入院している。

 昨年の3月、自転車走行中の転倒で、左膝の関節の内部を骨折し、4月のはじめに関節の修復手術をした(編注:その写真入りレポートはこちら→「骨折したオダジマが泣いた、親友の電話」)。この時、左膝に、チタン合金製のプレートと、それを固定する9本のボルト(ネジですね)を入れた。

 で、このたび、術後約1年半を経て骨折部が完治したので、金属板とボルトを除去する手術を受けるべく、前後10日ほどの日程で再入院している次第だ。

 手術は昨日(この原稿を書いている前日の9月20日)の朝、無事終了した。現在は、切開・縫合部に軽い痛みはあるものの、順調に回復しつつある。

 今回は、しばらくぶりに病院暮らしをしていることでもあるので、世間を騒がせている生臭い事件とは距離を置いて、ベッドに寝ながら考えたことなどを書いてみようかと思っている。

 病院での日常は、病気や障害との戦いなのかというと、案外そうばかりのものでもない。とくに長期入院患者の場合、日々の暮らしは、症状と和解し、加齢と折り合いをつけ、不自由さに慣れる過程としての、ソフトランディングの意味合いが大きい。

 そして、こういう状況に、男はうまく適応できない。

 前回の入院の時も思ったのだが、年配者の多い同僚患者を見ていると、病院の日常に適応して入院生活を楽しんでいるように見えるおばあさんたちに比べて、男性のご老人は、おしなべて不機嫌な様子をしているのだ。

 互いに病状を気遣い、朝に晩に声を掛け合いながら、機嫌良く病院の明け暮れをやり過ごしているおばあさんたちに比べると、爺さんたちは、どうかすると自分で自分の症状を悪化させているようにさえ見える。

 どうして、こういうことになるのか。
 それを、今回は考察してみたい。

 無論、個人差はある。
 私は「男は」とか「女性は」とかいった大きな主語を使って性差決定論を振り回そうとしているのではない。ジェンダー差別の話題を持ち出すつもりもない。あくまでも、私の目から見た男女の老化の違いについて、個人的な感慨を述べてみたいということだ。

 手術が行われた9月20日の夕食には、病院食の調理を手伝っているご近所の女子大の実習生さんの手になる鶴亀のモチーフをあしらった手書きのカードが添えられていた。

 私は、術後のぼんやりするアタマで

「おお、オレは敬老対象に算入される男になったのだなあ」

 と、しばし感慨にひたったわけなのだが、残念なことに、その日の夕食は、麻酔の副作用の吐き気がひどくて、ほとんど食べられなかった。

 いま現在の自分が、果たして老人であるのかどうか、はっきりしたところはわからない。答えは、文脈や本人の気の持ちようで変わるものなのだろうし、多くの人が、答え以前に、その問い自体を忌避していることを思えば、回答は、結局のところ、死の直前まで留保されるのかもしれない。

 大切なのは、本人が自分を老人だと考えるかどうかではない。現実的には、むしろ、自分を老人として扱う世間に対してどのように対処するのかという、その振る舞い方が、当人の生活をより大きく左右することになる。

 このことは、「老人」を「病人」に変えてもほとんど同じように適用できる。「下っ端」でも「貧乏人」でも同様だ。

 私がここ数年来様々な場所で感じているのは、その「意に添わぬ立場に置かれた」時に、多くの男がまるで機能しない人間になってしまうという、そのことだ。

 この問題は、第一義的には、「礼儀」ないしは「対人コミュニケーション」の不具合として立ち現れる。

 入院4日目の朝、私は自分のツイッターに

人間の中味はともかく、こと対人マナーに限って言うなら、男の態度はトシを取れば取るだけ悪化する。失礼な若いヤツには滅多に会わないが、失礼なおっさんは珍しくない。爺さんになると失礼な人間の方が多数派になる。女性は年齢では変わらない印象がある。まあ、個人の感想だが。

年配の女性と年配の男性を比べると、救いようの無い人間は後者の集合により多く含まれている。
 一応、個人の感想と言っておく。》

 というツイートを書き込んだ。

 念のために申し添えれば、これは、私が病院内で遭遇した特定の患者やその家族を想定して書いたコメントではない。この2年ほどの間に、杖を突いて歩く駅のプラットホームや、通院先の病院のロビーや、手すりに頼って一段ずつ下りる神社の階段で、すれ違ったり肩をぶつけたり声をかけてくれたりした様々な人々の印象を総合した言葉だと思ってほしい。

 要するに

  1. 女性は年代を問わずおおむね親切に接してくれる
  2. 男性の場合は、年齢が若いほど気遣いが行き届いている
  3. おっさん、爺さんには、横柄、尊大、偏屈、無愛想な個体が数多く含まれている

 ということだ。
 人混みで肩がぶつかったような場合、ほとんどの日本人は

「あ、ごめんなさい」
「すみません」

 と、反射的に謝罪の言葉を述べる。これは、どちらが悪いとか、どの人間がコースを外れてぶつかったとか、そういう問題ではない。人の多い場所で誰かとカラダの一部が接触してしまった場合に、咄嗟に謝罪の言葉を口に出せるかどうかという社会性の問題だ。

