神奈川県相模原市で起こったひどい事件について、ようやくその概要を把握しつつある。
 第一報は知っていたのだが、続報は追っていなかった。
 避けていたと言った方が正確かもしれない。

 ツイッターのタイムラインに流れてくる断片的な感想を除けば、ついさきほどまで、私はマスメディアの情報を遮断していた。

 理由は、当初の段階での扇情的な伝え方が不快で、事件の詳細にアクセスする気持ちになれなかったからだ。
 なので、私は、事件の細部にはあまり詳しくない。概要を正しく把握しているのかについても自信がない。

 有り体に言えば、事件発生以来、いくつかのチャンネルから偶然に流入してきた情報と、この原稿を書くために、ついさきほどからニュース検索をした結果たどりついた記事以外には、情報を持っていない。

 ただ、正確な情報はつかんでいないものの、事件に誘発されてもやもやと考えていることはいくつかある。

 こういう事件が起こると、いつも同じようなことを考える。
 今回は、そのことを書く。
 事件そのものについてではない。
 どちらかといえば、事件を物語として消費させている回路について書くことになると思う。

 とはいえ、アタマの中に浮かんだ言葉を、そのまま言葉にしようとは思っていない。それをすると、たぶん、間違った伝わり方をする。

 この種のどうにも救いのない惨事について何かを書くにあたっては、極力、注意深い態度が求められる。無神経な書き方をすると、こちらの意図とは違う受け止め方をする読者を生むことになる。

 それだけではない。ためにする誤読を意図的に拡散する悪意ある煽動者が登場することも考慮に入れておく必要がある。つまり、私は、揚げ足をとられないように発言せねばならない。

 ウェブ時代の書き手は、タイプしたテキストの中に、無神経なものの言い方がひとつかふたつ含まれているだけで、すべてが台無しになってしまう環境の中で文章を書き進めることになっている。
 そんな中で、この事件は、書き手にとって扱いにくい事件だ。

 理由は、ざっと見て2つある。
 ひとつは、今回の事件の被害者の多くが知的障害者だからで、もうひとつは、加害者と見なされている人間が精神障害者と診断された過去を持っているからだ。
 この事件は、二重の意味でむずかしいわけだ。

 で、そのむずかしさが、事件報道を変な具合に加熱させている気がして、私はそこのところにも、もやもやするものを感じている。

 具体的に言うと、私は、事件について、テレビや新聞が、一定の留保を置いた報道を装っている印象を抱いているということだ。

 まわりくどい言い方をしてしまった。
 が、まわりくどい事情はまわりくどい言い方でしか説明できないということをどうかご理解いただきたい。

 実際に、テレビは、さまざまな部分にモザイクをかけたり、表現をやわらげたりして、自分たちが人権に配慮した報道をしているということを印象づけるべく、要所要所で奥歯にもののはさまったものの言い方を強調していたりする。が、全体としては、結局のところ、通常進行で、事件の詳細をあるがままにむごたらしく描写することに心を砕いている。

 しかも、彼らは、容疑者が書いたとされる手紙のコピーをこれでもかこれでもかと繰り返し読み上げ、大写しに画面表示し、特定部分にハイライトを当て、解読し、解説し、余白を補い、結果として、19人の人間を殺したとされる男の主張を全力をあげて拡散している。

 私が、テレビを見ることをやめたのは、犯人をダークヒーロー扱いにしているみたいな絵ヅラにうんざりしたからだ。

 スタジオでしゃべっているコメンテーターや、番組の構成を担当しているディレクターが、容疑者をヒーロー扱いする意図を持っていると言い張るつもりはない。

 そんな意図を持っている人間は、一人もいないはずだ。
 が、結果としては、犯人を英雄視する内容を含んだ番組が放送されている。

 無論、テレビを見ているほとんどの視聴者は、容疑者をヒーローだとは思わないだろう。カッコいいとも思わないし、まして憧れるなどという感情は誰も抱かないはずだ。

 が、中には容疑者を英雄と思う者もいる。
 実際に、通り魔的な犯行を犯した人間が、過去のビッグネームの犯罪者を英雄視していたケースは、これまでに報道された事件の中にもいくつか見られている。

 その種の明示的な影響とは別に、容疑者が浴びているスポットライトを羨んでいる犯罪者予備軍も、少なくはないはずだ。
 今回の容疑者自身、おそらく、逮捕の時の様子からして、メディアの注目を喜ぶタイプの人間なのだと思う。

 とすると、いま現在ヘビロテされている植松聖劇場の報道スペシャルは、彼自身にとって、願ったり叶ったりの番組であるはずで、その意味で、メディアは、植松容疑者にある種の達成感、ないしは「エサ」を与えていることになる。

