「開成高校(東京・荒川)と日比谷高校(同・千代田)の両方に受かったら、8割は日比谷に行きますね」。こう話すのは都内のある中学生向け進学塾の講師だ。
 この塾は公立志向が強い生徒が集まる。そして、開成は中高一貫校のため、同校への憧れが強い生徒は、高校受験を待たずに中学受験に挑む。こうした前提条件があるとはいえ、今の日比谷は日本一の進学校、開成を上回る人気を一部で得ているのだ。
 一時期、その燦然とした歴史からは見る影もない凋落ぶりを見せていた日比谷は、今や都立高改革のトップランナーとして、全国の高校の注目を集めている。そして、その改革は私立の伝統校にも変革を迫っている。

 「かつての名門日比谷高校は全くダメになった」。1999年、石原慎太郎氏が東京都知事選に勝利した直後、テレビ番組で言い放ったこの言葉が、現在、都内で起こっている高校の大変革の発火点だった。この発言から2年後、石原都政は都立高改革を開始。「進学指導重点校」に指定した日比谷などに予算と人材を集中投資した。

 日比谷は各都道府県のトップ校として生まれた旧制一中が源流。東京大学、そして霞が関の省庁に多数の人材を送り込んできた全国の公立校の星だった。

日比谷高校の改革は、関東の公立復権の嚆矢となった
日比谷高校の改革は、関東の公立復権の嚆矢となった

まるでトウモロコシ畑

 しかし、67年、学校群制度の導入が凋落のきっかけとなる。同制度下では、受験生は志望校を直接選べない。数校の学校が集まった「群」を受験先として選択。合格後は群の中のいずれかの高校に割り振られる。都立高の学力の均質化を目的とした同制度は、教育関係者の間では「日比谷潰し」と受け止められた。同制度が解消された後も、ゆとり教育の推進により、優秀な生徒の公立校離れが加速。日比谷の凋落は止まらなかった。東大の合格者数は60年代まで100人超えだったが、90年代は1桁に落ち込んだ。

 「まるでトウモロコシ畑だった」。2003年から15年間、日比谷高校の教壇に立ち続けている臼田浩一・主幹教諭は、着任当初のことをこう振り返る。ボサボサとした茶髪の生徒が目立つ。遅刻も日常茶飯事だった。

 臼田氏は「東大への進学実績が全てではない。ただ、進学実績がなければ優秀な生徒は集まらない。優秀な生徒がいなければ、日比谷の理想とする教育は実現できない。東大合格は日比谷の宿命なんですよ」と話す。

 日比谷の理想とする教育とは、生徒の自主性を重んじる全人教育だ。しかし、生徒の質が変化しているのに、自主性に期待するばかりでは、生徒はいつまでたっても育たない。日比谷は改革に踏み出せぬまま、坂道を転がり落ちる速度が加速していった。日比谷に限らず、名門校の凋落はこうしたジレンマの図式が当てはまることが多い。

 石原都政による改革はこうした都立伝統校への警句だった。都立高に進学実績や部活動加入率などの数値目標を設定させ、改革の進捗を管理。授業や行事に対する生徒の満足度評価も導入させた。

 こうした「鞭」の代わりに都立高に与えられた「飴」の一つが公募制。重点校は改革に関わりたい熱意ある教員を公募できるようになったのだ。更に、重点校の校長は発言権も強くなり、優秀な教員を自校に長期間留めておけるようになった。

 この仕組みは日比谷にとって渡りに船だった。日比谷の窮状を打破したいと考える熱意を持つ卒業生の教員が多くいたからだ。臼田氏もそんな卒業生の1人だった。「石原氏の発言を聞いて、日比谷はどん底まで落ちたと思った。卒業生の危機感が強まった」と臼田氏は語る。

 臼田氏らがまず取り掛かったのは、公立校が不人気の時代でも根強い人気を集めていた、岡山朝日高校(岡山市)や鶴丸高校(鹿児島市)など公立進学校の視察。こうした高校に共通していたのは、近隣に予備校が少なく、受験勉強も全て自校内でサポートできる面倒見のよさだった。

 自由放任を是としていた日比谷は方向を転換。ホームルームの復活など、当たり前の進学指導や生活指導をすることから徐々に始めていった。そして08年、リーマンショックによる不況で、公立校の人気が回復基調になる。この前年、日比谷の東大合格者数は28人にまで回復。進学実績の上向きが鮮明となり、優秀な生徒が日比谷に集う流れができ始める。

永田町の議員会館や日枝神社に囲まれた超一等地に位置する日比谷高校
永田町の議員会館や日枝神社に囲まれた超一等地に位置する日比谷高校

 12年に武内彰校長が赴任すると改革は更に加速。大学入試に備えた過去問の個別添削なども導入し、「面倒見のよさ」をさらに強化。16年には東大合格53人と、約40年ぶりに50人の大台に乗った。

 都立の重点校の中でも最も効果を上げた日比谷の改革は、他の都立高や近県の公立校でも取り入れられ、公立復権が加速した。一方、その余波を受けたのが、日比谷と同じく「自由放任」を是としてきた私立伝統校だ。渋谷教育学園幕張高校(千葉市)や駒場東邦高校(東京・世田谷)など「面倒見の良さ」を評価された新興勢力にも押され、人気が低迷。日比谷の凋落の道程をなぞるように進学実績を落としていった。

 その1つが、開成と並ぶ中高一貫校の私立御三家として知られる武蔵高校(東京・練馬)だ。かつては一学年の人数の半数に当たる約80人を東大に送り込んでいたが、2010年ごろに20人を割るまで低迷。「もはや御三家にあらず」。そんな言葉も囁かれるようになった。

 「目的もなく、東大を目指すことに意味はない。ただし、大学入試に対応できていないと、優秀な生徒が来なくなる」。武蔵の梶取弘昌校長の分析は、日比谷の臼田氏と同じだ。校内で生徒にヤギを飼育させる、岩石のプレパラートを2カ月かけて作らせるなど、生徒の自主性を重んじる教育を志向する武蔵だが「自ら殻を破ることができる生徒は少なくなった」

都内に立地しながら自然豊かな環境が特徴の武蔵高校
都内に立地しながら自然豊かな環境が特徴の武蔵高校

 武蔵も理想とする教育の実現のため、新たな取り組みに着手。これまで付き合いが薄かった進学塾とも情報交換を始め、模擬試験の実施や、センター試験対策などに乗り出した。広報活動を専門とするOBから助言も受け、中学生と保護者へのPR方法も見直した。「武蔵らしくない」。生徒からも教員からも、反対意見は出た。梶取校長は「では『武蔵らしさ』とは何かと逆に投げかけてきた。理念を都合のいいように捉えて、やるべきことをサボっているんじゃないか、と」。

高校にも求められる不易と流行

 成果は如実に現れている。17年に東大合格者数は32人と10年ぶりに30人台に回復。18年は前年を下回ったものの、27人と同水準を維持している。

 しかし、梶取校長の危機感はなお強い。「人工知能(AI)の進化などにより、高校で必要とされる学びは大きく変わっていくかもしれない。10年、20年後、武蔵だって今のままでいいとは思わない」

 理想とする教育を貫くために、改革に取り組む。時代に応じた不易と流行が必要とされる点は、教育でもビジネスでも変わらない。梶取校長は「変なグローバル志向はダメ、変に時代に迎合しすぎてもダメ、いい教育をしているという自己満足に陥ってないか絶えず反省しないとダメ。伝統は大事だが、変わらないために変わり続けなければいけない」と語る。

まずは会員登録(無料)

登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。

こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。

春割実施中