日経ビジネスオンラインでは、各界のキーパーソンや人気連載陣に「シン・ゴジラ」を読み解いてもらうキャンペーン「「シン・ゴジラ」、私はこう読む」を展開しています。※この記事には映画「シン・ゴジラ」の内容に関する記述が含まれています。

 シン・ゴジラを見てきた。
 大変に面白かった。

 できれば、感想はこの2行でおしまいにしたい。が、どうやらそういうわけにもいかない。チケット代は編集部が負担している。ということは、感想は仕事の一部でもある。因果な商売だ。

 私が、映画の感想を伝えることに臆病なのは、かつて、いくつかの映画に関して余計なことを言ったおかげで、さんざんにやりこめられた記憶があるからだ。
 ぎゃふんと言わされた、というヤツだ。

 オダジマは、「素人がきいたふうなこと言ったおかげで思い切りヘコまされる」経験を、既に何度か味わっている。
 いやでも慎重になる。

 当欄でも何度か触れたことがあると思うが、私は、映画、アニメ、マンガ、演劇といったあたりのサブカル教養をほとんどまったく持っていない。同世代の中では、おそらく、その方面の事情から最も遠い部類の人間に当たるはずだ。

 多少とも詳しいのは、音楽と文学ぐらいなのだが、それにしたところで範囲はおよそ限られている。その道の「通」の人たちにかかれば、赤子同然だ。まるで歯が立たない。

 サブカル教養を授からなかった理由は、自分なりにはわかっている。
 退屈しないからだ。

 もう少し詳しく述べると、私は、昔から、ひとりで何もせずに部屋の中にいても、比較的退屈することの少ないタチで、それゆえ、他人の作った作品を鑑賞して時間をつぶすことには、あまり熱心ではなかったということだ。

 この性質が、わりあいに特異な持ち前であることを知ったのは、大学生になってからのことだ。

 サブカル好きな学生の多くは、他人と一緒に過ごす時間はともかく、一人でいる時は何らかの情報や作品に触れていないと退屈で死んでしまう仕様の人たちだった。

 私自身は、受験勉強を終えた時点で情報収集からは足を洗ったつもりでいた。なにも、大学生になってまでむきになって勉強しなくても良いじゃないかと思ったからだ。

 ところが、優秀なサブカル求道者は、優秀であればあるほど、あらゆる分野に勤勉だった。
 勤勉というよりは、彼らは、何らかの作品なり情報なりに触れていないと、たちまち呼吸困難に陥る設定の、なんというのか、泳ぎ続けていないと死んでしまうサメみたいな人たちに見えた。

 その点、私は、人間ができていたのか、アタマが悪いのか、それとも好奇心がもともと希薄だからなのか、何もせずに一人でいることが、たいして苦にならなかった。

 で、映画にも行かず、本も読まず、テレビも見ず、電話をするわけでもない時間をのんべんだらりと適当に飲んだくれてやり過ごしながら、ある日気がついたらおっさんになっていた次第だ。

 1990年代に入って間もない頃、東大の駒場祭に呼ばれたことがある。
 実行委員の中に私のファンがいたのだと思う。

 招かれたのは、駒場の構内にしつらえられた簡単な野外ステージ上での鼎談で、私以外のメンバーは、機動戦士ガンダムの富野由悠季監督と、もう一人は、名前を思い出せないのだが、航空宇宙学科の教授さんだった。

 私は、当時、富野監督の名前を知らなかった。
 信じられない向きもあるだろうが、本当の話だ。

 ガンダムというアニメがあることは知っていたが、見たことはなかった。内容についても
「アニメなんだから子供向けなんだろう」
 ぐらいに思っていた。

 とんでもない話だ。
 そんな調子だから、話は噛み合わなかった。

 私は、自分が話の流れから取り残されていることに焦って、何か面白いことを言おうとして、スベったりしていた。
 スベったことは、まあ仕方がない。よくある話だ。

 よろしくなかったのは、私が、富野監督の仕事を良く知らないまま壇上に上がっていることのとんでもなさに、まるで気づいていなかったことだ。
 おそらく私は、
「なるほど、ガンダムというのは宇宙の話なのですね」
 という感じの、あり得ない応答を、悪びれもせずに繰り返していたのだと思う。

 まったくもって、とんでもない話だ。
 トークショーが終わると、サインを求める学生の行列が出来た。
 私の前には3人ぐらい。この人数も、もしかしたら、実行委員会による動員だったのかもしれない。

 富野監督の前には、数えきれない数の学生が列を作った。

 監督のサインを待つ間、「感激です」「がんばってください」「次回作を期待しています」などと声をかけ、握手を求め、明らかに感動している学生の姿を眺めながら、私は、その時になってはじめて、自分が場違いな場所に座っていることに思い至っていた。

 それから、主催者に促されて席を立つまでの20分ほどの間、私は、針のムシロの上に座っている気分だった。

 サインを求められているのでもなく、ただ監督の隣に座って、ガンダムのために集まった学生たちの白眼視に耐えている時間は、私の人生の中で最もいたたまれない時間のひとつだった。

