高校の部活に週休2日以上の休養日が求められることになりそうだ。
 まあ、当然だろう。

 中日新聞の記事は、この間の事情を

《学校の運動部活動の在り方に関するガイドラインづくりを進めているスポーツ庁の検討会議は二十三日の会合で、これまで「中学校では週二日以上の休養日を設ける」としてきた活動時間の目安について、審議中の原案に、高校の部活動も原則対象として盛り込むことを了承した。》(こちら

 という言い方で伝えている。
 個人的には、なんの問題もないと思う。

 というよりも、長らく現場任せのまま放置されていたブラック部活の実態に、スポーツ庁という官僚組織がはじめてメスを入れようとしている点で、画期的な取り組みだと、積極的に評価するべきなのかもしれない。 

 一部の体育系の部活が、生徒たちに過酷な練習スケジュールを強要していることは、スポーツ医学的な見地から見て不適切だ……というだけの話ではない。競技力の向上を阻害し、生徒の健全な日常生活を破壊する恐れすらある。顧問として生徒指導に従事する教員の負担が著しく過大である点も無視できない。

 要するに、現状の体育会系の部活(※一部文化系も含む。以下、煩瑣なので「部活」と書かせていただく)は、官庁が乗り出さねばならない程度にどうかしているということだ。あまりにも異常すぎて、内部の関係者が、自分たちのおかしさに気づくことができずにいるのであろう。

 にもかかわらず、いまここにある現実として様々な立場の人間を巻き込んでいる部活という運動体は、内部の人間には制御不能な一個の地獄車だったりする。

 というのも、生徒は顧問に口ごたえできないし、顧問は顧問でOBや地域社会の期待を裏切ることができないからだ。もちろん学校は学校でPTAの意向や生徒募集への影響を無視できないし、高体連や高野連や新聞やテレビは部活を素材に制作されるドラマから自由になることができない。とすると、部活が自らをドライブさせている自動運動は、誰が動かしているのかその張本人がわからないにもかかわらず、それでいて誰も止めることのできない地球の自転みたいな調子で、その上に乗っている人間たちの昼夜のあり方を決定してしまう。

 とすれば、こういう怪物は、お上が法と規制のカタナを抜いて退治しにかかるほかに方法がない。
 その意味で、スポーツ庁の対応は、着手の段階として、いまのところは適切だと思う。

 検討会議が作成しているガイドラインに反発する声もある。
 2月27日の日刊スポーツ・コムに

 「順番を間違ってないか、公立高の部活週休2日に疑問」(こちら

 という見出しの記事が掲載された。

 詳しくはリンク先を参照してほしいのだが、記事の中で、書き手の記者は

《何が悪いって、教員の働き方改革を最優先して、子供たちの気持ちを後回しにしていることだ。故障防止が大きな目的ならば、投手の球数制限など、先に語るべきテーマがあるはずだ。いきなり活動日制限は、順番が間違っている。》

《厳しい練習に励むのは、決してトップアスリートだけではない。スポーツ庁だって、平昌(ピョンチャン)五輪での日本選手の躍進を喜び、メダリストのたゆまぬ努力を礼賛する一方で、高校生には頭ごなしに「週に2日以上は運動するな」と命令するのは、お門違いだ。》

《教員の働き方改革が待ったなしの状況なのは理解できる。多忙でどうしようもないならば、部活でなく、授業を減らせばいい。》

 と書いている。
 この記事はネット上に配信されるや否や、即座に炎上した。

 以来、やれ体育会オヤジの独善だとか、部活至上主義者の横暴だとか、さんざんな言われようで現在に至っている。
 袋叩きと言って良い。
 なので、当欄では、重複を避ける意味でも、このうえ、記事についていちいちことあげて批判することは控える。

 むしろ、ここでは、日刊スポーツの記者氏の真意を汲み取って、「部活」という組織なり経験が、いかにわたくしども日本人にとってかけがえのない存在であるのかということについてあらためて考えてみたいと思っている。

 私自身、もともとは、この記事に寄せられた批判の多くに共感したからこそ、このテーマについて書くことにしたわけなのだが、あれこれ検討しているうちに、単に部活をやっつけるだけでは何かを見落とすことになるのではなかろうかと考えるに至った次第だ。

 というのも、日刊スポーツの記事が大筋において的外れなのはその通りなのだとして、そのこととは別に、記者が訴えんとしていた「部活のかけがえのなさ」の実体的な意味は、「学校」よりもっと大きな「社会」という枠組みの中で考えないと正確には伝わらない話だと思ったからだ。

 ネット上で、件の記事を思うさまにやっつけているのは、おおむね「非部活的な」論者だ。

 つまり、高校時代はどちらかといえば勉強のできた組の生徒で、部活練習で朝から晩まで泥にまみれているみたいな暮らし方とは無縁な学校時代を経て社会に出た人たちだということだ。

