グーグルが「Googleマップ」の提供を開始したのが2005年。iPhoneの日本発売は2008年。我々がパソコンやスマートフォン(スマホ)でネット上の地図を本格的に使うようになったのは、そんなに昔のことではありません。

 しかし今や、こうした「ネット地図」は、生活に欠かせないツールになっています。手持ちの端末で、無料で使える上に、現在地や目的地をピンポイントで検索できる。地図が好きで、気づけば「空想地図」を作ってしまう私も、ネット地図はよく使っています。

 一方で紙の地図(以下「紙地図」)は、ご想像の通り存在感が小さくなっています。お隣の韓国では、10年前は書店に複数の出版社から冊子地図が出版されていましたが、今年ソウルの大型書店や地図専門店を訪問したところ、ラインナップが大幅に減っていました。

 ただ、韓国や台湾、中国に比べると、日本には今でもかなりの紙地図が出版されています。これはなぜなのでしょうか。

冊子地図のラインナップの一例。昭文社では今でもかなりの紙地図が出版されている。東京を含む冊子地図でもこれだけのラインナップで、これ以外にも何冊かある。
冊子地図のラインナップの一例。昭文社では今でもかなりの紙地図が出版されている。東京を含む冊子地図でもこれだけのラインナップで、これ以外にも何冊かある。

 もしかしたら「(紙の)地図好き」が、私だけに限らない、日本人の特性なのかもしれません。が、なにより、地図を作る出版社の奮闘で、「ネット地図にはない魅力」がさまざまな形で体現されていることが大きいと思います。

 私もその利便性に惹かれ、いまでも紙地図を購入しています。

 利便性、という点では「検索」が可能なネット地図に紙がどうして勝てるのか? と思われるかも知れません。しかし、紙地図のなによりの魅力は、「検索せずに見るだけ」ができること。慣れてくれば、一見するだけでその土地のだいたいの雰囲気=“土地勘”がつかめるほどの情報量が、ぱっと頭に転送されます。実際、私も全国各地を回って「面白そうな場所」を見つけるには、紙地図がかなり役立っています。

検索先は、実は「なんとなく、こんな場所」も多い

 もうすこし深く考えてみましょう。ネット地図でも情報そのものは変わらないはずなのに、なぜ、紙の地図は「ぱっと見たときの情報量」が多い、いわゆる「一覧性(ひと目で全体が見渡せるようにまとめられていること:出典・デジタル大辞泉)」が高いのか。

 ネット地図と紙地図は、そもそもの目的が異なるので、見た目も実は大きく異なっていることに、お気づきでしょうか。

 人は多くの場合「目的地を見つけるため」に地図を使います。その時の探し方は、ネット地図と紙地図では全く違います。

 ネット地図は、検索して目的の場所を探すので、そのデザインは、検索結果が引き立つよう、最低限の情報をシンプルに載せています。いわば“背景”のような地図になっているのが一般的です。

 一方で紙地図は、多様な用途、多様な目的物を1つの面でカバーします。言い換えると、どんな用途でもある程度の「検索」ができるようにするため、色々な“目印”が埋め込まれているのです。見る人が、検索したいという意識を向けた要素(地名、施設、通り、などなど)が、デザインや文字の共通性を通して“浮き上がる”ように工夫されていて、それが、一覧性につながっています。

 目的が明確な場合は、ネットの地図が使いやすく見やすいですが、「“なんとなく”このへんに、面白そうなものがないだろうか」とか「うちのまわりって何があるのか」と、範囲や対象が明確でないときは検索では分かりません。こういうときは紙地図の出番で、意外な発見があったり、みつけられなかったものがみつかったり、ということがあります。

 「この辺はスーパーと家電量販店と、コンビニもガソリンスタンドも何軒かまとまっているな。じゃ、このあたりに行って用事を済ませよう。ついでにカフェもあるなら時間も潰せるか」と、広い範囲の全体感が把握できるのは、紙地図を見てこその素早さです。仮にネット地図だけで探すとなると、どういう検索条件にするのか考えるだけでもやっかいそう。

