1954年の第1作から数えると、「シン・ゴジラ」は日本で制作される29番目のゴジラ映画だ。ただし、前作の公開は2004年。同作のタイトル「ゴジラFINAL WARS」からもわかる通り、ゴジラシリーズは50年を区切りに制作が打ち切られていたはずだった。それではなぜ、ゴジラは再び日本にやってきたのか。『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』(岩波書店)の著者で、文芸評論家の加藤典洋氏に聞いた。
まずは率直な感想を教えてください。
おもしろかった。まず公開3日後くらいに見ました。その後、文芸誌に評論を書くことになったのでお盆の近くにもう1度、映画館に足を運びましたね。
どんなところに注目しましたか?
初代ゴジラに戻る、ということを最初から最後まで徹底したところです。ゴジラという作品を、ゼロからこの現代に作り直すとすればどうなるか。これを全身全霊で追求する、という姿勢が独創的だったと思いますね。
この映画のなかの世界では、誰もゴジラのことを知りません。最初に「ゴジラ」と聞いて、みんな「何だそれは」といいます。ふつう、こういう映画に出てくる「現代の日本」というのは、「いま私たちが暮らしている日本」がモデルですよね。ところが『シン・ゴジラ』ではこれまでのゴジラはなかったことになっている。さらに、むろんそこには「ゴジラ映画」も存在していない、そういう設定です。「ゴジラもゴジラ映画も存在しない架空の日本社会」。そういうありえない新しい虚構を作って、リニアモーターカーのように宙に浮かせている。
ただ、その虚構であるはずの日本社会、たとえば東京の街並みや自衛隊の出動の様子、官僚機構の動き方などはかなり精緻に取材し、リアルに描かれています。それが余計に、私たちに一種の浮遊感を抱かせるのです。
アニメ映画を実写で見ているような世界
どんな効果があるのですか?
私たちに、一種アニメ映画を実写で見ているような、超平面的(スーパー・フラット)な世界を作り上げるうえで効果を発揮したと思います。
超平面的な世界というのは、簡単にいうと、出生率ゼロの世界です。つまり、内面がない、だから恋愛もない。家庭がないから、出産もない。ですから、あれだけの大事件が起きながら、主要人物たちが官僚世界の公的な場面だけで動きます。主要人物はほとんどの場面で公的な人間(官僚)としてしか行動しないし、主人公の長谷川博己もいっさい家庭的な場面を描かれません。独身なのか妻帯なのかもわからない。
また、一対の男女が出てきても恋愛関係には発展しません。たとえば同じ国難映画でも、2015年の原田眞人監督の「日本のいちばん長い日」だと、例によって主人公格の陸軍大臣阿南惟幾の家族との話が出てくる。夫婦愛などの挿話がちょこっとアリバイのようにさしはさまれるわけだけど、『シン・ゴジラ』はそういう凡庸さからは、ほど遠い。ね、徹底しているでしょう? 彼らの抑揚のない早口言葉が、その別世界感にフィットしていました。
人間なので、本来ならいろいろな喜怒哀楽を抱くはず。だけれど、そこからあえて深みを取り去ることで、別の新しいリアリティーを取り出すことに成功しているのです。街も人間も空も雲も同じ線で描かれる、という意味で、実にアニメ的な手法で私たちを引き込んでいると感じました。
どうして今、シン・ゴジラという映画が作られたのでしょう?
