日経ビジネスオンラインでは、各界のキーパーソンや人気連載陣に「シン・ゴジラ」を読み解いてもらうキャンペーン「「シン・ゴジラ」、私はこう読む」を展開しています。※この記事には映画「シン・ゴジラ」の内容に関する記述が含まれています。

 映画「シン・ゴジラ」の物語の核心の1つは、冒頭にある。

 これを観る時点で、観客はこの物語がどう進行するのかを知らない。知らないままに、あからさまで、あまりに断片的なヒントを提示される。

(©2016 TOHO CO.,LTD.)
(©2016 TOHO CO.,LTD.)

 そのシーンを振り返ろう。東京湾を無人で漂流するプレジャーボートに海上保安庁の職員が乗り込んでいく。その職員が撮影しているビデオカメラの映像が映し出されているという体裁だ(上図)。船の名は「GLORY MARU」。揃えて置かれた靴が残されており、テーブルの上には折鶴と詩集『春と修羅』が置かれている。船内の様子を映した数秒後、撮影している職員の悲鳴と衝撃とともに映像は途切れる――。

 映像を途切れさせた衝撃は、ゴジラ出現のそれであること。そして、消えた船の主が、ゴジラ誕生に深い関わりがある元城南大学統合生物学教授の牧悟郎氏であること。物語が進行していく中で、この冒頭の映像が示す事実が徐々に明らかにされ、物語の最大の謎の1つである「ゴジラはいかにして生まれたのか」に対する解にたどり着くためのヒントであることが匂わされる。

 この作品を複数回観る人が少なくないのは、物語に散りばめられたヒントを、中盤以降に明かされる情報を踏まえた上でもう一度観てみたいと思わされるからだろう。

 だが、意地が悪いことに、冒頭のシーンは、最後まで作品を観た者をしても容易に読み解けるように作られてはいない。と言うよりも、ひとつの正解に収斂されず、多様な「読み」に開かれている。だから、以下、ここに示すのは正解ではなく、与えられたテクストに対して可能な読みの1つの可能性であることをお断りしておきたい。

 ここで特に着目したいのは、クルーザーから忽然と姿を消す牧元教授がテーブルに置き去った1冊の詩集、宮澤賢治の『春と修羅』だ。

 岩手に生まれ、昭和初期に37歳で夭逝した天才詩人が残した唯一の詩集――作者が「詩集」と呼ばれることを嫌い、「心象スケッチ」という呼称にこだわったことを考慮すればこれを詩集と呼ぶことに抵抗はあるが、便宜上、ここでは「詩集」とする――が、この物語において意味するものとは何か。

 物語に交錯するもう1つの創作物『春と修羅』を読み解きながら、「シン・ゴジラ」の核心に挑んでみたい。

同時代に理解されなかった「春と修羅」

 「シン・ゴジラ」のエンドロールに、「資料協力」として日本近代文学館刊行の復刻版『春と修羅』が挙げられている。同じものと思われるものを入手した。復刻元の奥付に「大正十三年四月二十日発行」とあり、定価は2円40銭。著者は「宮澤賢治」、発行所には「関根書店」の名がある。賢治の地元である岩手県花巻で印刷されている。

復刻版『春と修羅』。1972年に日本近代文学館から「精選 名著復刻全集」として刊行されている。撮影に使われたのもこれだろう。本物の初版本は100万円近い値が付くとされている。
復刻版『春と修羅』。1972年に日本近代文学館から「精選 名著復刻全集」として刊行されている。撮影に使われたのもこれだろう。本物の初版本は100万円近い値が付くとされている。

 大正13年は1924年。時代を超えて物価を比較するのは難しいが、当時の米価が10kgで3円50銭前後だったことを基準に、あえて乱暴に今の貨幣価値に換算すると、2000円から3000円程度になるだろうか。1000部刷られたが、売れたのは100部程度だったとされている。残りの在庫は賢治が引き取った。中原中也など文壇の一部に評価はされたが、この岩手に生まれた夭折の詩人は、同時代的にはほぼ理解されなかったと言っていいだろう。