 後日、その時の顛末を知り合いの編集者に話したところ
「オダジマさん。それ、あんまりヒトに話さない方が良いと思います」
 と言われた。
「どうして?」
「オレ自身がいま現実にそうなんですけど、けっこう気を悪くする人間がいると思うんで」

 なるほど。
 編集者氏によれば、富野監督のありがたみを理解していない人間が監督と同席したことだけでも腹立たしいのに、それをまた面白い体験談みたいに話す態度はファンにとっては、受けいれがたい体験だというのだ。

 まあ、そうなのかもしれない。
 私も、立場が逆だったら同じことを思うはずだ。

 1999年の8月に、今は亡き筑紫哲也さんがキャスターをつとめていたニュース番組に、ブラジルのロナウド選手が出演したことがある。

 その時の筑紫さんの振る舞い方が「ロナウドのありがたみをわかっていない素人」そのもので、私は、たいそう腹を立てたのを覚えている。

 当時公開していたウェブ上の日記に、私はこう書いている。

《インタビュアーには、せめて取材対象の偉大さを理解している人間を起用してほしい。
筑紫さんから見ればロナウドは、単なる「気のいい兄ちゃん」ぐらいにしか見えなかったかもしれない。
が、そりゃあんたの勉強不足であって、ロナウドの側の責任じゃないよ。》
(初出はこちら

 私が富野監督に対してとっていた態度は、筑紫さんがロナウドに向けて示していたそれより、さらに失礼だったと思う。

 ファンは、きっとアタマに来ていたことだろう。
 彼らは自分の崇拝の対象に対して適切な振る舞い方をしないすべての人間を憎む。
 用心せねばならない。

 シン・ゴジラの話をする前にお断りしておくが、私は、「ゴジラ」を映画館で見たことがない。

 第一作はテレビで見た気がするが、その後はどの作品も、まったく見ていない。
 ついでに言うと「エヴァンゲリオン」も見たことがない。
 なので、できれば、これから書く私の言葉を深読みしないでほしい。
 私自身も、なるべく深読みはつつしむようにする。

 「シン・ゴジラ」は、個人的には、ふだん見慣れている東京の街が破壊される映像を味わうためだけにでも、もう一度見る価値のある映画だと思っている。

 ブルーレイが発売されたら、必ず買うつもりだ。それほど、あの破壊の場面は美しい。

 幾人かの人が、ゴジラの無目的な破壊の様子を、3.11の津波の記憶にオーバーラップさせた視点で語っている。私自身は、特にそういうふうには見なかったが、そういう見方もできるだろうとは思う。

 というよりも、「シン・ゴジラ」はおよそ多様な見方を許す映画で、この、「簡単に要約できないディテールの豊富さ」こそが、この作品を特別な映画にしているのだと思う。

 ディテールばかりで、本筋が希薄だという人があるかもしれない。
 あるいは、伏線がばらまかれるばかりで、きちんと回収されていないという見方もできるだろう。

 が、解決されていないように見える群像劇のディテールは、スクリーン上で結末を与えられていないからこそ観客の心に宿題として残り、その宿題が、おそらく勤勉な映画ファンを再視聴に向けて促している。とすれば、この間のやりとりは作品として成功していると考えて良い。

 でなくても、優れた映画は、脚本に書かれている本筋のストーリーとは別に、観客の脳内に眠っている物語を再稼働させることができる。

 そして、あるタイプの観客の心情を最も深い部分で揺さぶるのは、実は、映画の中の主人公が演じているドラマではなくて、映画の中に仕掛けられたフックに触発される形で観客自身の心の中によみがえる私的な物語の記憶だったりする。

 今回の場合でいえば、会議と調整と調達と徹夜を繰り返すチームの面々が味わう苦闘のディテールが、われら平成の日本人の中に呼び覚ます感覚こそ、おそらく脳内の物語の湧出源になっている。

 私のケースで言えば、それは果てしない徹夜仕事の記憶だ。

 具体的には、蓄積疲労と、苛立ちと、自問自答と、空腹と、アタマの痒みと、突発的にやってくるあからさまな連帯感とそれへの反作用として生じる怒りや悲しみによって到底平常心を保てない中で進行していくスケジュールの記憶だ。

 現在の私は、徹夜仕事とは無縁だ。

 結局、長い目で見て能率が上がらないことを身にしみて知ったこともあって、もう何十年も徹夜はしていない。

 が、そんな私でも20代の頃までは、たびたび徹夜をした。せねばならなかった。せずには生きられなかった。徹夜か、しからずんば死か。

 その苦しい徹夜の記憶を「シン・ゴジラ」は呼び覚ます。

 個人的な話をする。

 1986年の夏、私は、仲間と3人で経営していた会社で、『PC-9800シリーズソフトウェア年鑑』という400ページ超の書籍の執筆に明け暮れていた。

 当時の「PC-9800」(略称:キューハチ)というNECのパソコンを知っている読者には説明不要と思うが、ウィンドウズ登場以前の日本のパソコンは、ほぼこの機種一色に染め上げられていた。