 こういう人々にとって、部活出身者は、なれなれしくて声がデカくて野卑で高圧的で徒党を組みがちな、なんというのか、日常的に交流したいとはどうにも思えない人たちであるわけで、だからこそ、彼らは、その権化みたいな日刊スポーツの記者氏の言い分を全力で否定しにかかったのだと思う。

 実際、記事の行間には、体育会系っぽさが横溢している。
 それゆえ、ネット内に蟠踞する反部活系の論客たちは、日刊スポーツの記事の内容以上に、その行間にある体育会系っぽい匂いに強烈な忌避感を抱いた。

 これは、だから、単に部活のありかたをめぐる論争というだけのできごとではない。
 昔から戦われてきた、わりと陰険な対立だと思う。

 ネット上ではケチョンケチョンに論破されたあげくにヒモで縛られた資源ゴミの新聞紙みたい扱われている例の日刊スポーツの記事にも、支持者がいないわけではない。

 それどころか、あの記事に共感を抱いている読者は、実のところ、日本人の多数派かもしれない。

 少なくとも私はそう思っている。
 特に、スポーツ新聞のコアな読者層や、自身がハードな部活を経験した中高年の多くは、あの記事に深い共感をおぼえたはずだ。

 「部活が、オレを作った」

 と彼らは考えている。

 「部活のキツい練習を乗り越えたあの時代の汗と涙が、いまの自分を支えている」
 「オレは、教室で学ばなかったさまざまな人生の真実を部活の泥の中で学んだ」
 「理屈じゃないんだ」

 という形式で、彼らはものを考えている。
 で、実際のところ

 「理屈じゃないんだ」

 と考えている彼らは、理屈では自らが勝てないことを知っている人たちであったりもする。

 とはいえ、理屈では勝つことができず、言葉ではうまく説明できないからこそ、その分だけ、部活への思いは、彼らの中に深く根を張っている。

 「理屈じゃないんだ」

 と考える彼らは、ネット上で燃え上がっている論争に、あえて積極的に関わろうとはしない。

 だから、彼らの気分を代弁した記事は、表面上は、ボロ負けの形で論破されている。
 しかし、彼らが敗北を認めているのかというと、おそらくそんなことはない。
 彼らは黙っているだけだ。

 「理屈屋の連中が理屈で勝つのは当然の展開で、だから、オレたちの立場は理屈の上ではきれいに否定されているわけだな」
 「でも、理屈じゃないんだ」

 と、彼らは考えている。
 現実に、世界は理屈で動いているわけではない。

 先輩との付き合い方、後輩の扱い方、忍耐と要領、リーダーシップとフォロワーシップ、命令と服従、友情と割り切り、圧力のかわしかた、団結と自己犠牲、勝利への執念、グッドルーザーとしての振る舞い方、あきらめない心とあきらめた仲間への思いやり、あきらめてしまった自分へのアフターケアとあきらめていないふりをすることの大切さなどなど、部活という特殊な閉鎖環境で学んだことが、自分をマトモな社会人にしてくれた、と、彼らはそう考えて、自分を鍛えてくれた部活に感謝している。

 仮に、部活の練習にいくらか有害だったり不適切だったりする要素が含まれているのだとして、だからって、ほかならぬ自分がくぐりぬけてきた思春期の試練がまるごと無意味な徒労だったと決めつけられて、はいそうですかと自分の青春を否定できると思うか? 終業のベルが鳴ると同時に帰宅して予習復習に励んでいたタイプのいけ好かない高校生が、将来、有識者会議に招集されることが当然の展開なのだとして、すべての高校生があんたみたいな腐れインテリを目指すべきだというガイドラインはいくらなんでも行き過ぎじゃないのか?

 われわれの社会は、部活で養われた集団性と自己犠牲の精神を企業戦士に不可欠な資質として、高く評価し、利用してきた経緯の上に成り立っている。

 言葉を変えていえば、一丸となって練習に励む部員たちの滅私奉公の集団性をあらまほしき自己鍛錬として賛美する部活魂の教条を、そのままグローバル社畜の労働観として結実せしめたのが現代日本の人材育成プロセスだったわけで、決して自己都合の有給休暇を申請しないばかりか日々のサービス残業を自らの喜びとして消化する夜勤人形は、実は部活アルゴリズムによる鍛造作品だったのである。

 1年に3日しか休まない甲子園出場チームの部活練習は、ダルビッシュがいつだったか自身のブログの中でものの見事に否定し去っていた通り、競技力の向上に寄与しないばかりか、一番大切な高校球児たちの選手生命を脅かす深刻な脅威でもある。

