大正から昭和にかけて、日本の政界や経済界に大きな影響力をもった堤一族。希代の実業家、堤康次郎氏が作り上げた「西武王国」は、義明氏と清二氏という息子が率いる2つの「西武」に枝分かれして、ともに事業を急拡大した。だが2人の運命は過酷なものだった。
 鉄道やホテルなど中核事業を継承できなかった堤清二氏は、独自の感性と才覚で、セゾングループを作り上げ、一世を風靡したが、その原動力となったのは、父親と正式に跡を継いだ堤義明氏に対する強烈な対抗心だ。
 堤清二氏は人生の最晩年に、児玉博氏による、のべ十数時間にわたるインタビューに応じた。堤氏が語ったのは、父親との確執と、内縁の妻だった母への愛着、そして堤家崩壊の歴史だったという。児玉氏が2015年に月刊「文藝春秋」4月号~6月号に連載した「堤清二『最後の肉声』」は、今年の大宅壮一ノンフィクション賞を雑誌部門で受賞した。これに大幅加筆した著書『堤清二 罪と業 最後の「告白」』(文藝春秋)が先頃出版された。児玉氏に、最晩年の堤清二氏の告白から何を感じたか聞いた。

(聞き手は鈴木哲也)

取材を申し込んだきっかけは何だったのですか。

1959年、大分県佐伯市(旧南海部郡鶴見町)生まれ。85年に早稲田大学卒業後、フリーランスとして活動。著書に『幻想曲 孫正義とソフトバンクの過去・今・未来』『“教祖”降臨-楽天・三木谷浩史の真実』(ともに日経BP社刊)がある。
1959年、大分県佐伯市(旧南海部郡鶴見町)生まれ。85年に早稲田大学卒業後、フリーランスとして活動。著書に『幻想曲 孫正義とソフトバンクの過去・今・未来』『“教祖”降臨-楽天・三木谷浩史の真実』(ともに日経BP社刊)がある。

児玉:堤清二氏が作り上げたセゾングループはバブル崩壊後、経営難に陥り、2000年代に入って解体が進んでいきます。清二氏は経営から退き、小説家「辻井喬」として多数の作品を発表していました。しかし2005年に、異母弟である堤義明氏が西武鉄道株式を巡る、証券取引法違反で逮捕され、彼が率いていた西武グループが危機に陥ったのです。西武グループの再建を冷静に見守っているはずの堤清二氏は、突如豹変して、再建を主導する銀行などのやり方に異を唱え始めました。西武グループの持ち株会社である「コクド」の株式は名義株に過ぎず、実質的な所有者は堤家であるとして、2005年に末弟の猶二氏らとともに訴訟を起こしたのです。

 私は堤清二氏にこう聞きたかったのです。「清二さん、あなたはもう引退した身でしょう。作家の辻井喬として生きている幸せな時間をわざわざ捨てて、何で経済人の堤清二に戻らなきゃいけないのですか。堤家が今さら表舞台に出るなんていうことは、世間の指弾を受けますよ、と」。会って聞いてみると、彼は「父との約束です」ということを言いだしたのです。何ですか、その父との約束というのは、と聞くと、五十数年前に実は父とある約束をしていたのだと言ったのです。

本の第一章で書かれている、やり取りですね。清二氏は「なにかあったら僕が義明を助けますから」と、父の堤康次郎に約束していると、話しています。

児玉:私はそれを聞いて、すごく驚きました。父を蛇蝎のように嫌っていたはずです。それなのに、85歳の老人になった清二氏が突如、「50年前の約束なのです」と、言い始めたのですから。それからインタビューはまったく様相を異にしてしまって。自分の父がいかに自分を愛していたかというようなことまで、話し始めたのです。

清二氏は父、堤康次郎から西武グループの中核企業である西武鉄道やプリンスホテルの相続を許されず、異母弟の義明氏か引き継いだという、経緯がありますね。それを考えれば、一般的な子供がもつ親への気持ちとは全く違うものなのでしょうね。

