方は、安定が不安定を、正社員が非正規労働者を、信用通貨が仮想通貨を、ストックがフローを軽んじて投げつける嘲笑以外のなにものにも見えなかったからだ。

 ともあれ、落とした指輪のために沼に飛び込む人間を遠巻きに見物して笑うかのようなその彼らの典型的な発言例を何十となくリロードするうちに、私は、自分が損をしたわけでもないのに、ひどく侮辱された気分になっていた次第だ。

 あるスジから得た情報によると、今回のコインチェックの騒動では、かなりの数の芸能人が痛い目を見ているのだそうだ。

 なんとなれば、とりあえずの日銭をふんだんに持っている半面、中長期的な将来に不安を抱くことの多いタレントや芸人の皆さんは、手持ちの現金を将来に向けた資産に変換するべく、投資先の探索には常にただならぬ関心を抱いている人々でもあるからだ。

 彼らの気持は、私にも半分ぐらいはわかる。
 私自身は、売れっ子の芸能人みたいに現金をふんだんに持っているわけではないが、将来の保証が無い点では似たようなものだし、なによりわれら自由業者はローンが組めない点で同じ集合に属する人々だからだ。

 じっさい、似たような業界の同じような立場の人間が集まると、話題はいつしかローンの話になる。これは、何十年も前からの定番の展開だ。

 「お住いは賃貸ですか?」
 「いえ、5年前にマンションを買いました」
 「えっ? ローン組めたんですか?」
 「あ、それですか。私の名前では当然ローンは無理なんで、そこは母親の名義で……」

 といったような話を何度繰り返したことだろうか。
 上記のモデルケースについて、どういうお話なのか解説しておく。

 これは、たとえば、フリーランスでカメラマンをやっている30代妻子ありのA氏より、生命保険の外務員をやっている60過ぎの母親の方が長期ローンで住宅資金を借りる名前としては有効でしたという典型的なエピソードで、つまるところ、うちの国は、そのときどきの瞬間風速としての年収よりも、ローンの借り手がしかるべき会社に所属しているかどうかがものを言う社会だ、ということだ。

 結局のところ、信用は常に「人」にではなく「会社」に紐付いた概念として自由業者の前を通り過ぎて行く。わたしたちは、このことに、日々直面し、腹を立て、あるいはふて寝している。

 取材の現場でも似たようなことが起こる。
 たとえば、私のようなフリーの立場の人間が、取材先の企業の広報なりに電話して面会の予約なりを申し込むとする。

 と、必ずや、
 「どちらのオダジマさんでしょうか?」
 という質問が返ってくる仕様になっている。

 ここで、
 「天下の素浪人オダジマとはオレのことだ」
 などとリキんでみせたところで、何がどうなるものでもない。
 先方の若手社員さんを困惑させるだけだ。

 ここは相手に合わせて、
 「失礼いたしました。○○社の『月刊××』でコラム欄を執筆しておりますオダジマと申します」
 ぐらいな情報を提供することで、総会屋を警戒するヤマダ君(仮名)の不安を取り除いてさしあげるのが正しいマナーだ。

 というのも、取材先の広報は、「オダジマ」ナニガシという個人名よりも「どちらの」に当たる会社名なり媒体名なりの「所属先」の情報をもとに取材への対応を判断するからで、逆に言えば、個人の名前など、村上春樹先生でもない限り、何の役にも絶たないからだ。

 年かさのヤンキーが、
 「おまえ、なに中?」
 と、初対面の後輩に出身中学の名称開示を要求するのは、彼らが個人名の個人である以前に、地域社会に根付いた中学校の学区域をレペゼンする地域的な存在であることに由来している。これに対して、地域社会から遊離した全国区の上場企業名簿の中に組み入れられたホワイトカラーは、対話相手の会社名で相手の人間性を判断しようとする。ついでにご報告しておけば、大学卒の人間のみで形成されるインナーサークルであるメディア業界の人間は、常に同席している人間の出身大学を気にかけている。そういう仕様になっているのだ。

 であるからして、
 「どこの大学でしたっけ?」
 というあからさまな質問をせずに済ませるべく、業界の人々は、三田周辺のうまい店の話題を振って探りを入れたり、高田馬場周辺の学生下宿の家賃相場の浮世離れした水準にあらためて驚いてみせたりなどしつつ、セミの死骸の周辺を行き来するアリみたいに触覚をぶつけ合っているのである。

 ことほどさように、われわれは、所属先のアピールばかりで日々を過ごしている。
 こんな社会で、個人の信用を基盤とした通貨がマトモに通用するはずがないではないか。

 余談だが、私は、21世紀の若い人たちが「自由」という概念にさほどの魅力を感じていないように見える背景には、われら日本の自由業者が、彼らの目から見て、肩身の狭い生き方を強いられていることがあるのだと思っている。

 「自由になるとローンが組めないらしいぞ」
 「自由業の人たちって、他人に信用されないしなあ」
 「でなくても、自由ってつまり不安定ってことなわけだし」
 「そもそも自由業者って、他人の自由にされるってことじゃね?」
 「っていうか、自由を切り売りにしてる人たちってことだよね?」
 「まあ、フリーランスはフリーオブチャージだし」
 「自由契約はクビの婉曲表現だし」
 「自由落下は墜落のことだし」

 話がズレてしまった。
 私はこの話題になるといつも取り乱してしまう。
 反省せねばならない。

 しかし、大切なのは取り乱さないことではない。取り乱しがちな話題を、できる限り正確に伝えることだ。

 結論を述べる。

 自由業者は苦しい。
 仮想通貨も苦しい。

 自由業の苦しさと仮想通貨の苦しさは、それらが幻想を足場にしている点と、失望した瞬間に消滅してしまう点で非常によく似ている。

 だから私は仮想通貨に投資しようとは思っていないものの、そのうたかたの天に投げかけられた憧れの指先みたいな経済単位には一定のシンパシーを抱いている。

 仮想通貨は、われわれが真の自由を手に入れた時にはじめてその十全な機能を発揮することになるだろう。
 ということは、それまでの間、自由を目指す人間が損をする時代が続くということだ。

 自由は、いまのところ、ベネフィットとしてではなく、コストとしてわれわれの前にある。
 先のことはわからない。冒頭で言った通りだ。私は一歩も前に進んでいない。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

自由を売った代償に我々は、取材先の方から見ると
「あ、●経の人」と分かるくらい会社の色が付くらしいです。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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