 私の個人的な経験から言えば、こういう時に、黙ってにらみつけて来るのは、ほぼ高齢の男性に限られる。

 加齢がもたらす変化なのか、世代的な特徴なのかはわからない。が、ともあれ、50歳以上のおっさんから70歳を超えた爺さんを含むシルバーグレーな集合の中には、かなりの確率で、人とぶつかった時に気軽に謝れない人間が含まれているということだ。

 病院内でも、ナースさんに対して横柄なものの言い方を繰り返していたり、見舞客に延々と愚痴をこぼしていたり、嫁さんに威張り散らしていたりする患者は、やはり高齢男性に多い。

 女性や若い男性で、手に負えないタイプの患者はあまり見たことがない。
 高齢の男性患者の中には、目の前にいる人間に命令することを、自分に与えられた天然の権利だと思いこんでいるタイプの暴君が、時々混じっている。
 不可思議なことだ。

 もっとも、私自身、万全の社会性を備えているわけではない。

 たとえば、滅多に顔を合わせることのない親族が集まる法事の席に派遣されたり、ものほしげだったり横柄だったり軽佻だったり過剰適応だったりする業界人が何百人も集まる受賞パーティーだとか賀詞交歓会だとかの会場に放り込まれると、私は、無愛想なオヤジとして立ち尽くす以外の対処法をまったく発揮できなくなる。

 こんなことではいけないと内心ではわかっていても、隣の席に座った人に明るく話しかけるとか、不自由そうに歩いているご老人に手を差し伸べるとかいった、年齢の行った社会人として当然身につけているべき所作を、なにひとつ発揮できないまま、毎度毎度不機嫌になって行く自分を制御できないまま終局を迎えることになっている。

 私自身がこんなふうなのは、おそらく、きちんとした社会生活を経験していないからだ。
 新卒で就職した会社を1年もたたずに辞めて、以来、ぶらぶらしたり働いたりを繰り返したあげくに、フリーランスの世界で糊口をしのぐようになった経歴が、現在の私を作っているのだと思う。

 ちょっと脱線します。
 いま「ここう」と入力したら、「孤高」「虎口」「股肱」「糊口」という変換候補が次々と現れて、脳内が回り灯籠になりました。これだからワープロは油断がなりません。

 話を元に戻します。
 要するに、私の「社会人経験」の乏しさが、私をして、社会性の欠落したおっさんならしめたということだ。これについては一言も無い。黙ってうつむくのみだ。

 ただ、病院の爺さんたちや、駅の雑踏を歩くおっさんたちが、21世紀の人間としてのマナーを欠いている問題に関しては、別の文脈に属する話として、別の分析を持ってこないといけない。

 というのも、彼らに一般的な意味で言う「社会性」が欠けているとは思えないからだ。

 日本のおっさんは、職場に置けばきちんと機能する。その意味では、規格外の不良品ではない。事実、彼らの社会である「会社」では、彼は、立派な社会人として通用している。

 ただ、病院は、企業社会とは別の原理で動いている。だから、そこでは、職場のプロトコルが通用しない。となると、おっさんは、何もできない。

 おそらく、病院に放り込まれた爺さんや、駅の雑踏を一人歩く通行人になりかわったおっさんが、まともな態度をとれないのは、彼らが本来あるべき「役割」の外に放逐されている独行者だからなのだ。

 こんなことが起こるのは、一般の企業社会(「ホモ・ソーシャル」という言葉を使っても良い)における「社会性」と、病院や雑踏や家庭やショッピングモールのような職場の外の社会で要請される「社会性」が、かけ離れているからだと、私は考えている。

 企業人ないしは組織の人間としての社会性は、平場の世間では通用しないどころか、邪魔になる。
 だからこそ、街場のおっさんは、歩く凶器と化すのだ。

 オフィス内での上司への気遣いや、同僚との交流や、部下とのやりとりということであれば、彼らは十分にそれらをこなすことができる。得意先との付き合いも、出入りの業者への対応も、アルバイト君への威圧と甘言も、そつなく使い分けられているはずだ。

 というのも、肩書を与えられ、立場を持たされ、ある枠組みの中の特定の役職に就いている限り、あらゆる外部への対処は、あらかじめプログラミングされたプロシージャ(手順)だからだ。

 自分と相手との関係を勘案し、その立場の上下や損得から算出した関係式を関数として記憶しておけば、どんな場合でも、「態度」は、自動的に算出される。

 口のききようも、アタマを下げる角度も、ユーモアの出し入れも、すべては方程式に当てはめることで解答の出るルーチンとして処理可能だ。

 だからこそ、あるタイプのおっさんたちのユーモアは、目下の誰かを揶揄嘲弄する文脈でしか発動されないのであり、別のタイプのおっさんの大笑いは、もっぱら上司が繰り出したジョークに反応するリアクションのアルゴリズムとして仕様書に書き込まれているのだ。