時に涙を浮かべながら

児玉:愛されたのは僕なんですということを、彼は盛んに言いました。いったいこれは何だろうと思って、ずっと話を聞いていました。そうすると彼はある種の秘めたる思いのようなものをどんどん吐露しました。それが母のことであり、妹の邦子さんのことであり、やっぱり異母弟の義明氏のことであり、いろいろなことを話し始めたんですよね。

 最初、彼が応じるインタビューは1回だけで、時間も1時間ということだったのですが、秘書が「もう、2時間を超えていますよ」というと、清二氏は「じゃあ、児玉さん、今日はこれで終わりにして、もう1回やりましょう」と言ったのです。私は本当に奇跡だと思いました。彼は記者というものを嫌っていると思っていましたから。

 でも、結局、インタビューは計7回になりました。弟の猶二氏や、ほかの親族の方に聞いても、そんなに同じ記者に何度も会うなんていうことは今まで聞いたこともありませんと、言われました。親族の方と、何で児玉さんが選ばれたんですかねというような話にもなりましたが、今、ちょっと冷静な目で見れば、僕が堤清二氏の遺言の聞き取り人だったんですよ、ある意味で。

インタビューの翌年、2013年の末に亡くなりました。確かに本を読むと、遺言のような響きがありますね。

児玉:何かに導きを受けて出来上がったような本なのです。なぜ彼が遺言を話そうとして、託されるのが僕だったのかということは、全然分からないという感じです。彼の胸の内、父への思い、母への思いなど、公にされることはなかったことを、全部しゃべり始めたのですね。例えば、清二氏のお母様の妹2人とも、父親の康次郎が関係を持っていたということなど、巷間言われていたことですが、清二氏が認めるわけですよ。これはもう本当に堤家にとっては、口外できないような恥部なわけですよね。そういうような堤家の暗部まで全部、ある種さらけ出してくれたみたいなところがあった。本当に驚きながら聞いていたというのが実感ですね。

インタビューを重ねるごとに、話す内容も深まっていったようですね。

児玉:本当に驚きました。時に涙を浮かべて話すのです。85歳だけど生々しい表情をするわけですよ、生への執着も感じました。表情は万華鏡のように変化するのです。やっぱり僕は、堤清二氏は天才だと思っているので、そういう人間のメッセージを、生の声を共有できている幸福感というのも、すごくありましたね。

1980年代まで堤清二氏は、事業家そして文化人として華々しい活躍ぶりでした。児玉さんは、もともと彼にどんな印象を持っていましたか。

児玉:一言で言うと、こんな人は上司にしたくないという(笑)。厄介だと思いますね、やっぱり天才だから。部下が胸の内を忖度するということができなかったのではないでしょうか。ソフトバンク創業者の孫正義氏も、孫正義として自己完結しちゃっている。ソフトバンクのDNAなんて多分ないですよ。継承のしようがない。堤氏も孫氏も、その意味ではロールモデルには全くならないのですね。ある種、畏怖する対象であり仰ぎ見る存在ではあるけれども、続く人たちのロールモデルとなることで、組織体が生き延びるというものではないでしょう。やっぱりセゾンは、堤清二氏の一大芸だったのです。清二氏は、父ができたことが自分はできないわけはないというような思いを、ものすごく持っていた。セゾンはそのための、壮大な実験だったのです。

父に愛されたという幻想

事業家として成功した父への激しい対抗心ですね。児玉さんは本の中で、清二氏が父・康次郎の事業をどう評価していたかについても書いています。「戦後は地主になっていった」という息子からの突き放した評価が印象的でした。

児玉:基本的には、あんなものは不動産屋でしょうと思っているのです。ただ、土地を手に入れて、ひと山当たったんでしょうというぐらいで、そこに知恵もなければ、知性もないと彼は思っているのです。清二氏が事業の中でも「文化」を打ち出したのは、父親を反面教師にしようというのが、ものすごく強かったのだと思いますね。

