(前編から読む

ゴジラとは一体?

 色んなものでありうる。日本人の「無意識の器」みたいな存在だといってよい。でも、今回はこれに加えて、これまでにない新しい意味をもつようになった。なんだと思いますか?

わかりません……

<b>加藤典洋(かとう・のりひろ)</b><br />文芸評論家、早稲田大学名誉教授。1948年山形県生まれ。東京大学文学部卒。『<a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4000260030/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=ll1&tag=nbbessatsu-22&linkId=e62c59fe6b183a2bfdb98cfb7a45a5b3"  target="_blank">言語表現法講義</a>』や『<a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480096825/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=ll1&tag=nbbessatsu-22&linkId=ce75a46a553e68b4669b5eadc9e05900"  target="_blank">敗戦後論</a>』などで数々の文学賞を受賞。村上春樹など文学作品の分析から、戦後日本の思想・文学史まで幅広く専門とする。近著に『<a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4000245295/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=ll1&tag=nbbessatsu-22&linkId=36b08b479ba84fa864fcc315ec705ba1"  target="_blank">日の沈む国から――政治・社会論集</a>』(岩波書店)。
加藤典洋(かとう・のりひろ)
文芸評論家、早稲田大学名誉教授。1948年山形県生まれ。東京大学文学部卒。『言語表現法講義』や『敗戦後論』などで数々の文学賞を受賞。村上春樹など文学作品の分析から、戦後日本の思想・文学史まで幅広く専門とする。近著に『日の沈む国から――政治・社会論集』(岩波書店)。

 この映画に、宮沢賢治の詩集『春と修羅』が出てきますね。「いかりのにがさまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾(つばき)し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」という詩句で有名です。『ボヴァリー夫人』を書いたフローベールという小説家が、「ボヴァリー夫人は私だ」といっているのですが、それと同じで、ゴジラは、その「修羅」でもある。つまり、作者の庵野(秀明総監督)ですね。彼は、あの映画で、「ゴジラは私だ」と言っている(笑)。

えっ。

 『シン・ゴジラ』には、ほぼ悲惨な姿の死体、負傷者が出てきません。1度だけ瓦礫の下に埋もれた犠牲者が見えたという話がありますが、それも、血は流れず、身体の一部が見えるだけのようです。これは災害時の日本のテレビ・新聞報道を正確になぞった表現ですね。明らかに意図的な演出でしょう。ではこれはなぜか。死者たちと負傷者たちはどこにいったのか。日本の主要メディア・エンターテインメント界の表現は、いまや自主規制の極致にあり、見えない文化的コードの制圧下にある。私はこれをひそかに「電通文化」と呼んでいますが、庵野さんはその強い文化的隷属のなかで魂を削ってきた表現者です。

死体は出てこない。血も流れない

どういうことですか?

 死体はいっさい出てこない。血もどこにも流れない。汚濁、見たくないものは全部、視界から隠され、抑圧されている。その抑圧されたものが全部、ゴジラに集約されている。そしてそのゴジラが、すべての画面に現れないものの体現者として、大量の血を流し、苦しみながら歩む。あれは野村萬斎の動きを記録してCG化したらしいですね。お金がかかっています(笑)。まさに「修羅」が「四月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆきき」しているのです。

映画には、人間の死体や負傷シーンは登場しない。そのかわりにゴジラだけが大量の血を流し、咆哮する。(&copy;2016 TOHO CO.,LTD.)
映画には、人間の死体や負傷シーンは登場しない。そのかわりにゴジラだけが大量の血を流し、咆哮する。(©2016 TOHO CO.,LTD.)

 あの映画の冒頭、ゴジラの名付け親ともいうべき牧悟郎博士という人物が登場して、まず、失踪しているのが発見されます。そしてそこに『春と修羅』の詩集が一つのメッセージとして置かれています。その牧悟郎博士の写真が一度出てきますが、これは先にあげた国難映画『日本のいちばん長い日』の1967年の旧作を作った岡本喜八監督なんですね。「私は好きにした、君らも好きにしろ」みたいな書き置きもそこに一緒に見つかる。つまり、これは「はい、そうしますよ」という庵野総監督のメッセージでもあります。

 なぜ庵野総監督がこんなことをしているのか。私はその答えが、「おれはひとりの修羅なのだ」、つまり、ゴジラ=修羅=庵野総監督という等式なんだろうと思うのです。『シン・ゴジラ』がSF怪獣・国難映画であると同時に、アンノという個人のごく私的な表現でもありうる、というのは「エヴァンゲリオン」と同じ構造ですね。そのような幅で作られているという点が、今回の映画が、オタクの時代をくぐった上で作られた新しいゴジラ映画だということの意味だろうと思うんです。

 この文化的隷属の清潔な時代、ゴジラだけがその矛盾を集約して、苦悶する。冒頭にアクアラインが崩壊するシーンがあるけれど、トンネルの天井から土砂が崩れて落ちてくる。あれ、赤かったでしょう。私の考えでは、あれはゴジラの血なんですよ。

 最後のシーンで、冷温停止したゴジラのしっぽに、断末魔の死体みたいな奇怪なオブジェが埋め込まれています。あれも「エヴァンゲリオン」のモチーフの反復だとSNSなどで言われているようだけれども、同じ意図の現れだろうと思います。いまの日本社会から見えなくされたものが、ゴジラに凝集している。そしてそのゴジラが同時に、庵野総監督の分身で、死体も血も露出させてはいけない文化的戒厳令下の日本のなかを「唾し はぎしりゆきき」しているんです。

なるほど…

現天皇も“登場”している?

