テレビの出演依頼が来た。

 詳しく述べると、3日ほど前、連載を執筆している雑誌の編集部を通じて、とある地上波民放局の昼の時間帯の情報番組が、出演を打診して来たのだ。依頼は、電話の後、転送メールの形で、私のアドレスに届いた。

 メールに添付されている番組企画書によれば、東京五輪についての討論企画に、論者の1人として参加してほしいということのようだ。

 半月ほど前にも、ほぼ同じ内容の出演依頼が、ネットテレビ局の番組制作者から届いている。
 偶然とは思えない。

 ここは、落ち着いて考えなければならない。舞い上がってはいけない。

 私のような“マイナー文化人”に声がかかるのは、それほど東京五輪の開催に反対論を唱える側の人材が払底していて、局の人間が人選に困っているからだと、ぜひ、そういうふうに、現実的に受け止めるべきところなのだ。

 もっとも、東京五輪にネガティブな気持ちを抱いている日本人は、そんなに少なくない。

 そうでなくても、東京に20年以上住んでいる男女の多くは、この先、五輪開催にかこつけて展開されるであろう土木工事や冠イベント企画や予算消費プロジェクトのあれこれに、相応の警戒感を抱いているはずだ。

 ただ、内心で五輪に反発していることと、人前で五輪反対の考えを表明することは、まったく別の話だ。

 うちの国のような同質性の高い場所で、オリンピックのような国家的なイベントに対して、あえて異論を唱えることは、非常な危険を伴う。火中の栗を拾うどころか、炉心のデブリを集める作業に近い。

 まして、全国ネットのテレビ画面に顔を晒して、五輪に反対である旨の論陣を張るなどという鉄火場仕事は、市井に生きる市民であるならば、ぜひとも、避けて通らねばならない。

 なぜというに、テレビ局は、五輪に関してはあからさまなステイクホルダー(利害関係者)で、彼らの狙いは、あくまでもオリンピックムードを盛り上げるところにあるからだ。

 彼らは、利害関係者どころか利益誘導の旗振り役だ。
 とすれば、そのテレビ関係者が、五輪歓迎ムードに水をかけるような番組を制作する道理は無い。

 祭りの開催に反対するテキ屋が存在せず、プール開きに異を唱える水着マニアがいないのと同じことだ。

 そう考えれば、五輪をネタにした討論企画に反対派の論者として呼ばれる出演者の立場は、連続KO記録更新中のボクサーの対戦相手に選ばれる噛ませ犬設定のロートルボクサーとそんなに遠いものではない。

 哀れな反対論者は、口達者なテレビ論客にボコボコに論破されたあげくに、「反日」「非国民」ぐらいなレッテルを貼られて、ネット炎上の燃料として供されるだろう。

 そんなわけなので、出演依頼には、丁重なお断りのメールを返信した。
 参考までに申し添えれば、出演依頼のメールには、ギャラ(出演料)が明示されていなかった。

 あるいは担当者がうっかりしただけなのかもしれない。
 が、私は、この種のギャラを明示しない仕事の依頼に対しては、満腔の邪推を以って報いることにしている。

 どういうことなのかというと、出演料を明示せずに出演を打診してきている依頼メールは、

「テレビに出してやるけど興味あるか?」

 と脳内翻訳したうえで、対処の方法を考えるということだ。

 相手を軽んじていなければ、こんな依頼の仕方は採用できない。
 彼らは私を軽んじているのか、あるいは私以外の人間にも同じような依頼状を送っているのだとしたら、芸能プロダクションに所属していないすべての人間を軽んじているのだろう。

 彼らは、液晶画面の外側にいる人間を画面の中に招き入れることのできる自分たちの権能を、そこいらへんのド素人を有名人に作り変える魔法の力そのものだと考えていて、それであんなふうに高飛車なのかもしれない。

 ついでに申せば、2日前に送付した出演辞退のメールには、いまだに返事が届いていない。

「今回ご縁がなかったことは残念ですが、今後とも、お見限りなきよう、よろしくお願いします」

 ぐらいな通り一遍のお世辞ぐらいは返して寄越してもバチは当たらないと思うのだが、彼らはそれをしない。

 半月前に出演依頼をしてきた、ネットテレビ局もギャラを明示していなかった。出演辞退のメールにも同じように返事がなかった。
 これが彼らの業界の慣習なのだろうか。
 だとしたら、あの人たちはいったいどうやって「お・も・て・な・し」の心を伝えるつもりなのだろう。

