お盆休みはあっという間に過ぎた。
 毎年のことだが、なにもできなかった。
 でもまあ、休むというのは何もしないということなのだろうからして、これはこれで良い。

 ただ、ちょっと残念なのは、本を読むつもりでいた時間のほとんどを、テレビの前で漫然と過ごしてしまったことだ。

 いまとなってみれば、夏休みには本を読もうなどと、中学生みたいな目標を立てていたことが恥ずかしい。ついでに申せば、その目標が達成できなかったことにも、恥辱を感じる。
 で、結局、あれやこれやと文句をつけつつ、だらだらとオリンピックと高校野球を交互に見ている。

 どちらかをやめるべきだと、ある男に指摘された。
 どちらかというのは、高校野球とオリンピックのどちらかを見るなということではない。テレビを見るのをやめるか、ケチをつけるのをやめるのか、どちらかにしろということらしい。

 まあ、おっしゃるとおりではある。
 いやなら見なければ良い。見るなら見るで、グダグダ文句をつけるべきではない。まったくだ。

 が、実際にテレビを見てみると、特に録画で見る競技には、やはりどうしても不満を言いたくなってしまうものなのである。

 責任の半分が、こちらにあることはわかっている。
 つまり、ナマで競技を追いかけている時には気にならない部分が、録画だと神経にさわるわけで、このことの責めは、実況をしているアナウンサーや編集を担当したスタッフよりは、ナマで視聴する時間にきちんと目を覚ましていないわれら視聴者の怠慢に帰するべきだということだ。

 ナマで見ていると、実況アナが大きな声を出しても気にならない。スタート前の準備の段階からドキドキしたり不安になったりしつつ、選手の身になって手に汗握る気持ちで見ている視聴者なら、思わず叫んでしまうアナウンサーの気持ちもわかるし、メダル獲得の瞬間の決め台詞がいくぶんあざとかったり形容過剰に陥っていたのだとしても、同じように興奮して見ている視聴者の気分からすれば、ごく自然に同調できるからだ。逆に、実況アナがあくまでも冷静沈着な態度で中継を続けたら、ナマで見ている視聴者は、むしろ淋しさを感じるかもしれない。

 しかし、朝のニュースの時間帯に、メダルの瞬間の録画VTRを、寝起きのぼんやりしたアタマにいきなりぶつけられることになる午前8時の視聴者は、違う。彼はスタジオの興奮について行けない。

「朝からやかましいなあ」
「うるせえな、メダルが何だっていうんだ」
「いいからわめくなよ」

 と、私は、選手のガッツポーズはともかくとして、その選手の快挙を芝居がかった拍手と歓声で煽り立てるスタジオの人たちの異様なテンションに、毎度毎度ドン引きさせられている。

 スタジオの中で五輪競技のハイライト映像を共同視聴する役割を担いつつ、映像へのリアクションをハンディカメラで狙われ続けているテレビ出演者が、勝利や敗北の瞬間を映し出す映像に対して、自分が本当に感じているよりいくぶんか大げさなリアクションを取ってしまう事情はよくわかる。

 私だってギャラをもらってスタジオのブーメラン型のテーブルに座らされれば、きっと両手をバウバウ広げて拍手をしつつ

「感動しましたぁー」

 とか

「やったぁあああ」

 とかなんとか、お人好しの感激屋みたいなコメントを配給することになると思う。なんとなれば、テレビカメラを向けられている状態で、日本人のメダルに飛び上がって拍手せずにいることは、昼食会での部長のスピーチに頷かなかったり拍手しないことと同じく、場を支配する秩序に対する公然たる反抗だからだ。

 そんなわけで、一人ひとりのテレビ出演者が、ほんの少しずつ盛り気味に感動してみせるリアクションのウソが積み重なった結果、当日の番組として配信されるメダル歓声映像は、狂気じみた裏声と怒号のシュプレヒコールみたいな地獄絵図になるわけで、寝起きのテレビ視聴者たる私は、毎朝、そのうさんくささに辟易している次第です。

 スポーツに関わる時、あるいは、「祖国」なり「母校」なりという枠組みを背負って何かに取り組む時、と、もう少し枠を広げた言い方をしても同じことなのだが、そういうふうにある同質的な集団の一部として振る舞う時、わたくしども日本人は、ちょっと異様な集団になる、と私は考えている。

 たとえば、リオ時間8月8日に、男子柔道73キロ級で見事金メダルを獲得した大野将平選手について、翌日の毎日新聞は、

五輪柔道 大野、逆境バネに 体罰問題乗り越え
 と題する記事を掲載した。

 ここで言う「逆境」とは、大野選手が天理大の主将(4年生)だった2013年に発覚した同大学の暴行事件と、それに対する処分(30日間の停学、全日本柔道連盟からの3カ月間の登録停止)を指しているのだが、記録を見る限り、この「暴行」事件に関して、大野選手は「加害者」の立場だ。加害者だからこそ処分を受けたということになっている。