 彼らは、会社の駒として語り、動き、笑い、あくまでも特定の組織のひとつの定められた役割として考え、感じ、笑い、働き、徹夜し、訓示を垂れている。

 とすれば、役職を剥がされ、立場を喪失し、外骨格としての会社の威儀を離れ、一人の番号付きの入院患者になりかわった時に、そのおっさんなり爺さんなりが、どうふるまって良いのやらわからず、ただただ不機嫌に黙り込むのは、これは、理の当然というのか、人間性の必然ではないか。

 シンデレラがガラスの靴を脱いだ時みたいに、おっさんの魔法は、背広を脱ぐだけで、あとかたもなく解けてしまう。

 そう思って振り返ってみれば、部下が話を聞いてくれていたのも、得意先の若いヤツが人懐っこい笑顔で話しかけてくるのも、生身のおっさん自身に対してではなかったのかもしれない。若い連中のリスペクトが、おっさんの肩書や立場、つまりは背広への義理立てに過ぎなかったのだとしたら、その背広を脱がされて、入院患者用の業者レンタルの浴衣を着せられたオヤジほどみじめな存在はない。なんとなれば、彼は彼がそれまでそうであったすべてのものの抜け殻だからだ。

 もう少し噛み砕いた言い方をするなら、上下関係と利害関係と取引関係と支配・被支配関係で出来上がった垂直的、ピラミッド的な企業社会の中で身につけたおっさんの社会性は、病院や、町内会や、マンションの管理組合や、駅の雑踏や、コンサートの打ち上げのような場所で期待される、水平的で親和的な社会性とは相容れないということだ。

 とすると、職を剥がれたおっさんは、どうやって長い老後を生きて行ったら良いのだろうか。

 2001年の11月、ある女性誌が、当時都知事だった石原慎太郎氏による、次のような談話を掲載した。

「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは“ババア”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」(こちら

 この発言は、当時、問題視されて、ちょっとした騒動になったのだが、いま見れば、まあ、「スベッたジョーク」以上のものではない。いまさら、元知事の不見識を詰ろうとは思わない。

 ただ、この発言から15年の時日の経過を勘案して鑑みるに、石原慎太郎元都知事は、人類にとって有害なのがむしろ「ジジイ」であったことを、自ら証明してしまっていると思う。

 われわれが想定する、「魅力的な中高年男性」のロールモデルは、「ナイスミドル」「モテ爺」「ちょい悪オヤジ」でもなんでも良いが、結局のところ、「権力を持っている年寄り」「カネを持っているオヤジ」というどうにも月並みな想定から一歩も外に出ることができずにいる。

 女性の場合、権力やカネがなくても、魅力的なご老人というのは、あれこれ想像できるし、実際そういう女性は世に溢れている。

 引き比べて、カネや権力や肩書を取っ払った生身の人間として、真に魅力のある爺さんは、びっくりするほど少ない。

 思うにこれは、個々の爺さんやおっさんたちの責任に帰するべき問題ではない。
 われわれが暮らしているこの日本の社会に、あらまほしき爺さんのロールモデルが用意されていないからこんなに悲惨な事態がもたらされているのだと、そういうふうに考えるべきだ。

 別の言い方をすれば、この問題は、
「どうして日本のおっさんはダメなのか」
 という問いとしてではなく、
「どうして日本の社会は男をダメにしてしまうのか」
 という問題として考えた方が建設的だということだ。

 より的を絞った言い方をするなら、
「日本の職業社会は、どうしてその成員を単能の部品として仕上げずにはおかないのか」
 という話にしても良い。

 実際、同年輩の男たちを遠くから眺めていてつくづく思うのは、若い頃はそれなりに面白かった連中が、トシを取るにつれて、順次つまらないおっさんに着地していることだ。

 単に、役職に馴れて横柄になったとか、偉くなって気難しくなっているというだけのお話ではない。

 50歳を過ぎた男のうちのおよそ半分は、自分の職場以外の世界を想像することさえしない、おそろしく視野の狭い人間になり果ててしまう。

「お前がさっきからしゃべってる話って、同じ業界の人間には面白いのかもしれないけど、オレには全然意味がわかんないんだけど」

 と口をはさみたくなる話を、私はこの10年でいくつ聞いたことだろう。
 とはいえ

「せめて業界外の人間に分かるように話せよ」

 と、アドバイスしたところで、おそらく、彼にはもはやそうする能力は残っていない。なぜなら、業界を外部の影響から守り、外部との通路を閉ざすことが、彼の主たる人生だったからだ。

 残酷なことを書いてしまった。
 今回ここに書いたことは、「個人の感想」に過ぎない。
 つまらないおっさんにならずにいる男が、たくさんいることもよくわかっている。
 だから、できれば、腹を立てないでもらいたい。

 私の知る限り、救いようのないおっさんの一番の特徴は、「他人の話を聞かない」ところにある。
 とすれば、ここまで読んだ読者は、少なくともダメなおっさんではない。
 めでたしめでたし。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

そういえば、私も入院している間は
思いの外楽しかったなあ…。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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