 今回は、オリンピックに関連して、このひと月ほどの間に考えたことを書き残しておくことにする。

 まとまりのない文章になると思う。が、4年後に読みなおしてみれば、それなりに面白い読み物になっているはずなので、評価は4年待ってほしい。4年後にこの文書がつまらなくなっているのだとしたら、それは東京五輪が大成功しているからだと思う。その時はその時で、テキストのつまらなさについては、できれば、五輪の成功に免じて見逃してくれるとありがたい。

 まず、開会式で、日本チームが、選手でなく、役員を先頭に行進したことが話題になった。

 当然、「アスリートファースト(選手優先)」の趣旨に反するのではないかという批判の声が上がった。
 で、これに対しては、五輪閉幕後、橋本聖子団長が

「『アスリートファースト』というもののはき違えだけはしないようにしたい。アスリートが求められるものは最高なものにしていこうという心掛けの中で、アスリートファーストをしっかりと構築していかなければいけないという気持ちでいることは確かであります」

 と反論している(こちら)。

 全体として意味のわからない反論だが、こういう人の言わんとするところは行間にあらわれていることになっている。

 なので、私が補足してさしあげることにする。橋本団長が言いたいのは、要するに

「選手は調子に乗るな」

 ということだ。
 橋本団長ならびに日本の体育会および各種競技団体の爺さんたちは、

「アスリートファーストというのは、アスリートのために五輪が開催されるということではない。五輪の施設やプログラムをアスリートが最高のパフォーマンスできるように整えるべきだという理想を意味する言葉だ。これを実現するためには、アスリートの自覚を促し、厳しく指導する必要がある」

 ぐらいに考えている。

 国民の総意もほぼ同じあたりを行ったり来たりしている。
 われわれは、選手を、ヒーローとは見ていない。
 どちらかといえば、運動会に出てくる近所の子供の延長と見なしている。だからこそ応援している。
 そういうお国柄なのだ。

 その意味で、この

「開会式の入場行進で、私たちの国の代表選手たちが、役員の爺さんたちの後ろを歩いていた」

 というニュースは、開会式に関連して伝えられたもうひとつのニュース、すなわち、
《行進中の日本選手団の中に、「歩きスマホ」をしていた選手が一人もいなかった》
 というエピソードとワンセットで考えなければならない。

 日本の選手団は、競技団体の役員やそれぞれのチームの監督やコーチといった「目上」の人間が「引率」する指導対象であって、その意味では、学校の先生に引率されている修学旅行の生徒と大差の無い人たちだったということだ。

 「先生」に引率されている「生徒」だからこそ、彼らは、一定のマナーに沿った統一行動を取れたのであって、彼らは、ほかの国の選手たちのように、特定の競技の第一人者として敬意ある扱いを受けている一人前の大人では無いのだ。無論、自分のアタマで考えて行動する個人でもない。結局のところ、彼らは、列を乱さないためにだけ歩いているひとつながりの隊列の一員に過ぎなかったということだ。

 ついでに申し上げれば、メダルを取り逃がした選手が必ずと言って良いほど、国民の期待に応えられなかったことを謝罪するお約束も、同じ精神性から来ている。

 うちの国の国民の間でずっと信じられている永遠に変わらない設定の中では、スポーツ選手や若手社員や学生は、「発展途上の」「修行中の」「半人前の」人間として、終始目上の人間の指導を仰がねばならないことになっている。これは、日本の一流アスリートが、独立した個人としての娯楽や自由を断念した存在として、ひたすら禁欲的に自分を追い込む修行僧のような生き方を期待されているということでもある。

 1996年のアトランタオリピックの直前、メディアのインタビューにこたえて「オリンピックを楽しんで来るつもりだ」と言ってのけた千葉すず選手は、その後、メダルを取り逃がしたこともあって、「オリンピックを楽しむ」発言を蒸し返されつつ、世にも残酷なバッシングに晒されることになった。