 その点で、休まない部活には、ほとんどまったく擁護の余地がない。

 ただ、世間の人間が部活に期待しているのは、必ずしも部員をアスリートとして成長させる過程や、チームを強化する機能ではない。

 だから、ダルビッシュをはじめとするスポーツの世界の専門家の言う部活批判は、部活の価値のうちの半分しか否定したことになっていないし、事実、休まない部活の素晴らしさを信奉している人々の心にはまったく届いていない。

 「わかってるよ」
 「うん。適切に休養をとった方が成果があがるとかいうお話は、20年前から通算で3000回ぐらい聞いてる」
 「理屈じゃないんだよ」
 「勤行だよ勤行」
 「レギュラーなおもて罰走をとぐ、いわんや補欠をや、だよ」

 部活に期待されているものの中身は、実に多様で、しかも当然のことながら理屈では説明できない。

 精力善用。高校生にグレるいとまを与えない練習スケジュール。勝っても勝たなくてもとにかく一日中練習することの尊さを教えること。勝利と同じほどに尊い敗北の価値を知ること。先輩後輩のケジメを学ぶこと。協調性。克己心。チームスピリッツ。パシリ耐性。理不尽に耐える根性。

 特に最後の「理不尽に耐える根性」は強烈だ。
 この教条がある限り部活は不滅だ。

 というのも、外部の人間が部活の理不尽さを指摘すればするだけ、部活の価値が上昇することになるからだ。

 ともあれ、理不尽の温床であることが部活の価値の源泉であり、様々な理不尽の中で練習することが自分たちの人間性を高めている、と少なくとも部活の内部にいる彼らはそう考えている。

 とすると、彼らの練習は、滝に打たれている修験者の修行とそんなに変わらないわけで、ということはつまり、滝の水が放出する位置エネルギーの浪費を責めても仕方がないのと同じ理路において、部活の理不尽を指摘しても意味がないのである。

 「部活の決まりごととか練習メニューとか序列とかって、理不尽なことだらけですよね」
 「だからこそ、理不尽に耐える心が養われるんじゃないか」

 という、この種のやりとりに絶望した経験を持つ人は、少なくないはずだ。
 理不尽を指摘すると、指摘された側の人間が

 「理不尽だからこそ価値があるんだ」

 と答えるこの融通無碍な構造の不死身さが、うちの国の組織の本質なのかもしれない。

 結局のところ、あらゆる組織が何らかの理不尽を内包している以上、大切なのは、個々の組織の理不尽を指摘したり改革したり改善したり修正することではない、と、リアリストを自認する人々はそういう順序でものを考える。

 むしろ、組織の中で活動するにあたって個人が身につけておくべき心構えは、理不尽に適応することだ。自分が直面している理不尽を看過し、黙殺し、あるいは身をかわし、ひたすら耐えるなりして、とにかくその理不尽と対決しないことが結局は自分を守ることになるというわけだ。

 私は、高校では陸上部の部員だったが、陸上競技は、チームスポーツでないという点で、ほかの運動部の部活とは性質の違う環境だった。

 というよりも、私は、個人競技である陸上部の「部活っぽくない」ところに惹かれて入部した生徒だったわけで、そもそものはじめから、部活を嫌っていた。

 つまり、私は、高校生の頃から、一貫して、部活的な人間ではなかった。

 具体的には、協調性やチームスピリッツみたいなものはハナで笑っていたし、リーダーシップも皆無なら、後輩の面倒を見るテの趣味もなく、自己犠牲の精神にいたっては心から憎んでさえいたということだ。

 そんなわけなので、サラリーマンは半年しかつとまらなかった。

 私は、自分が部活を拒絶したことと、企業社会に適応できなかったことを、無関係なふたつの出来事であったとは思っていない。

 自分は、部活に適応できない人間だったから、会社員がつとまらなかったのだと、半分ぐらいはそう思っている。

 逆に言えば、部活が、会社員としての資質を伸ばす上で有効な場所だということを、私自身が、半ば信じているということでもある。

 部活を否定することは、日本の企業社会のある部分をそのまま否定することを意味している。

 だから、部活をめぐる議論は簡単には落着しない。
 躍起になって部活を批判する人々がいる一方で、他方には、その意見に決して耳を傾けない人たちがいる。

 最終的に、この問題は、部活それ自体のあり方を超えて、わたくしども日本人の集団性についての見解の対立を反映した論争に発展することになるはずだ。

 私は、短距離走の選手だったので、練習スケジュールは自分で決めていた。
 部活から学んだことは、とにかくむずかしいことを考えずに、思い切り走りきることだった。

 苦手なものから走り去ることを繰り返していれば、誰であれ、いずれたどりつくべき場所に到達する。

 私はいま、そういう場所にいる。
 他人の部活については、勝手にしやがれと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

小田嶋隆、2年ぶりの新刊! アル中時代を正面から振り返る。
……しかし、今回の話のあとでこの本の紹介って、何だか。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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