 彼自身に向けただけの「エサ」ではない。
 この種の報道は、植松容疑者と同質の願望を抱いている不安定な予備軍に、大変によくない暗示を与えている。

 WHOは、自殺予防の手引として、いくつかのガイドラインを作成している。
 そのうちのひとつに、自殺報道に関しての手引きというものがある。

 この手引きの中で、WHOは、センセーショナルな自殺報道や、自殺を問題解決のひとつであるかのように伝えるニュースの作り方が、潜在的な自殺志願者を自殺の実行に導き得ることを示唆しつつ、報道関係者に、過大な自殺報道の自粛を呼びかけている。

 詳しくは内閣府のホームページに、その内容が紹介されている(こちら)。

 自殺報道と犯罪報道を同一視することはできない。
 それでも、犯罪報道においても、あるタイプの大量殺人者を過大に扱う態度が、模倣犯を誘発する可能性は、考慮されなければならないとは思う。
 その点から考えると、いま繰り返されている植松劇場は、派手過ぎる。
 まるでボニーとクライドみたいだ。

 思うに、今回の事件に関して、テレビ各局は、被害者側のプライバシーを暴き立てるいつもの手法をそのまま押し通すことができなかったのだろう。

 理由は、さきほども申し上げた通り、被害者が知的障害者であり、氏名や年齢をはじめとする個人情報をそのまま伝えることがはばかられたからでもあれば、遺族へのストレートな取材が困難だからでもある。

 ついでに言えば、以下は私の憶測だと思ってもらって構わないのだが、今回、事件の犠牲となった人々についてのプライベート暴露報道が少ないのは、報道のクルーにとって、被害者が定番の「物語」に載せにくい人たちだったからだ。

 突発的な犯行の被害者に関しては、小金井でシンガーソングライターが刺された事件でもそうだったし、三鷹のストーカー殺人のケースでも同じことだったが、メディアは、小中学校の卒業文集を発掘したり、古い同級生の証言を寄せ集めることを通じて、定番の「物語」を紡ぎにかかる。これはもう、テレビの病気みたいなものだ。毎度毎度、犯罪被害に遭遇した犠牲者は、死人に口なしとばかりに、徹底的にマナイタに乗せられ、生前の生活を再構成され、一般の娯楽に供される運命に抗うことができない。

 が、今回は、人権的にも素材的にもそれが困難だった。

 それゆえ、ワイドショーは、容疑者の側の私生活や主張を微に入り細を穿って紹介することで、VTR素材の尺を稼がざるを得なくなった。それが、今回の植松劇場を生んでいるのだと思う。

 もっとも、容疑者は精神障害を持っているかも知れず、とすれば、ストレートな報道は難しいはずなのだが、なあに、これだけの殺人を犯したのだから、人権的配慮は無用だ、と、彼らは判断したのだろう。

 本当に人権的配慮が求められているのは、容疑者本人に対してというよりは、容疑者と同じ精神障害をかかえている人々に対してなのだが、彼らは、そういう細かいことは考えない。

 なんとなれば、番組を支えている気分は、「悪い犯人はどんなに残酷に罰してもよい」という、素朴な正義感だからだ。これは視聴者の側にしてみても同じことで、多くの番組視聴者は「精神障害者だからといって、病気の陰に隠れて罪を免れて良いはずがない」というふうに思っていたりする。

 そして、私が、もっとも大きなもやもやを感じているのは、このテレビのワイドショーを成立させている「素朴な正義感」に対してだ。

 今回、テレビが何度も何度も繰り返し読み上げていた容疑者の手紙の中に見られる「障害者は動物のように生きている」「重複障害者が安楽死できる世の中を」「障害者は不幸を作ることしかできない」といった文言は、人間の生命に優劣をつけることで社会を改良できると思っている者の思い上がりでもあれば、およそ浅薄な優生学的思想そのものでもある。

 しかし、これが容疑者個人の内心に独占されている特殊で奇矯な考え方なのかというと、残念だが、現実にはそうでもない。植松容疑者の言いぐさは、たとえばネット掲示板の中では、毎日のように繰り返されているごくごく一般的な露悪的述懐でもあれば、自分では「冷徹」なつもりでいる“論客”が、「人権」や「弱者」という言葉を見かける度に反射的に浴びせかけてくる親切ごかした処方箋でもあるわけで、考え方としては、わりと一般的なテンプレートだったりする。

 しかも、この優生思想は、どうかすると、ある一群の人々が表明したがる「素朴な正義感」とリンクしている。

 なんというのか、少なくとも容疑者にとって、これが「正義の犯罪」であり、少数派ではあるにせよ、一部の視聴者の間にその植松容疑者の「正義」が、共有されている感じがあって、私には、それがどうにもこうにもうす気味が悪いのである。

 たとえば、曽野綾子さんは、「週刊ポスト」(2月1日号)に掲載されたインタビューの中で、「高齢者は適当な時期に死ぬ義務がある」という主旨の発言をして、物議を醸している(こちら)。

