ウナギが不漁らしい。

 毎日新聞によれば、
《絶滅危惧種ニホンウナギの稚魚シラスウナギが今期は極度の不漁で、国内外での漁獲量が前期の同じころと比べて1%程度と低迷している。漁は4月ごろまで続くが、このまま推移すれば過去最低の漁獲量となりかねない。--略--》ということのようだ(こちら)。

 特に驚きはない。
 むしろ、ニュースの第一報に触れて
 「当然だろうな」
 と思ったというのが正直なところだ。

 さらにもう少し率直な感想を述べるなら、私は
 「自業自得だよな」
 という感慨を抱かずにおれなかった。
 「ざまあみろ」
 とまでは思わないものの、ニュース原稿の中で不漁を嘆いている関係者に対して、真摯な同情を寄せる気持ちにはならない。

 というのも、このニュースは、かれこれ10年以上も前から、様々な立場の人々が異口同音に指摘し、予告し、警告し、懇願し、提言し、あるいは叱責罵倒非難問題提起してきた話題の延長線上にある状況で、今回、かかる事態がニュースとして流れてきている顛末は、案の定というのか果たせるかなというのか、だから言ったじゃないか式の見え透いた展開以外のナニモノでもないからだ(例えば2014年に掲載されたweb版ナショナルジオグラフィックの「ウナギが食べられなくなる日」など参照)。

 現今のなりゆきは、われわれの国の漁業が、おそらく30年以上前から、明らかな危機に陥っているにもかかわらず、結局のところなんら有効な策を打ち出すこともなく手をこまぬいてきたことがもたらした必然としての帰結だ。このことをまず認識せねばならないと思う。

 毎日新聞の記事(こちら)の後半部分で、水産庁は

《2016年は11、12月の2カ月間で約6トンのシラスウナギが国内の養殖池に入れられたが、今期はまだゼロ。》

 である状況について

《「漁の始まりとして良くないのは確かだが、これから漁が本格化する。今後の推移を見ないと何とも言えない」(栽培養殖課)としている。》

 とコメントしている。もし水産庁のお役人が本気でそう思ってこの言葉を言ったのだとしたら、彼らは、単に統計の数字を見てうなずいているだけの首振り人形とそんなに変わらない役割の人々なのだろう。

《漁が解禁された昨年12月10日からの15日間の漁獲量はわずか0.5キロ。43.4キロの漁獲があった前期の1%ほどにとどまった。》

 というこのデータは、2割減とか3割減といった普通の文脈で言う「減少」ではない。半減ですらない。前年比約99%減という壊滅的な数字だ。ということはつまり、彼らが直面しているこの数字は「漁獲高減少」とか「不漁」という言葉すら生ぬるい「絶滅」をさえ示唆するデータなのであって、シラスウナギの漁獲に比較的大きな年変動があることを考慮したのだとしてもなお、深刻なデータであることは明白なのだ。

 とすれば、この数字を眼前に突きつけられた水産庁の人間は、当然、ひとつの魚種の絶滅の予感に粛然として然るべきなのであって、少なくとも「今後の推移を見ないと何とも言えない」などという、芋が煮えるのを待つ若奥様みたいな優雅なコメントを吐き出しているお日柄ではないはずなのだ。

 宮崎県の水産課のコメントもくねくねしている。

《県水産政策課によると、県内で漁が始まった昨年12月11日から1月14日までの35日間の漁獲量は4キロで、前年度同期(176キロ)の2%程度にとどまっている。
 一方で2015年度のこの時期は80キロ、14年度は232キロと年によって幅があり、同課は「2、3月に漁獲が増える年もあり、今後のことはわからない。期待するしかない」と話している。》

 「期待するしかない」

 ではない。もはや期待をしてはいけない状況であると思うのだが。
 前年比98%減の漁獲量に直面してなお、「今後に期待」している水産課職員は、おそらく、完全にウナギが絶滅するまでウナギの漁獲に期待し続ける設定の人間なのであろうなと考えざるを得ない。

 本来なら、ずっと以前の段階で、徹底的な禁漁なり漁獲制限なりを実施していなければいけなかったはずだとかなんとか、繰り言を言っても仕方がないので、現状の話に戻るのだとして、それにしても、ことここに至ってなお、「今後に期待する」みたいな間抜けなセリフを吐き出されてしまうと、激越にならない上品な範囲の論評の言葉を思い浮かべることが大変に困難になる。