 あなたが事前に送ってきたメールに「なぜ天皇が登場しないのか?」という質問がありました。でも、この見方からいえば、現天皇も『シン・ゴジラ』に登場している(笑)。

どこにですか?

 天皇には参政権も言論の自由もない。また、普段はその等身大の身体が国民の目から隠されている。ある意味、社会から排除された存在でもあります。こうした立場は、このうえなく苦しいはずですね。ところが、この苦しみを苦しみとして表現するのは天皇にとって最大のタブーです。

[画像のクリックで拡大表示]

 現天皇の8月8日の「生前退位の意向表明」は、憲法という制限のなかで現天皇が苦しみもだえることの表現でもあったわけで、まさにそのようなものとして、国民の目に焼き付けられたため、多大な同情の意見が世論調査で示されたのでしょう。そこがゴジラに通じる。ですから、今回のゴジラ映画になぜ天皇が登場しないのか? と聞かれましたが、答えは、いるでしょう、となる。どこに? と聞かれたら、答えますが、その場合、あのゴジラが、現天皇なんです。

シン・ゴジラでは日米関係の描きかたも印象に残りました。

 面白かったのは、米国が石原さとみ演じる若い女性、日本が長谷川博己演じる背の高い男性としての表象で描かれたことですね。これまでの紋切り型では、天皇とマッカーサー元帥の会見写真に見るように、米国が大、日本が小が基本形で、米国がりりしい男性、日本がおだやかな女性だったわけです。あと、一対の男女が登場するが、恋愛はない。そこも第1作と違うところですね。第1作には主人公たちの恋愛の三角関係もからみますから。今回はそういう点、はっきりと従来とは一線を画した点が新しかったと思います。

日米関係が米国が石原さとみ演じる若い女性、日本が長谷川博己演じる背の高い男性としての表象で描かれた(&copy;2016 TOHO CO.,LTD.)
日米関係が米国が石原さとみ演じる若い女性、日本が長谷川博己演じる背の高い男性としての表象で描かれた(©2016 TOHO CO.,LTD.)

ただし「日本は米国の属国」というセリフは現実に沿ったもので、そこまでの新しいモノの見方ではなかったように思います。

 そこはその通りなんですよね。従来とはちょっと違った風に描きました、でもだからどうなの、と聞かれると、その先の答えは出てこない。今回の作品で、現在の従属関係のマイナス面に立ち入った新たな日米関係を提言したり、新しい視点での問題提起ができているかというと、そこまでは踏み込んでいない。そちらは庵野さんも、お利口さんというか、醒めています。

 ただ、こういう視点を何百万人が鑑賞するエンターテインメント作品のなかでエンターテインメントとして「面白がられる」形で提示したところに挑戦があると思います。たしかに「日本は米国の属国である」という見方は、政治経済をちょっとでもかじっている人なら常識で、新味はないかもしれない。けれども私は、現在のようなメディア的世界のなかでは、政治的なタブーは、それをエンターテインメントとして描き、それをみんなが楽しむというところまでいかないと、もう解除されないのじゃないか、と思っているのです。だから、今回のこの政治的イシューのエンターテインメント化は評価したい。

今回、どうすれば新たな視点での問題提起や、提言ができたと思いますか。

 私が監督だったら、庵野さんほど「電通文化」に従順ではないので、ゴジラをまずペリーと同じ浦賀から上陸させ、そのまま横須賀の米軍基地に行かせるでしょうね。そして、その後、そのまま北上させます。すると政府部内で、声が起こります。まさか、と。……あの先には昭和天皇の武蔵野陵があるゾ、どうするんだ。しかし、ゴジラは武蔵野陵にではなく、米軍の横田基地を襲う。そこから一転、向きを変え、甲州街道沿いに都心に向かう。すると、背景に、富士山が浮かびます。これは1964年の東京五輪時のマラソンコースでもある(笑)。

 日本への攻撃を米軍が守ってくれる、というのがいまの日米安保条約の枠組みです。これが、米軍基地があるために他国が日本に攻め込んでくる、みたいな事態になったら、新たな問題が生じる。まあ現実的ではないけれど、これくらいには刺激的なエンターテインメントであってほしい。面白い政治映画、国難・怪獣映画ができるでしょう。

なるほど。続編に期待ですね。

 続編では、やっぱり東京駅前で冷温停止したゴジラが、また動き始める。そこからはじまるとして、その後、どこに向かうか、が問題になるでしょうね。映画の最後で、またゴジラが動き始めたときには、1日とか、そんな短い時間を過ぎると、多国籍軍が作戦に移るというようなことを言っていたでしょう? あとどのくらいだったかな。さして余裕はなかったはず。それで何ができるのか。その時間内に、東京駅から出発するとなると、サスペンスフル(?)な行き先は、米軍基地か、福島第一原発の原子炉くらいしかない。

北野武の描く「ゴジラ」も見てみたい

監督はやはり庵野さん?