ゴジラは、架空の怪獣です。なにか不気味な、名づけようのない恐ろしさや不安をエネルギー源にしています。第1作の公開は1954年。敗戦からわずか9年でした。男性が「また疎開か」と漏らしたり、逃げ遅れて絶体絶命の親子が「(天国の)お父ちゃまのところにいくのよ」と言い交わしたりする。当時の日本は、まだまだ戦争の記憶が色濃く残っていました。
そんななかで起きたのが朝鮮戦争であり、米国の水爆実験です。人々の脳裏には戦争のときに抱いた不安や恐怖がよみがえってきて、これを「借景」のように使って、初代ゴジラはつくられました。
ところが、戦後70年が経って戦争体験者が減り、日本のなかで「戦後」の源泉が枯渇してきた。初期のゴジラを支えた戦争や水爆実験の不気味さ、恐ろしさといったエネルギー源は失われていきます。このなかでゴジラ映画はそのエネルギーの「油井」を深く掘り下げる代わりに、既成のエンタメ性に安住した怪獣映画へとルーティン化していきます。こうして先細りした結果、ついには2004年の『ゴジラFINAL WARS』で日本での制作が打ち切られます。
この状況を変えたのが東日本大震災です。原発事故が起こり、日本人の意識下に底知れぬ不安や恐怖が戻ってきた。ゴジラは再び「借景」できる新しいエネルギー源、不安と恐怖を獲得した。そこから再び『シン・ゴジラ』が登場してきたというわけです。
シン・ゴジラでは東日本大震災と原発事故が借景に使われた、ということですね。
ゴジラは映画の最初、第2形態で東京都大田区の呑川をさかのぼってくる。あれはちょっとナマズみたいです。ナマズが暴れると地震が起きるって昔から言いますよね。
あと、複合災害の特徴も描きこまれている。東日本大震災は地震だけなら被害は限られたかもしれないけれど、津波で死者が増える。さらに原発事故も起きて深刻さが増します。『シン・ゴジラ』でも第1、第2、第3……と形態が進化するにつれ、どんどん被害が拡大しますね。
第1作のゴジラは第2次世界対戦の亡霊
第1作のゴジラについて、加藤さんは著書『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』で「第2次世界大戦の亡霊だ」と指摘しています。
第1作を監督した本多猪四郎は「水爆実験には反対だという気持ちで映画を作った」と語っています。こうした製作陣の発言を根拠に、従来の「ゴジラ論」の多くは、ゴジラを反戦・反水爆映画と解釈してきました。ただ、それならゴジラが向かうべきは米国で、それでは遠いというなら、せめてハワイあたりでもよい(笑)。繰り返し日本を襲う理由は説明できないのです。
また、ゴジラ映画は50年で28作も作られますが、反戦、反水爆でこれだけシリーズが続くものでしょうか。説明として弱いと感じました。
そこで私は「ゴジラは亡霊なんだ」と考えてみました。
具体的には、第2次世界大戦における日本の死者、なかでも戦場に行って現地で亡くなった兵士たちです。思いを果たせずに死んだ死者たちの霊が、いわば成仏できないまま、この世界をさまよっている。そのことへの戦後の日本人の意識下での「後ろめたい」思いが、ゴジラが「自分の故郷に戻ってくる」という観客の無意識を支えているのではと考えたのです。
だからこそ、ゴジラはときどき立ち止まったり、苦しげに身をよじったりします。あれは「自分がそのために死んだ国は、いま、どこにあるのだ? 自分の祖国はどこに行ってしまったのだ?」と嘆いている。そう見えるのじゃないか、と解釈してみたのです。
というのも、敗戦から間もなく、日本人は戦前の価値観を捨てました。なぜ戦争を起こしたか、なぜ負けたのかといった総括をしないままでした。命を捧げる存在であったはずの昭和天皇も人間宣言をし、あれほど憎んだはずの米国人と並んで写真に収まった。いわば「戦没者たちが生きた日本」はどこかへ消えてしまっていたのです。
ではなぜ、戦争の死者たちの表徴であるゴジラが、同時にわれわれの戦うべき相手ともなるのか? それは先の戦争が、アジア諸国に対する侵略戦争でもあったからでしょう。第1作でゴジラは、はじめに太平洋の孤島の大戸島を襲い、母と兄を殺された新吉という少年は、首都に移ったあと、街を破壊するゴジラを見て、「ちくしょう、ちくしょう」といいます。被侵略民の気持ちを代弁している。ですから、最後に断末魔の声を残して白骨化して海底に沈む第1作のゴジラが悲しげに見えるのは、死者たちの二面性をも表しているのです。
ゴジラは日本人の「無意識の器」
となると、今回のゴジラは……東日本大震災の犠牲者?
違うでしょうね(笑)。映画をそんなにベタに見てはいけません。
そういえば原発も東北の沿岸地域も、映画には出てきません。
むしろ、ゴジラは東日本大震災・原発事故そのもの、その換喩なんじゃないでしょうか。換喩というのは物事や出来事の「代わり」ということですね。ですから、ゴジラの他に大震災や原発が出てきたら、かえって困ったことになるんです。
では、ゴジラとは一体?
色んなものでありうる。日本人の「無意識の器」みたいな存在だといってよい。でも、今回はこれに加えて、これまでにない新しい意味をもつようになった。なんだと思いますか?
わかりません…
(後編に続く)
映画「シン・ゴジラ」を、もうご覧になりましたか?
その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。
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(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)
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