 かつてセゾングループの幹部だった人から聞きましたが、西武百貨店ではかつてワンフロアを美術館に使っていて、もし売り場にしたら年間150億円か200億円の売り上げを出せるはずだったそうです。しかし売り場にせずに、毎年数十億円の赤字を出す美術館をやっていたわけですから。実利を求めればそんなことをしなかっただろうし、実利以上の価値があるのだと、彼は思っていたのでしょう。

セゾングループの関係者から、清二氏は新事業を生み出すことには執念があっても、続けることに関心が薄かったと、聞いたことがあります。

児玉:清二氏には息子が2人いますが、セゾングループを未来永劫守り、継承しようなどということも、考えていなかったのではないでしょうか。

父親との確執の一方で、母と妹への愛情は深いですね。本ではインタビュー中に、清二氏が泣いたことを書いていますが、一番感情が高まったのは、母親の話のときでしょうか。

児玉:もうしどろもどろになるのです。心が揺れ動くというか。おそらく、母と自分の妹である邦子さんについては、3人で生き延びてきた同志という気持ちも強いのでしょう。それに対して、父親の康次郎氏は、その3人で生きてきた中に進入するインベーダーだったんだと思います。だから、彼の中では父親の約束うんぬんと言うけれども、どこかでやっぱり憎んでいるし、父康次郎に愛された自分というのも完全に妄想であり、作られたものでしょう。

やはりそこは、児玉さんとしては妄想というふうに、解釈したのですね。

児玉:私はそう思います。あれはもう、そういうふうに思いたいということなのでしょう。そういうふうに思わないと生きていけない。だから、彼は運命にあらがい、業にあらがい、七転八倒しながら闘ったんだと思うんです。

 本当に愛されたことがない子供が愛を探す作業みたいで、それを聞くたびにこの人はある種の狂気に取りつかれていて、一方では85歳の老人が赤子のように愛をまさぐるさまというか、愛を見つけようとしているさまが、やっぱり哀れにも思いました。

 でも愛されていたという話を聞いていて、「清二さん、それはうそでしょう」とはさすがには言えませんでした。一瞬言おうと思ったんだけど、僕はそれを言えなかった。

膨張の背景に義明氏への対抗心

妄想ということでいえば、この本の中で清二氏は、父は本当は自分に継がせたかったのだが、私が断ったというようなことも言っていますね。

児玉:そこは矛盾があるのですね。一方では清二氏は、僕は当時の場末の西武百貨店をもらったけれども、赤字だからもらったんだという言い方もしています。清二氏には「僕は義明よりはるかに優秀だし僕の方が絶対にできる」という思いがある。だけど、やっぱり父親は自分ではなくて義明を選んだことがずっと屈辱だったんですよ。それをはっきりは認めなかったんだけど。だから、その赤字の西武百貨店から始まった事業が、結局彼一代でセゾングループという巨大グループに育っていくわけですよね。見て見ろと、そんな赤字の会社1個から始まって、すごろくを上がったらここまで来たぞ、みたいなものはやっぱりすごくあって。

熱海に行ったシーンが印象的でしたね。康次郎氏に呼ばれて、客観的には事業の継承者が義明になることを告げられるのですけれど、清二氏は、自分から継承を断ったみたいな言い方をしている。

児玉:そうです。それは彼にとっての屈辱の裏返しで、そう言わないと収まりがつかないのだと思いますね、自分から断ったんだと。何で継承者が俺じゃないんだという部分は、やっぱりものすごくあったと思いますよ。だから、もう本当にセゾンは膨張に次ぐ膨張をするわけじゃないですか。セゾングループの西洋環境開発の膨張は、本当にその典型です。

 義明氏に負けないというライバル心を、象徴するのは、セゾンが1980年代以降、大々的に展開したホテル事業でしょうね。本では、義明氏が手掛けていたプリンスホテルを清二氏が「宴会ホテル」と評するところもありますね。