 我々は、PC-9800で動くソフトをすべて掲載し、レビューしよう、という本を作ろうとしていたわけだが、それはつまり、日本で販売されている事実上すべてのソフトを借用し(とても買えない)、試用し、評価する、という企画であった。

 作業は、どんなに頑張って働いても、まったく終わらなかった。

 ソフトウェア借り出しの交渉、画面撮影の手配、実機調査とレビュー執筆とアルバイトの手配と連絡とアポ取りと叱責、苦情対応、ゲラチェック、図版作成、執筆、推敲、調整、評価基準の見直し、電話電話電話電話……仕事は朝目を覚ますとそこにあり、トイレから戻ると背後から襲いかかり、眠っている間も夢の中でのたうちまわり続けていた。

 結局、ひと夏どころか丸々3カ月を要してやっとのことで完成させたその書籍は、案の定、いきなり不良在庫になった。

 われわれの努力が足りなかったからではない。
 そもそもが、無茶な企画だったからだ。

 が、最初の2週間で無理な仕事であったことが判明したところで、動き出した泥船はせめて沈没する地点までは曳航せねばならない。

「まあ、乗りかかったタイタニックだ」

 などと陰気なジョークを飛ばしながら、われわれは、日に日に憔悴し、薄汚くなり、最後には針金みたいになった髪の毛を不気味がられながら、版元も、営業も、取材先も、書店も、読者も、執筆者も、誰一人幸せにならない呪われた企画を完遂し、見事に在庫の山を作った。

 「シン・ゴジラ」は、あの時の困難な仕事を思い出させる。

 徹夜は、全体として苦しい記憶であるには違いないのだが、それでも傷跡が消えた遠い未来から振り返るに、若かった時代の苦難の記憶には若干の甘美さが宿るわけで、してみると、ゴジラは、日本の逃げ場のないホモソーシャルの中でもがく男女が日々直面している問答無用の残業や屋上屋の会議に向けた臥薪嘗胆の調整の象徴で、その集団的不合理という不倶戴天の敵を倒すために、なぜなのか会議と残業を武器に戦う人々の悲しみの記録でもある。

 かつてNHKが放映していた「プロジェクトX」というドキュメンタリーがそうであったように、「チーム」(今回は「巨大不明生物特設災害対策本部」=「巨災対」)を主役に据えた日本の仕事の物語は、必ずや、徹夜仕事の理不尽と例外処理の地獄に着地することになっている。

 その点で、この映画の途中までの段階の感触は、「プロジェクトX」のそれに酷似している。

 しかしながら、「シン・ゴジラ」は、その“読後感”において、「プロジェクトX」とはずいぶん違った印象を残す。

 違いは、「プロジェクトX」が与えるカタルシスが、「成功体験から逆算して追想される苦難の記憶」であったのに対して、「シン・ゴジラ」のもたらす感慨がむしろ「不吉な予感」である点だ。

 もちろん、異論は認める。
 あの映画を「プロジェクトX」と同じ感覚で最後まで見た人もきっとたくさんいるはずだ。

 が、私は、少し違う印象を受けた。

  • 日本の男女らが動かすプロジェクトの優秀さと、それゆえの切なさ。
  • 特定の人間がチームを主導するのではなく、チームに献身する個々の意思がメンバーを巻き込んでいくメカニズムの精緻さと不気味さ。
  • サッカーチームで言えば、ハマった時の強さと、歯車が狂い始めた時の修正のきかなさ。まるで浦和レッズじゃないか。オレは何を言っているのだろう。

 シン・ゴジラは、色々なことを考えさせる映画だ。
 たぶん、どの考えも、少しずつズレている。

 が、少しずつズレたたくさんの感想を集めると、不気味な民意が立ち上がる。
 おそらく、誰も望んでいないのに開催されずにおかない忘年会と同じように、われわれは、そう遠くない将来、ゴジラを召喚することになる。

 ゴジラが、象徴するものが、大地震なのか、戦争なのか、メルトダウンなのか、不良出版企画なのかは、まだ現時点ではわからない。

 が、ともあれ、ゴジラがやってきた時、われわれは徹夜と残業の力でそれと戦うことになる。

 日本の上場企業には、午後5時になったら、伊福部昭によるあのテーマ曲を流すことを義務付けるべきだと思う。
 念の為に歌詞を付記しておく。

「♪ 5時だ 5時だ そろそろ帰ろうぜ
  5時だ 5時だ さっさと切り上げて
 ゴジラ ゴジラ 飲もうぜ騒ごうぜ
 ゴジラ ゴジラ ゲロゲロ吐き出すぜ」

(文・イラスト/小田嶋 隆)

冒頭のイラストの色が緑色なのはネタバレ防止ではなく
小田嶋さんの寵愛したイグアナ、イギー君を偲んでだそうです

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

読者の皆様へ:あなたの「読み」を教えてください

 映画「シン・ゴジラ」を、もうご覧になりましたか?

 その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。

 その挑発的な情報の怒涛をどう「読む」か――。日経ビジネスオンラインでは、人気連載陣のほか、財界、政界、学術界、文芸界など各界のキーマンの「読み」をお届けするキャンペーン「「シン・ゴジラ」、私はこう読む」を開始しました。

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(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)

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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。