 私は、この時の恐ろしいメディアをあげての総叩きのいじめ報道を眺めながら、テレビ画面を介してスポーツを眺めている視聴者が、選手に対して出征兵士のようなマナーを求めることの不気味さにあきれていたのだが、この、あらゆる競技のアスリートに甲子園球児の似姿を求めるテレビ視聴者のマインドセッティングは、20年が経過したいまでもほとんどまったく変わっていない。

 わたしたちは、選手がくつろいでいたり、冗談を言って笑っていたりすることを決して許さない。

 だから、当然のことながら、選手のインタビューは退屈な紋切り型の展示会に着地する。
 選手にしてみれば、負けたらお詫びの言葉を並べ、勝ったら感謝を表明しておくのが無難だからだ。

 コーチだってそう指導するはずだ。

「インタビューではお気楽に聞こえる言葉は慎め。とにかく謙虚さと必死さをアピールしておけ」
「楽しそうな顔は日本に帰ってからだ。五輪期間中は、カメラの前ではとにかく緊張した表情を作っておけ」

 と、そう言い聞かせておかないと、大切な選手がバッシングの標的になってしまう。

 ついでに、この機会にはっきりさせておきたいのは、選手に対するバッシングが、必ずしもネット主導ではないということだ。

 ネットにタムロする匿名の野次馬が炎上をリードしているように見えることは、たしかにその通りだ。しかしながら、ネットの生まれるはるか以前から、リンチ報道が、この国のテレビのワイドショーの金城湯池だったことを、われわれは、忘れてはならない。

 1996年のアトランタオリンピックは、インターネットとともに楽しまれたはじめての五輪大会だった。

 が、千葉すず選手への執拗ないじめ報道に関して言えば、主導していたのはあくまでも週刊誌でありスポーツ新聞であり朝夕のワイドショーだった。

 昨今、日本人の公共マナーの劣化や、差別や偏見に基づく言論の増加傾向について、その原因と責任をインターネットに押し付ける言い方が一般化しているが、この議論は、起こっていることの半分しか説明していない。

 インターネットが残酷な言論の成長を促している側面は間違いなくあるにせよ、ネットの有無にかかわらず「出る杭を打つ」タイプの集団的な反応は、われわれの社会が、基本仕様としてずっと昔から備えているものだ。

 最近の出来事で気になっているのは、リオ五輪が閉会式を迎える前日に当たる8月21日の日曜日、NHKの「おはよう日本」の中で、同局の解説委員が「国威発揚」という言葉を臆面もなく持ち出したことだ。

 放送の中で、刈谷富士雄解説委員は、スタジオ内に設置された巨大画面の中で、「五輪開催のメリット」として、以下の5つの項目を挙げている。

1.国威発揚
2.国際的存在感
3.経済効果
4.都市開発
5.スポーツ文化の定着

 1と2が内容的に重複していること、3の「経済効果」が多くの経済学者によって否定されていることなど、ツッコミどころはいくつかあるが、なんと言っても、「国威発揚」を第一番目に持ってきていることに驚かされる。

 どういう神経なのだろうか。
 ほんの少し前までのNHKであれば、こんな恥ずかしいフリップは、編集会議での提案段階でボツになっていたはずだ。

 たとえばの話、「結婚の5つのメリット」を説明する時に、解説委員は

1.いつでもセックスができる。

 という項目を一番最初に挙げるだろうか。
 いや、私は語られている内容が事実であるのか否かを問題にしているのではない。
 私が言っているのは「たしなみ」の問題だ。

 公共放送の電波を通じて解説の任を担っている解説委員が、ここまであからさまな吐瀉物を視聴者に投げつけておいて、果たして平常心を保っていられるものなのか、そこのところを私は問うている。

 国威発揚は、たしかに、五輪の隠れたメインテーマではある。
 これは、わが国に限った話ではないし、現代に特有な現象でもない。

 実際、「国家的」なイベントである五輪は、様々な機会を通じて「国家主義的」な運動に読み替えられ、利用され、強制された過去を持っている。

 しかし、だからこそ、IOCは国家が前面に出ることを警戒し、五輪憲章の中で、オリンピックを国威発揚のために利用することと、五輪がもたらす栄誉を個人でなく国家に紐付けることを強く戒めている。