児玉:義明氏について話すときは、言葉にとげがありましたね。天才の天才たるゆえんなのでしょう。相手が傷つくとか相手がどんなふうに思うかはまったく考えていない。「だって宴会ホテルでしょう、どこが悪いの」という感じなんですよ、彼にすれば。義明氏については、彼と話していてもまったく面白くないし、話が合わない、と言っていましたね。ずっと「義明君」という言い方でした。だめな子なの、この子は、という感じで。

その義明さんは西武王国の独裁者として君臨し続けました。

児玉:義明氏の独裁というのは、周りがそういうふうにしたんですよ。つまり義明氏を、担ぐ「みこし」にしたんですよね。かつての康次郎氏の側近たちが、義明をある種の無菌室に入れるような状態にして、王様みたいな扱いをしちゃったわけです。清二氏の場合は生来の独裁者だから。周りがどうこうでなく、彼1人の存在が圧倒的に強すぎた。義明の独裁とはちょっと質が違うという感じですよね。

 ただ、清二氏が「凡庸」と評する義明氏も、運命とか業とかの中で、本当に苦悩して生きてきたのだと思います。この2人は運命と闘った人だと思うし、そこには善悪はないでしょう。

 清二さんがもう1つ厄介なのは、小説家だからその運命とか業を、どこかで相対化しようとしたと思うんですよ、いろいろな意味で。相対化しようとして、もっと運命とか業がくっきり、はっきりと彼の中ではしてしまったということがあって、二重の意味で辛かったのではないでしょうか。

清二さんの発言はともかく、児玉さん自身の考えとして、康次郎氏には清二氏に事業を継承しようという気持ちはなかったとも書いています。

児玉:100%なかったんだと思います。かつて清二氏がかかわっていた、共産党に対する恐怖感というのは、今の僕たちが思っている以上のことがあったでしょう。当時のいわゆる赤というものに対するイメージですね。第一、清二氏に絶縁状を出しているわけですから。康次郎氏というのは、ある種あれだけの事業を構築しているから人を見る目はあったはずで、堤清二氏の持っている危険性、危険なにおいというのは感じ取っていたと思いますね。

遺言の聞き役が、感じたこと

一方で、その危険性のようなところが、何か先鋭的な事業を生み出すエネルギーにもなっていたような気がします。そうした個性が大衆を魅了した面があるのではないですか。

児玉:ただ、康次郎が活躍した、昭和30年代、40年代の「大量生産の大量消費」のような世の中では、時代があまり個性を求めなかったというのもあるのだと思います。鉄道にしろ、ホテルにしろ、ちゃんと継承してくれればいいよと、父親は思っていたんだと思います。清二氏の頭の良さもわかっているし、任せると本当に何をやり出すか分からないというような、そういう感じは持っていたのでしょう。

西武の堤康次郎、東急の五島慶太という二人は、戦後、半ば強引ともいえる事業拡大でライバルとも言われました。東急の方は、西武よりもかなり早く、いわゆる一族以外の経営に移行していますね。他の私鉄グループなどと比較しても、堤家の日本での存在感は突出していました。

児玉:政財界に一定以上の影響力を持つファミリーとしての存在は、もうたぶん堤家で終わりだと思いますね。地方に行けば、地方豪族みたいな感じの一族はあるけれど、永田町にある種の影響力があります、霞が関に影響力がありますという家があるかというと、もうないと思いますね。

 さっき遺言の聞き役というふうに言ったんですけど、彼が語ったことというのは、ある意味、堤王朝の落日の歴史という面があったから、やはり哀れに感じました。

2000年以降、清二氏がつくったセゾングループが順次、「解体」されていきました。そして、間もなく西武鉄道グループが、義明氏らの逮捕などで危機に陥りました。栄枯盛衰を感じさせる結果となりました。

児玉:そうですね。だから、康次郎のつくった西武グループから、大きな枝が2つ育って、その枝が育ち過ぎたが故に幹を、崩壊させてしまったのかもしれませんね。結局、母を異にする兄弟が競い合った結果、こういうことになってしまったのですね。

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