 ネットニュースのコメントを眺めていると、漁獲制限や禁漁を提案する意見に対して
 「禁漁はなりふりかまわず乱獲する中国の漁民を利するだけだ」
 「日本が単独で漁獲制限をしたところで、海はつながっているわけなんだから、結局のところ周辺諸国の乱獲を促すことにしかならない」
 「ウナギで暮らしている人の生活も考えろ」
 といったおなじみの主張が書き込まれていたりする。

 うんざりする展開だ。
 こういうところに日中対立を持ち込んでどうしようというのだろうか。

 海に国境壁がないのはおっしゃる通りだし、一国だけの漁獲制限の効果に限界があるのもご説の通りだ。

 とはいえ、漁業資源の減少を中国をはじめとするアジア諸国の漁獲高の増大に求める昨今流行のものの言い方が、大筋において無責任な立論であることは指摘しておかなければならない。

 20年前に比べて、中国国内の魚肉消費量が急増していることも、彼の国の漁業が漁獲量を増やし続けていることもその通りではある。が、それでもなお、わが国の水産資源消費量と漁業の大きさは依然として他国を圧倒している。

 ウナギに関する日中両国の養殖生産量については、WWFジャパンという民間の環境団体(こちら)が、2015年の7月に「ウナギの市場の動態:東アジアにおける生産・取引・消費の分析」というレポートを発表している(こちら)。

 この資料を見ると、統計のとり方によって異同はあるものの、1990年代以降中国養殖ウナギ生産量が飛躍的に増大して、2010年代には他を圧していることがわかる(資料13ページ、図2、世界のウナギ養殖生産量)。

 引き比べて、日本の養殖ウナギ生産量は、1990年以降ずっと減少し続けている。
 この図を見て、
 「ほら、やっぱり元凶は中国じゃないか」
 と決めつけるのはそんなにむずかしいことではない。
 実際に、そう言っている人たちはたくさんいる。

 しかしながら、簡単にそう決めつけて良いものではない。
 なぜなら、その中国の養殖業者から食品としてのウナギを輸入しているのは、日本のスーパーと商社であり、その彼らが持ち込んだウナギを世界中の誰よりもたくさん食べているのはほかならぬわれら日本人だからだ。

 ウナギ絶滅のわかりやすい新たな「悪役」として、中国が浮上してきたことは、実際に中国の漁民がウナギの稚魚を大量に捕獲しているという意味でも、世界最大のウナギ消費国であるわたくしども日本人が、ウナギについての罪の意識を転嫁する先を得たという意味でも、ウナギにとっては不幸なことだったと申し上げなければならない。

 おそらく、そう遠くない将来、われわれは、さんざんにウナギを食い散らかしたあげくに、ウナギの死滅については、その原因を中国の強欲に求めるテのお話を飲みこんで済ますことだろう。そうやって国民的な胸焼けを晴らしているうちに、あのヌルヌルした生き物のことは、じきに忘れてしまうのだ。

 安易に中国のせいにするのが間違いだというのなら、ウナギの絶滅危機に責任を負うべき人間が、どこにいるのか名指ししてみろ、という感じのツッコミを入れてくる人たちがいるはずだ。

 お答えしよう。

 きれいごとだと思うかもしれないが、私は、ウナギの絶滅については、稚魚を捕獲している人々(専業の漁業者のほかに素人を含む密漁者も多いと言われている)や、養殖業者やそれらを監督するべき水産庁のお役人、ほかに、輸入商社、ウナギ料理屋、さらには、小売業者、弁当業者、食品スーパー、そして消費者であるわれわれ自身を含むすべての人間が責任を感じなければならないと考えている。

 もっとも、21世紀に入ってからの急激な生息数の減少に関しては、1990年以降、ウナギ専門店とは別に、一般のスーパーや弁当販売店が、500円前後の低価格でウナギ製品を大量販売したことの影響が大きかったのだろうとは思っている。

 ただ、そうした議論とは別に、ウナギをめぐる議論をめんどうくさいものにしているのは、ウナギに関わる人間たちの誰もが、ウナギの災難を他人のせいにしつつ、ヌルヌルと手の中から逃げる生き物みたいに責任回避をしていることだ。