 人の目的地は最初から全て単一に決まっているわけでもなく、逆に、だいたいの土地勘を掴んでから目的地を探すと、無駄な検索の試行錯誤は減りますし、どんどん広い範囲の土地勘がついてきます。こうやって地図を繰り返し見るうちに、地図から見えてくる多種多様な“模様”から、どんな人が集まり、どのくらいの便利か、利便性や風景、人の流れまでもが見えてきます。

ネット地図の「かゆいところ」を積極的に探っている

 「多様な人の使い方や動き方」が網羅され、編集されている紙地図。「エリアの全体感」をつかむことができるのは、デザインの差に加えて、「紙」だからこその面もあります。液晶画面の解像度と、サイズの問題です。

 ディスプレイの解像度は急速に向上していますが、まだ紙の解像度に追いついておらず、紙地図はネット地図より細かな表現ができる余地があります。大画面のタブレットが続々登場していますけれど、ばっと広げられる紙地図に追いつき“模様”が見えてくるにはまだ時間がかかるでしょう。

 なんだか、紙地図を強引に応援しているみたいに見えてきたかもしれませんが、ピンポイントの検索では原理的にネット地図に敵わない以上、韓国や台湾の例を見ても分かるとおり、紙地図ならではの特徴を訴える地図を作らなければ、衰退は目に見えています。

 では、紙地図の出版社側は、具体的にどんな工夫をしているのか。地図趣味者の私が見る限り、紙地図最大手の昭文社の地図は、ネット地図では届かない「かゆいところ」を積極的に探り、デザインと編集の強みを最大限生かして進化を続けているように思えます。舞台裏を探るべく、昭文社の地図作りの本丸、地図編集課を取材しました。

昭文社・吉田州禎さん(ブランドコミュニケーション本部出版制作部地図編集課所属、以下吉田):逆取材になってすみません、地図を作る側として今和泉さんにお聞きしたいと思っていたのですが、地図の魅力って、どんなところでしょうか。

今和泉:私は5歳の頃に横浜市から東京郊外の日野市に引っ越しまして。それがきっかけです。

吉田:はあ。

今和泉:両親にとっても初めての土地で、とにかく、周りに何が有るかが全く分からないわけです。家族全員で、毎日が「新たな日常探し」になりました。今なら目的に応じて、色々な単語をネットで検索にかけるでしょうが、1990年はまだインターネットがありませんでした。そこで、当然のように冊子地図を見ていました。その中でも、私の地図好きに一気に火をつけたのは、御社の道路地図『シティマップル』シリーズだったのです。

吉田:おお! 具体的にどこで火が付いたのですか。

今和泉:きっかけは、バス路線が載っていたことかもしれません。たとえば鉄道路線であれば、全国の路線網や主要駅名を把握するのは難しくありませんよね。

編集部・山中(以下山中):え、そうですか?

目的地を探すために、地図を「読む」

今和泉:路線バスは鉄道よりはるかに煩雑で、バスの路線や停留所名を全て把握している人ってまだ聞いたことがありません。もちろん私も覚えられません。地図には鉄道やバス路線だけでなく、行政界、細かい路地や施設まで載っています。それぞれがどういう意味を持つのか、何につながっていくのか、冊子地図から興味が無限に拡がっていきました。

山中:で、今和泉さんはそれを確かめに実地に赴くんですよね。

今和泉:そうですね。東京都多摩地区に住んでいたので、たまに奥多摩の山々に行く機会がありました。山々に興味を持ったときは、奥多摩と似たところを地図で探します。地図を万遍なくめくりながら、奥多摩の地図模様と似た地図模様を探していくのです。こうすると、五日市(あきる野市)、檜原村、陣馬(八王子市西部)といった場所が見つかり、実際に行ってみることになります。そして「似ている」「違う」「なぜだろう」と考えました。

吉田:そうか、地図は目的地を探すものというより…。

今和泉:はい。私にとっては決まった目的地を探す道具ではなく、むしろ目的地を見つけるために見るものでした。未知の風景や場所を探す扉が地図だったのです。私は地図という読み物を眺め、地図によって興味を拡げてきました。その地図がどうやって作られたか、大変興味があって、改めて昭文社に取材にまいりました。