 そして、この、実際には空文化しているかもしれない五輪憲章という建前を高く掲げることで、かろうじて五輪は、その権威を保ち得ているわけで、もし五輪の前提から五輪憲章の建前が失われたら、それはただの商売どころかもっと醜悪な人身売買ライクな見世物に堕落して行くだろう。

 毎度のことながら、五輪は、いざはじまってしまえば、必ずや国家の名誉と国民のプライドをかけた争いになる。表彰式自体、国旗掲揚と国家吹奏を繰り返す国家主義丸出しのイベントだったりもする。 

 とはいえ、建前では、五輪の旗の下に集ったアスリートは友情と連帯とフェアプレーの精神を堅持しつつ、スポーツにしか達成できない相互理解の高みに向かって走ることになっている。

 実際にコートやフィールドで戦う選手たちや、それを応援する観客が、熱狂するにつれて「国家」という枠組みに囚われた心情に傾きがちであることが、仮に事実であるのだとしても、競技大会としての五輪を伝えるメディアや、その運営にたずさわる人々が、五輪憲章を軽んじることは、断じて許されない。というのも、五輪の建前は、五輪の現実がこれ以上醜悪にならないためにどうしても不可欠な、最低限の歯止めだからだ。

 逆に言えば、全力をあげて建前を守ろうとしている人々の取り組みがあるからこそ、近代の五輪は、ナチスドイツが開催したような過去のあからさまな国家主義的なイベントと一線を画する、上質の娯楽として発展してきたと言えば言える。

 商業主義に毒され、あるいは勝利至上主義の結果としてのドーピングから逃れられずにいながらも、それでもなお、国家主義を煽ったり、無用の対立を演出することだけはしないように、近代の五輪は、その点に最大限の努力を注いできた。

 そこへ持ってきて、公共放送たるNHKが、解説委員の口を借りて、「国威発揚」を五輪開催の第一のメリットと断言している。
 驚天動地の無神経さだ。
 私は、この「たしなみ」のなさの先にあるものを恐れる。恐れざるを得ない。

 全国都道府県及び20指定都市が発売元となって全国で販売する、「東京2020大会協賛くじ」(第699回全国自治宝くじ)のリンクをクリックすると

「私たちも、ニッポンのお役に立ちたい。」

 というキャッチコピーが大書されたポスターを見ることができる(こちら)。

 私は、このキャッチコピーだけをとりあげて、「国家主義への回帰」だとか、「ファシズムの足音」だとかみたいなお題目を喚き散らそうとは思っていない。この物言いに多少の「気まずさ」を感じたからこそ、ギャグですよ、と言わんばかりのビジュアルを使っているのだろう。

 ただ、ここにも「たしなみ」のなさを感じないわけにはいかない。
 結局、おそろしいのは、人々がたしなみを忘れることなのだ。

 実際、五輪に関連する商品の中で

「私たちも、ニッポンのお役に立ちたい」

 といったフレーズを無邪気に使ってしまえる感覚は、これから先、五輪に協力しない国民を無造作に排除しにかかる神経になんということもなく変質して行くはずだ。

 私がテレビの出演依頼を断ったのは、五輪反対派として顔を知られることになった場合の面倒を恐れた私自身の小心さのゆえだ。この点は、自分自身、恥ずかしいと思っている。

 が、現実問題として、小心者は五輪に反対できなくなりつつある。
 このことはつまり、五輪を招致した人々が、五輪という国家的プロジェクトを戴くことを通じて、徐々に、もの言えない空気を作ることに成功しているということだ。

 私は、4年後、原稿を書くことができているだろうか。
「お前は、ニッポンの役に立たない」
 と言われた時、私は何と答えるべきなのだろうか。
「ニッポンは私の役に立たない」
 か?

  そのセリフをほざいたのだとして、私は、生き残れるだろうか。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

「ニッポン」を「会社(あるいは部署名)」に入れ替えると
ゾクゾクするくらい怖いです…

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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