 次は、北野武を提案したいですね。

なぜですか?

 庵野とは逆の文法を持っているからです。

どういうことですか?

 さきほど、庵野は抑圧のなかで人間の死や苦しみを最大限に表現してみせた、って言いましたよね。北野のやくざ映画は逆に「そんな抑圧なんて無視してしまえ」という手法です。『アウトレイジ』なんて目も当てられないような暴力シーンが沢山出てくる。北野の手法をゴジラの文脈にあてはめてみたらどうなるだろう。そんな興味が湧きます。

続編といえば、さきほど「第1作のゴジラは戦争体験者たちの記憶が枯渇していくなかでエネルギー源を失い、ゴジラも無害化されていった」というお話がありました。

 はい。

東日本大震災や原発事故も、発生から5年で日本人の記憶から薄れていっているように思えるのです。たとえば震災発生直後のような節電運動なんて見る影もありません。第1作と同じように、次作以降のゴジラもやはり衰退の道を歩むことになるのでしょうか。

 そんなことはないと思いますよ。戦争の記憶は、焼かれた街並みが復興を果たし、かつての戦争体験者が亡くなっていけば薄れてくる。これに対し、事故を起こした原発は、燃料棒を冷やし続けなきゃいけないわけですからね。何一つ終わっていません。いわば「記憶の半減期」がハンパじゃないうえ、廃炉にも何十年とかかります。

三菱地所が計画する「常盤橋街区再開発プロジェクト」のB棟(写真中央)。日本で最も高い390メートルになる見通し。シン・ゴジラにも登場したが、竣工は2027年度のはず
三菱地所が計画する「常盤橋街区再開発プロジェクト」のB棟(写真中央)。日本で最も高い390メートルになる見通し。シン・ゴジラにも登場したが、竣工は2027年度のはず

なるほど。最後にひとつだけ。最後の東京駅のシーン、今日の東京にはないビルが登場しているんです。(パンフレットを見せる)

 あ、面白い。本当だ。

これ、三菱地所が2027年度の完成をめざしている「常盤橋街区再開発プロジェクト」のB棟なんです。確か日本一の高さのビルになるとかで、存在感があるので気づいたのですが…

 なるほど。これは制作者が意図したことでしょうね。時間軸をちぐはぐにして、攪乱している。つまりこのゴジラの世界は「どこにもない時代」の話なんですよ、ということです。冒頭で指摘したこの映画の「浮遊性」が、このことでなおいっそう際立ちますね。

まだまだ気づいていないことが沢山ありそうです。

 そうですね。登場人物の名前にも、監督の奥さんのマンガ家である安野モヨコさんのマンガや『白い巨塔』から引用しているなど、さまざまなしかけがあるらしいし。もう一度、映画館に行かなくてはいけないかな?

読者の皆様へ:あなたの「読み」を教えてください

 映画「シン・ゴジラ」を、もうご覧になりましたか?

 その怒涛のような情報量に圧倒された方も多いのではないでしょうか。ゴジラが襲う場所。掛けられている絵画。迎え撃つ自衛隊の兵器。破壊されたビル。机に置かれた詩集。使われているパソコンの機種…。装置として作中に散りばめられた無数の情報の断片は、その背景や因果について十分な説明がないまま鑑賞者の解釈に委ねられ「開かれて」います。だからこそこの映画は、鑑賞者を「シン・ゴジラについて何かを語りたい」という気にさせるのでしょう。

 その挑発的な情報の怒涛をどう「読む」か――。日経ビジネスオンラインでは、人気連載陣のほか、財界、政界、学術界、文芸界など各界のキーマンの「読み」をお届けするキャンペーン「「シン・ゴジラ」、私はこう読む」を開始しました。

 このキャンペーンに、あなたも参加しませんか。記事にコメントを投稿いただくか、ツイッターでハッシュタグ「#シン・ゴジラ」を付けて@nikkeibusinessにメンションください。あなたの「読み」を教えていただくのでも、こんな取材をしてほしいというリクエストでも、公開された記事への質問やご意見でも構いません。お寄せいただいたツイートは、まとめて記事化させていただく可能性があります。

 119分間にぎっしり織り込まれた糸を、読者のみなさんと解きほぐしていけることを楽しみにしています。

(日経ビジネスオンライン編集長 池田 信太朗)

まずは会員登録(無料)

登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。

こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。

春割実施中