吉田:よく分かりました。

昭文社・市川智教さん(吉田さんと同じ部署に所属、以下市川):何でも聞いてください。

山中:実はさきほど、昭文社さんの最寄りの駅前で急に仕事をせねばならなくなって、「PCが開けるところはないか」と。たまたま持っていた冊子地図で探したらファストフード店が見つかって、大変助かりました。

今和泉:まさに、今回の企画の前振りみたいな話ですね。

山中:スマホで検索すれば、と思いつつも、屋外で今日みたいに日差しがきついと画面が見にくいんですよね。そこで、地図を開いてパッとファストフードのお店のアイコンが目に入ってきて、「あ、ここだ」と分かる。ネットだと「PCが使える店」「駅前」→「ファストフード店」で検索、と、脳内でなんとか言語化しないと検索できないじゃないですか。「自分の検索条件を言語化せずに視覚で探せるというのは、案外ありがたいな」と再認識しました。

昭文社・和田史子さん(広報担当、以下和田):ありがとうございます。

今和泉:ネット地図の代表の一つ、グーグルマップは、余計な情報が削ぎ落とされたプレーンな地図です。目的地の位置や経路をピンポイントで出しますが、それ以外の情報は控えめです。いくら大きな画面で見てもネット地図の示す範囲は狭く、広い範囲を映そうとするとほとんどの情報が削ぎ落とされます。紙地図は「広範囲を詳細に」見ることができ、頭の中で曖昧だった目的物を見つけることもできるのが魅力ですよね。

紙地図の生き残りのカギは「一覧性」

市川:紙地図の意義は、広範囲を見られる「一覧性」が一番大きいと思っています。特に大きな範囲を映す小縮尺(10万分の1、20万分の1)の地図は、むしろこれから重要視されていくのではないかと思っています。カーナビで同じ縮尺で映すと、道路の線が数本入る程度で町名も見えませんが、紙地図だと町名だけでなく周辺の施設だけでなく、途中の街の大きさもなんとなく分かります。

今和泉:一覧性はかなり大きいですよね。「目的地に最短で行く」だけでなく、別の目的を見つけたり、最短でない良い経路を見つけられたりしますよね。

山中:この前、福岡市から糸島市(福岡県)の有名なカフェに行こうとして、カーナビの通りに走ったら、延々と山の中を抜けて突然海岸に出るルートでした。時間は短いんでしょうけど、海沿いのリゾートに向かうにはおもしろくないルートで、海岸伝いに行ったほうがずっと風景が良かったはず、とあとで思いましたっけ。

今和泉:ああ、九州大学の伊都キャンパス横を抜けていく道ですね。

山中:何で知ってるんですか。

今和泉:人間は、機械的に「最短で目的地に行く」だけが良いとも限らないんですよね。そこで一覧性が重要になる。

吉田:我々の地図、特に、一枚モノの地図(大判の都市地図)は、一覧性の極みです。東京のものだと、たとえば『都市地図 東京全図』です。

今和泉:うん、これは優れものです。これの東京都心拡大図は、かなり広い範囲が載っていて、ビジネスパーソンにはオススメです。

山中:見たところただの地図ですが…どこが特徴なんですか。

今和泉:この『東京全図』は、“切り方”が絶妙なんですよ。紙の地図といってもスペースは有限ですから、どこかで切らないわけにはいかないんですが、はっきりと「まとまり」「つながり」があるエリアをぶった切ってしまうと、地図としての使い勝手が悪くなります。

山中:なるほど。

紙の地図は「図取り」が命

吉田:そうなんです。紙地図で欠かせないのが、どこまでの範囲を一覧できるよう切り取るか、「図取り」と言われる作業です。紙の大きさ、縮尺、範囲をどう切り取るかで悪戦苦闘しています。

市川:紙を大きくすると広い範囲を詳細に載せられる一方で、広げて見たり持ち運んだりするのには向かなくなります。使いやすい紙の、決められた大きさの中で、必要な部分、多くの人が行く街を切れ目のないように入れるのは試行錯誤です。