 とすると、被害者ならともかく、加害者の立場にあるものを指して、「逆境をバネに」という言い方をするのは、日本語としておかしい。

 「体罰問題乗り越え」という書き方にも、違和感を感じないわけにはいかない。

 この時の天理大の暴行事件を掘り下げて行くと、いくつか「大野主将が罪をかぶった形で事件を処理した」ことを匂わせるソースにたどり着く。

 仮に、それらのソースに書いてあるテキストの憶測が事実で、「内定先や就職先から考えてよりやっかいな立場に立たされかねない同僚部員や先輩の境遇を慮って、大野選手が、無実であるにもかかわらず罪を一人で肩代わりした」というストーリーがあの暴行事件の真相だったのだとすると、今度は、当時の事件処理の仕方がまるごと不正でしたということになる。

 これはこれで大問題だ。
 まあどっちにしても、暴行事件は、「美談」ではない。

 金メダリストの来歴を紹介する記事を書くのであっても、「逆境をバネに」という書き方ではスジが通らない。
 「不祥事から立ち直って」あるいは「反省から再出発して」ぐらいにしておかないと、暴行事件の被害者に対しても会わせる顔がないはずだ。

 が、金メダルは、美談を要求する。
 メダルを取った人間の過去は、美しく修飾されなければならない、と、記者は、そういう圧力の中で記事を書かねばならない。

 かくして、金メダルを獲得した時点から遡って、過去の不祥事を「逆境」と再解釈する美談作成回路が発動した結果、メダリストが過去に犯した不祥事は、武勇伝みたいな扱いの「秘話」「いい話」にされる。

 まるで、昔ヤンキーだった先生が、ヤンキー時代の不行跡を自慢話として語っているみたいな話だ。

 こういうことが起こるのは、メディアと読者の間に「美談」をめぐる共犯関係があるからだ。
 スポーツ新聞やワイドショーは、選手の無名時代の友人やら故郷に住む親戚やらを手当たり次第に取材して、とにかくあらゆる些細なプライベート情報を収集しにかかる。
 で、お目当ての選手がメダルを獲ると、事前に撮りためてあった材料をもとに、型通りの「美談」を構成しにかかる。

 これは、メディアの商売であるようにも見えるが、それだけではない。商売である以前に、視聴者の強い要望にこたえた結果であることを認識せねばならない。あれは、われわれがやらせている。わたしたちは、ああいうのが大好きなのだ。

 視聴者は、美談を要求する。
 素材自体は子供時代のわんぱく自慢でも良いし、他愛の無い泣き虫エピソードでもかまわない。
 どんなお話であれ、最後がメダルに着地すれば、必ず美談になる。彼らにしてみれば、そういうVTRの作り方は、お手のものだ。

 甲子園にも毎度毎度美談がついてまわる。
 ちょうど2年前の今ごろの当欄で、女子マネージャーがおにぎりを二万個握ったエピソードをいじったことがあったが(こちら)、今回も、また似たような話が新聞記事になっている。

熊本・秀岳館の吹奏楽部「野球部と日本一に」 コンテスト断念し甲子園へ

 という見出しで書かれた西日本新聞の記事がそれだ。

 本文を読むと、

《南九州大会は8月11日。県予選を通過しても、甲子園の応援を優先すれば大会には出られない。コンテストか、甲子園か。7月下旬の職員会議は2日間にわたった。多くの教員が「コンテストに出るべきだ」と主張した。吹奏楽部の3年生6人も話し合いを重ねた。「コンテストに出たい」と涙を流す部員もいた。

 しかし演奏がなければチアリーディングもできず、応援が一つにならない。「野球部と一緒に演奏で日本一になります」。顧問の教諭に決断を伝えた部長の樋口和希さん(17)の目は真っ赤だった。》

 と、吹奏楽部のメンバーや顧問が、吹奏楽のコンテストに出場すべきか、甲子園に行って野球部の応援に協力すべきなのかで迷った様子が活写されている。

 とはいえ、記事の末尾は

《「県予選で全力を出し切り吹っ切れた」。部員の田畑史也さん(16)は16日、スタンドでドラムを打ち鳴らした。樋口さんは「最高に気持ちが良い。僕たちも全力で戦います」。頂点を目指すナインとともに「熱い夏」を過ごすつもりだ。》

 となっていて、結局のところ、全体として、吹奏楽部の決断を一人の生徒のハッピーエンドの笑顔に代表させることで処理してしまっている。

 吹奏楽部のメンバーがコンテスト参加を断念して甲子園に行ったことが、本人たちにとって良いことだったのかどうかは、周囲の人間が簡単に判断して良いことではない。

 本人たちにとっても、一人ひとりの部員ごとに、それぞれ微妙に感じるところが違うだろうし、一人の部員の中でも、現在と10年後では違う答えにたどり着くことになるかもしれない。