 なぜ理解されなかったのか。その答えは、この詩集の「序」を読むだけでも明らかだ(なお、詩の全文は「青空文庫」に公開されている)。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

 東京大学言語情報科学専攻教授の小森陽一氏は、その講義録『いま、宮沢賢治を読みなおす』(かわさき市民アカデミー講座ブックレット)の中で、この一文目の、時代に対してあまりに先鋭的だった先進性についてこう述べている。

 恐らく、どんなに突き詰めて問題を考えていた哲学者でも、一九二〇年代前半に「わたくしという現象(引用注:「現象」に傍点)」という言葉を、つまり「わたくし」とはフェノメノンだ、現象だと言う人はいなかった。恐らく詩人も小説家も哲学者も、「わたくし」と言えば、それは「わたくしという存在(引用注:「存在」に傍点)は」というふうに存在論的に言葉にしたかと思うのです。

 この「序」を読むと思い起こす映画がある。賢治のもう1つの代表作である『銀河鉄道の夜』を、別役実氏が脚本を担当し、杉井ギサブロー氏が監督を務めてアニメ映画化した作品だ。そのエンディングで、ナレーターの常田富士男氏がこの「序」を朗読する。賢治の世界観に惚れ抜いた制作陣が、「銀河鉄道の夜」とは直接関係はなくとも、その世界に重ねたいと願った一節だったのだろう。細野晴臣氏の音楽ともあいまって印象に残る名シーンだった。

復刻版『春と修羅』から「序」の1ページ。
復刻版『春と修羅』から「序」の1ページ。

 「序」において、「わたくし」は、自らを「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」であり、「風景やみんなといつしよに、せはしくせはしく明滅しながら、いかにもたしかにともりつづける、因果交流電燈のひとつの青い照明」であると宣言する。

 天井を見上げてほしい。「交流」の電気で点る蛍光灯は、1秒間に100回以上「せはしくせはしく明滅」している。私たちの肉眼から見れば「いかにもたしかにともりつづける」ひとつの光であるように見えるけれど、その光は、明滅という「現象」の軌跡に過ぎない。疑いもなく「いま/ここ」にあり続ける「存在」としての「わたくし」ではなく、賢治はここで、まるで蛍光灯のように、何らかの「因果」の中で生まれ、明滅する「現象」の残像としての「わたくし」を宣言している。

 「風景やみんなといつしよに」明滅している点も注目したい。明滅する「わたくし」という「電燈」が光を放ったその刹那に、「風景やみんな」が照らされて浮かび上がる。つまり「現象」としての「わたくし」が鼓動するように明滅するのに呼応して、初めて世界が生まれている。「わたくし」だけでなく、「わたくし」が感知する世界もまた「現象」であると賢治は宣言しているのだ。

 この宣言は、「シン・ゴジラ」におけるヤシオリ作戦のありようと重なって見える。

 劇中で、ゴジラを物理的な「存在」として打ち倒そうとした作戦はすべて失敗した。自衛隊の攻撃はダメージを与えることすらできず、米軍の戦闘機は反撃を受けて全滅した。だが、ゴジラを折り紙のように立体的に描かれた化学反応の連鎖という「現象」として捉えたことで、その動きを停止させる術を見出すことができた。

 つまり、船に置かれていた「折り鶴」と「春と修羅」は、ゴジラを止めるために牧元教授から日本政府に与えられたヒントであったとも読み解くことができる。

妹を失った賢治、妻を失った牧元教授

 ただ、『春と修羅』の「序」以降を読み進めると、「シン・ゴジラ」の物語との間に、「ゴジラを止めるヒント」とだけ回収してしまうには惜しい世界の広がりや重なりを感じる。物語の中でほとんど触れられず、1枚の顔写真だけで描かれる牧元教授という人間を知るために、賢治が残した詩集をさらに読み込んでいきたい。