 当然、この発言には、たくさんの反発の声が寄せられ、ネット上でも大きな話題になった。

 が、注意すべきなのは、非難や反発の声が大きかっただけではなく、曽野綾子さんの発言を擁護したり、彼女の考え方に共感を寄せる声もそれなりに集まっていたことだ。

 曽野綾子さんは、『私の危険な本音』(青志社)という本を出版していることでも分かる通り、「本音」を売り物にしている発言者だ。

 だから、反発する人もいるし、アタマから嫌っている人もたくさんいるわけなのだが、その一方で、「お花畑の偽善者が言えずにいる冷徹な本音を正面切って言う、勇気ある直言者」として、人気を博してもいる。だからこそ、彼女は、『人間にとって成熟とは何か』というベストセラーを出している。

 なんというのか、彼女の言う、「社会に役立たなくなった老人は、ドクターヘリを利用すべきではない」であったり、「女性社員は子供が生まれたら会社をお辞めなさい」といった「残酷」な本音には、一定の強固な需要があるということだ。

 その需要は、どんなところからやってくるのだろうか。

 思うに、彼女の「本音」を称揚する人々は、彼女が残酷なことを言うのは、「彼女が残酷な人間だからだ」とは考えていない。曽野綾子さんの読者は、彼女が残酷な本音を言うのは、何よりも偽善を憎み不都合であれ残酷であれ、目の前にあるありのままの真実を、あるがままに伝えようとする勇気ある正直な人間だからだというふうに考えている。

 で、そういう人たちにとって、「社会にとって役に立たなくなった人間は、社会から身を引くべきだ」という思想は、残酷である以上に、「真実」なのだ。

 とすれば、それら「曽野綾子さんが言う、この世の重いけれども直視しなければならない“真実”」は、植松容疑者の言う、「障害者は不幸を作ることしかできない」という断言と、そんな遠いものではない。

 植松容疑者のように、あえて障害者を殺すという積極的な行動に出ることと、老人にドクターヘリの不使用を促して、やんわりと不作為の死を促すことの間には、もちろん、巨大な違いがあるし、明らかな犯罪である前者と、単に底意地の悪い忠告に過ぎない後者を同一視することは断じてできない。

 しかし、いずれも、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。

 彼らは、「人間の生存を保障するために社会が設計されている」というふうには考えない。「社会を存立せしめるために人間の生存が許されている」というふうに考える。

 とすると、社会に役立つパーツとしての役割を終えた老人や、物理的な制約から社会に役立つことができない状態にある病人や、負傷者や、はじめから社会の役に立つことの難しい障害者は、社会に負担をかけないためにも、なるべく早く退場すべきだというお話になる。

 効率性を考えずに社会を維持することは不可能だ。
 手前勝手に非効率な要求をする人間のわがままを、無条件に受け入れることができないのは当然だ。
 だがそれは、「効率を理由に、他人に、社会からの退場を宣告していい」と考えることとは、似て非なるものだ。

 そもそも、人間の幸福度を、他人が判断することはできない。
 以前、尊厳死の問題に取り組んでいる人に聞いた話なのだが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のような難病で寝たきりになった人たちに、

「あなたは、いま、幸せですか?」

 と尋ねると、意外なほど多くの患者が(たしか8割以上と言っていた気がする)

「幸せだ」

 と答えるのだという。
 個々の人間の幸福感や満足感は、本人にしかわからない部分を多く持っている。

 難病の方と並べるのもおこがましいが、私自身、昨年、足を折って、ずいぶん不自由な思いをした。では、歩けないでいた間中ずっと不自由を感じていたのかというと、案外そんなこともない。歩けないなりの暮らしの中で、小さなことを面白がったり、できる範囲の暮らしの中に生きがいを見出したりして、それなりに楽しく暮らしていた。

 とすれば、病気をすることも、年を取ることも、そんなに怖いことではない。

 私個人は、あらゆる条件の人間を生存させるために社会があるのだという、学校で習った通りのお花畑ライクな社会観をそのまま鵜呑みにしている。

 社会に出て、さすがに、その目的が完全に達成可能とまでは思っていない。だが、病気になっても、足を折って動けなくなっても、目に見えるカタチで社会の役に立っていなくても、誰であれ、生きているだけで、立派に社会の一員として胸を張って生きて良いのだと考えている。

 最後に、何回かネット上で話題になっている、「ヤフー知恵袋」の回答にリンクを張っておく(こちら)。

 社会は、個人の弱さをカバーするためのシステムだ。
 他人に死んだほうが良いと言えるような人間は死んだ方が良い。
 というこの言い方は、永久にループするわけだが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

「寛容さ」と社会の強さをそろばんずくで考えるなら、この本と、
最強国の条件』(エイミー・チュア)も面白いかもしれません。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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