 コンテストで自分たちの力を試すのもひとつの青春だし、ほかの生徒たちと一緒に、母校の野球部を応援する旅に出ることもまた、それはそれで得難い経験ではある。どちらが尊いのかはわからない。

 ただ、私があくまでも外部の人間として、過去の甲子園記事を読んできた経験を含めたうえで思うのは、甲子園を扱った記事には「甲子園を頂点とする青春」というはるか戦前から牢固として動かない話型があって、その黄金の物語の中では、個々の生徒の生活や思いは、すべて、「甲子園」という巨大な塔を構成するひとつのレンガの位置に落とし込まれるということだ。

 今回の吹奏楽部の記事について言うなら、このお話は「甲子園のために自分たちの部活を犠牲にした子供たちのやせ我慢の夏」ぐらいなエピソードとして、暑苦しい観戦記事の箸休めに消費される。そう考えてみると、「これ、美談なのか?」という声がネット上に渦巻いたのも、当然といえば当然の反応だったと思う。

 甲子園の物語は、怪物投手や、天才スラッガーのエピソードだけでは完成しない。
 戦記文学の行間は、むしろ銃後のエピソードが充実しないと期待通りのセンチメントに到達することができない。

 だからこそ、甲子園大会が近づく度に、毎度毎度、進学クラスをあきらめたマネージャーや、負傷したキャプテンや、志半ばで病に倒れた監督や、仕事をやめて子供の送り迎えをする父親や、一年中一日の休日も無く球児たちの面倒をみる学生寮のおばさんといった雑多な人々の「尊い犠牲」のストーリーが、ぽつりぽつりと紙面に紹介されるのであって、そんなふうにしてグラウンドを見つめるファンの目が、塁上に立つランナーや、守備位置でサインを確認している内野手の背後に、それらのあまたのグラウンドに立てない協力者の幻影を見るからこそ、甲子園の物語は、適切な湿り気を確保できる。埃っぽい8月のグラウンドに夕立と虹が必要なように、球児の青春には、犠牲の物語が不可欠なのである。

 今回の五輪競技で、私がナマで見た中では、シンクロナイズドスイミング、女子デュエット決勝で銅メダルを獲得した乾友紀子・三井梨紗子組の話が印象的だった。

 メダル獲得直後のインタビューで乾友紀子選手は、
「毎日が地獄のような日々で……もう無理だと思うこともあった」
 と硬い表情で言っていた。が、最後には、
「先生について来て良かった。努力が報われた」
 と井村雅代ヘッドコーチへの感謝の言葉を述べている。

 おそらく、乾選手は、心のままに思ったことを言っただけなのだと思うのだが、彼女の言葉は、結果として、見事なばかりに、日本のスポーツの美学を体現している。

 どういうことなのかというと、甲子園の美談も、オリンピックの勝利インタビューも、結局のところ「栄光の前には地獄が必要で、飛躍のためには逆境が必須で、勝利の影には犠牲が不可欠だ」という、ぞっとするような勤勉哲学に着地しているということだ。

 こういったあたりの設定を見る限り、われわれの社会は丸ごとブラック企業なのだと考えざるを得ない。

 スポーツから伝わってくるメッセージは、本来なら、肉体を躍動させる喜びや、ゲームに没入することの楽しさであるはずだと思うのだが、夏休みの競技中継から伝わってくるのは、犠牲の尊さと、忍耐の重要さと、私心を捨てて反復練習に従事することの美しさばかりだったりする。

 メダルを獲得した選手には、もっと個人的な自慢や喜びを表現してほしい。
 ブラック企業みたいに必死で取り組まないと成果は出ないぞなんていうお話を、私はメダリストから聞きたいとは思わない。

 ブルームバーグのウェブ版が伝えるところによると、IMFの対日審査責任者を務めるリュック・エフェラールト氏は今月2日に記者団に、「日本には賃金上昇を支える政策が必要だ」と指摘したのだそうだ(こちら)。

 IMFによるこの提言は、ふつうに解釈すれば、日本企業が、安倍晋三首相による賃上げの呼びかけにもかかわらず、頑として賃金の硬直性を改めようとしないことへの警告と見るべきなのだろう。

 私個人は、もう一歩踏み込んで、実質賃金が低下し続けているにもかかわらず、サービス残業を強いられ、有給休暇さえ消化せずに頑張っている日本の労働者への、反抗(ないしは怠業)を促すサインなのだと思っている。

 私の個人的な感触から申し述べるに、地獄のような日々の先には、ふつう、死や破滅が待っているはずで、地獄のような日々の先に栄光が訪れるのは、かなりのレアケースだと思うのだが、どうなのだろう。

 ともあれ、私は、その先に何が待っているのであれ、のんびりした日々の先にあるものを受けとめようと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

小田嶋さんの執筆ご苦労話や美談を
こんど載せましょうか、ダメ?

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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