 『春と修羅』には、結核に罹って伏す妹・トシとの別れを予感するある朝を描いた「永訣の朝」という作品が収められている。「国語」の教科書に採用されることも多い作品なのでお読みになったことのある読者も少なくないはずだ。

けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (*あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)

 こちらは「永訣の朝」ほど知られてはいないが、妹・トシとの離別に立つ自らの心象をより直截に謳いあげた「無声慟哭」という作品も収められている。

こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
  (おら おかないふうしてらべ)

 いずれも「おまへ」は妹・トシを指すとされる。死にゆく妹を前にした「わたくし」は「巨きな信のちからからことさらにはなれ、また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ」ながら「青ぐらい修羅をあるいてゐる」と描かれている。「おまへ」と「わたくし」は「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」であるが、今、その道連れを失いつつある「わたくし」は、「毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふ」しかなく、「おまへはひとりどこへ行かうとするのだ」とむなしく問いかけるしかない。

 賢治の足跡を調べれば、「巨きな信のちから」「信仰」などと表現されているものが法華経信仰であることが分かるが、それを知らずとも、「わたくし」と妹とが共有していた「信」「信仰」が失われつつあり、妹と永訣を余儀なくされる「わたくし」が、「青ぐらい修羅」、「毒草や蛍光菌のくらい野原」を歩まざるを得ない絶望が描かれていることは分かるはずだ。

 劇中、牧元教授が妻を失ったこと、そしてそれが牧元教授がゴジラを生み出したことと何らかの因果関係を持っていることが匂わされている。妹を失った絶望から「青ぐらい修羅」を歩く「わたくし」の声なき「慟哭」を、牧元教授はわがことのようにして読んだのかもしれない。

 冒頭、「序」から「わたくし」は「現象」であるという賢治の宣言を引いた。その言わんとするところは、美しいが、いかにも絶望的で悲しい。私たちは「存在」として他者を愛し、相手からも「存在」として愛されることを求めている。私たちが、複雑に連鎖する代謝回路、化学変化の連なり、賢治の言葉を借りるならば「有機交流電燈のひとつの青い照明」という「現象」に過ぎないとすれば、愛するという行為でさえも解体されてしまうだろう。

 逆に言えば、最愛の人を失う衝撃と絶望を、賢治も、牧元教授も、自らや他者を「現象」と捉えることで乗り越えようと試みたと言えるかもしれない。

 「序」は、前に引いた部分にこう続く。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 「人」を「銀河」「修羅」「海胆」と併置する感覚。「空気や塩水を呼吸」するという反応回路。そしてそれらの「本体論」を考えること自体も「畢竟こゝろのひとつの風物」であるという断言。この賢治の世界観で捉えるならば、自己も他者も、神羅万象すべての存在と現象は化学式の連鎖に過ぎず、「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに、みんなのおのおののなかのすべてですから」という、他者に対する恐れも愛もない世界にたどり着くことになる。

 その世界に、「シン・ゴジラ」と同じく庵野秀明氏の作品であるアニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」における、妻を失った碇ゲンドウの絶望と復讐や、最終盤に描かれる、「境界」が失われ、人と人が溶け合った世界も重なって見える。

なぜ登場人物の家族や恋愛が描かれなかったのか

 「シン・ゴジラ」の仕掛けが巧妙で深いのは、こうした絶望に「否」と突きつけるだけではない点だ。

 先述のように、ヤシオリ作戦はゴジラを「存在」ではなく「現象」と捉えることで成功を遂げた。日本政府もまた、総理大臣や官房長官などの肉体としての「存在」を失いながら、失われた椅子に新たな人が座り、この国を守ろうという人たち一人ひとりが巨大な政府という機関や機能を入れ替わり支えるようにして、あたかも「せはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈」のように、かろうじてその明かりを保ち続けた。