 この状況は、「囚人のジレンマ」と呼ばれるお話に似ている。
 囚人のジレンマについては、ここで解説すると長くなるので、興味のある人はウィキペディアでも参照してください。……。はい。読みましたね。そういう話です。

 とにかく、

  • 漁獲規制をすると、密猟者だけが儲かる。
  • 国内で漁獲規制をしても、漁獲規制をしていない他国が乱獲するだけ。
  • 仮に販売規制をしたのだとしても、どうせ売り抜けをする業者が儲ける。
  • 禁鰻法を施行したら、おそらく闇ルートを通じて流通する裏蒲焼きが暴力団の資金源になる。

 みたいなダブルバインドが、事態を困難にしているわけで、結局のところ、禁酒法と同じことで、これだけ一般に普及してしまっているものにうっかり法規制をかけると、正直者が損をして抜け駆けをする人間ばかりが不当な利益を得る結末になりがちだということだ。

 それもこれも、つまるところ、ウナギを食べたい人たちの言い訳なのだと私は考えている。

 本気で資源を守る気になれば(つまり、ウナギサイクルの最下流にいるわれわれがウナギを食べることをあきらめることさえできれば)、ウナギの漁獲は減らせるし、養殖だって減らせるはずなのだ。

 こういう話をすると、たぶん「食文化」だとか、「日本食の伝統」みたいな言葉で、ウナギの大切さを力説する人たちがあらわれる。

 その種の主張への反論は、本当は「大切だからこそ食べない」という一言で十分なのだが、ペンの勢いということもあるので、せっかくだから「食文化」というお話に異論を述べておく。

 私の記憶では、この種の立論が目立つようになったのは、あるグルメ漫画の主人公が捕鯨の正当性を主張する中で、クジラをめぐる食文化の伝統についてひと通りのウンチクを並べてみせたのが最初の例だと思うのだが、昨今では、ウナギでもマグロでもおよそ食材の確保と環境保護が対立する局面で議論が巻き起こると、必ずや「食文化」というマジックワードを持ち出して、論点をそらしにかかる人間が現れることが論争上の定番の展開になっている。

 彼らが「食文化」を盾に絶滅危惧種の保護や水産資源の枯渇の問題から目をそらそうとする態度は、一部の相撲ファンが「国技」という言葉のカゲに隠れて民族差別的な野次を容認していたり、「伝統文化」だとか「神事」みたいな言葉を強調することで、不公正なレギュレーションや規定を正当化している状況と驚くほど良く似ている。

 ついでに申せばウナギについて繰り返される「養殖」という言葉も、絶滅危惧種を容赦なく乱獲していることのうしろめたさをごまかすためのマジックワードであるように思えてならない。

 というのも、ご存じの通りウナギの養殖は、卵を孵化させること(あるいは産卵を管理すること)からはじまる完全養殖ではないからだ。

 ウナギの養殖は天然の稚魚を「育成」して成魚にすることで成り立っている。ということは、ウナギ養殖という産業の基礎的な部分は、天然資源である野生の稚魚を捕獲するシラスウナギ漁に依存しているわけで、その意味で、環境への負荷は普通の漁業とそんなに変わらない。

 こういうお話をする時には、一方でウナギを糧に生計を立てている人たちがいることを軽視してはいけないのだろう。

 ただ、海から与えられる恵みは無限ではない。
 漁業という業態の少なくともその一部分が、自然からの収奪の上に成り立っていることを考えれば、自然が枯渇するほどの苛烈さで収奪を繰り返すことは、自然の恵みを糧に暮らしを立てている人々にとって、自分自身のクビを締めることにほかならない。

 現在の状況は、農業で言えば種籾を食べてしまっている段階だと思う。
 タコの人生になぞらえるなら、自分の足を食べて空腹を癒やしているタコ末期の段階に当たる。

 この困難な事態を一発で打開できる解決策を提示できれば良いのだが、私のアタマでは無理だ。残念だが、どうしようもない。

 とりあえず、個人としてできることとして、せめてウナギ断ちをしようと思っている。
 偽善だと思う人は、そう思っていただいてかまわない。

 ウナギの苦境はもはや通り一遍の善だけでは救えない。偽善を含めたあらゆる善を動員しないとどうにもならない。あ、追善も。

(文・イラスト/小田嶋 隆)
ウナギ……おいしいですよね。食べられなくなるんですか。
でも、うなダレごはん、あれもおいしいです。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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