『都市地図 東京全図』を机に拡げる。写真奥から昭文社和田さん、吉田さん、そして地理人こと今和泉さん
『都市地図 東京全図』を机に拡げる。写真奥から昭文社和田さん、吉田さん、そして地理人こと今和泉さん

今和泉:たとえば、新宿と四谷の間は人の流れは分断されていますが、図も分かれています。

山中:でも、新宿駅はギリギリで入っていますね。

吉田:ええ、やはり東京の地図は、新宿駅を外すことはできません。

今和泉:日本最大の乗降客数の駅ですからね。ここを隅っこに収めつつ、千代田区・中央区~港区北部という、回遊性があるビジネスエリアを漏れなく見渡すことができます。こういうのが「技」だと思います。

山中:確かに。そしてこの辺はなぜか迷いやすいんですよね。

市川:なので、ぜひ入れたかったわけです。

今和泉:日本橋北部は、縦横の直線的な路地が続きながらも、方向感覚が狂いやすいのです。こうやって地図で一望すると、その理由も明白です。ピンポイントの検索で、部分的に拡大した地図だけ見ているとこの穴には気がつきません。

日本橋北部から東神田に存在する「魔の三角形」
日本橋・神田エリアの「三角地帯」を中心に、黄色いエリア全域に影響が広がっている(背景地図に1.5万 『スーパーマップル 広域首都圏 道路地図』を使用)
日本橋・神田エリアの「三角地帯」を中心に、黄色いエリア全域に影響が広がっている(背景地図に1.5万 『スーパーマップル 広域首都圏 道路地図』を使用)
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上の地図をイメージ化するとこんな感じ。“魔の三角形”を中心に、周辺の道路が「歪んで」いるが、「格子状の街路を歩いている」先入観があるので、いつのまにか方向が大きくずれてしまう
上の地図をイメージ化するとこんな感じ。“魔の三角形”を中心に、周辺の道路が「歪んで」いるが、「格子状の街路を歩いている」先入観があるので、いつのまにか方向が大きくずれてしまう

 日本橋北部から東神田にかけて、私が「時空の歪む魔の三角形」と呼んでいるエリアがあります。浅草から南下しつつこのエリアを通ると、銀座に行くはずが、いつの間にか東京駅に出たり、あるいは隅田川を渡ってしまう。銀座から北に行く場合も、上野方面へ進んでいるはずが、いつの間にか東にずれてやっぱり隅田川に出てしまったりする。

 青いルートは浅草方面(北)から南への進路ですが、江戸通りを南下し浅草橋南交差点で、左右に少しだけ分岐します。この「少し」がだんだん大きな歪みになり、ほぼ90度のズレを生み出します。

 銀座方面から北に行く際は、西側の昭和通りを北に進む場合はほぼそのまま北に進めますが、東にある新大橋通りを行くと、気づいたら東に進んでおり、これも90度の差を生んでいます。

 このトリックの裏に潜むのが、周囲の格子状の道路網とは異なる角度で、やはり格子状の道路網を持つ「日本橋・神田三角地帯」です。黄緑色で塗った三角形の部分を中心に、影響が広がっています。紙の大きな地図だと、「あ、角度がずれている」と分かるのですが、スマホの小さな画面だと、ぱっと見は整然とした縦横の街路に見えますので、この三角形の存在には気づきにくいのではないでしょうか。

今和泉:編集の皆さんは、人の回遊性や街の連続性があり、切れてはいけない場所を判断することが多いと思うのですが。

吉田:その通りです。

今和泉:どうやって把握されるのですか?

市川:必死になって調べます。地図を見てある程度街の状況をつかむこともありますが、航空写真を見たり、主要施設(公共施設や商業施設)の分布でも見てとれます。日々勉強です。あとはやはり、実際に行って見たり、その土地に詳しい者に聞いて把握しています。なんらかの定式があるわけではなく、アナログチックな努力です。

『ハンディマップル 詳細便利地図』をめくる昭文社の市川さん。後編はこちらの、ポケットサイズの地図のお話です
『ハンディマップル 詳細便利地図』をめくる昭文社の市川さん。後編はこちらの、ポケットサイズの地図のお話です

(後編に続く)

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