 この映画の描写に、主要な登場人物たちの家庭や恋愛感情が持ち込まれなかったのは、一人ひとりの「存在」というよりも、巨大な国家や政府という「現象」を支える無数の個として描こうとしたからかもしれない。核融合反応回路を備えるゴジラという「現象」に、これまでも戦火や災害で多くの生命が失われ、世代交代によって構成する国民がすべて入れ替わってもなお連綿と存続する日本という「現象」が対峙するのが「シン・ゴジラ」という映画だった、とも言えるだろう。

 人間一個の存在は、その生命が尽きることで失われる。けれども、その人間が社会的に果たしていた役割は、誰かに引き継がれ、あるいは別のものに取って替わられながら、「いかにもたしかにともりつづける」かもしれない。空しいとも尊いとも見える企業や組織、あるいは国家というものの本質の一端が、ここに語られている。

愛する者なき春と、修羅

 詩集『春と修羅』には、その名も「春と修羅」と付された詩が収められている。

 賢治の妹・トシが亡くなったのが1922年11月27日。「永訣の朝」に描かれるように、岩手の厳しい冬の中で逝った。数か月後、トシを失ったことなど何事もなかったかのように花巻に「春」が訪れる。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

 生命の萌える季節。しかし賢治は、「四月の気層のひかりの底を、唾し、はぎしりゆきき」し、「いかりのにがさ」や「青さ」を思い、自らを「修羅」と歌い上げる。愛する者なき「春」に「修羅」として生きる賢治のその姿に、「シン・ゴジラ」で妻を失った牧元教授の姿が重なって見える。

東京に、「雲の火ばなは降りそそぐ」

 この詩の結びは、まるでゴジラの災厄を描いているかのようだ。

草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)

あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずゑまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ

 「シン・ゴジラ」の最後のシーンで、尻尾が拡大して映し出されて人間の姿らしきものが見える。これについて作中で十分な説明はなく、インターネット上で様々な解釈が試みられている。ここでは、何らかの理由でゴジラと一体化した、もしくはゴジラに変異した牧元教授であるという解釈に一票を投じたい。

 「私は好きにした。君らも好きにしろ」――。揃えて置かれた靴は、彼自身の意思によって姿を消したことを示している。「存在」として取り戻せない妻を思うあまり、その喪失に耐えられず、核融合を原動力とした代謝回路という「現象」であるゴジラの中に自らを組み込んだ牧元教授。肉体は朽ちても、その中であれば「いかにもたしかにともりつづける」妻を感じ続けられるかもしれない。その目に映るのは「草地の黄金をすぎてくるもの」や「ひとのかたちのもの」や「農夫」が並列で語られる現象の世界。東京を破壊しつつ、その小さな目に映る者たちに「ほんたうにおれが見えるのか」と叫びながら「あたらしくそらに息つ」いている。それでいながら彼は、同時に「このからだそらのみぢんにちらばれ」とも願っている。

 賢治は『春と修羅』の中で、肉声的な言葉を括弧に入れて挟み込む手法を取る。「永訣の朝」で、妹・トシの肉声をあえて岩手弁で「(あめゆじゆとてちてけんじや)」と括弧付きで繰り返し挟み込んでいるのはその一例だ。「(このからだそらのみぢんにちらばれ)」と括弧付きで挿入されたこの一節は、「おれ」の肉声、心の底からの声だろう。ゴジラを生みながら、またゴジラを封じるヒントを残した牧元教授が抱えるアンビバレントをここに見るようだ。

 映画作品という「かげとひかりのひとくさりづつ」を連ねた「現象」の中で、修羅の中にある覚悟を決めた男が、その感情というものを感じさせない目で妻なき世界を眺めながら歩く。その動きからは、自己防衛と反撃を除けば、破壊の意志というようなものすら感じない。ただ、歩くのだ。そして東京に、「雲の火ばなは降りそそぐ」。

読者の皆様へ:あなたの「読み」を教えてください

 映画「シン・ゴジラ」を、もうご覧になりましたか?

 その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。

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(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)

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