昨年の12月、広告大手の電通に勤務していた女性新入社員(当時24歳)が自殺した。で、この10月7日に、自殺の原因が長時間の過重労働であったとして労災が認められた旨を、遺族と代理人弁護士が記者会見して明らかにした。

 いたましい事件だ。

 私は、自殺のニュースを好まない。特に若い人の自死を伝える報道は、近い年齢の同じように希死念慮を抱いている人々に、大きなヒントとダメージを与える。だから、なるべくなら蒸し返さないのが妥当だと思っている。WHO(世界保健機関)による自殺報道のガイドラインを守ったのだとしても、自殺を扱う文章は、どうしても感情に流れた作文になる。それは、人様に読んでいただく文章として好ましくない。

 といって、感情を排した書き方をすれば良いのかというと、そういうことでもない。自裁した人間について、感情を含まない書き方で言及する文章は、必要以上に残酷な感じを与える。それ以前に、悪趣味でもある。

 とすれば、本来、自殺には触れずにおくのがベターなのだ。

 今回、あえてこの話題をテーマに選んだのは、自殺した女性社員が書き残したツイッターを読んで、色々と感じるところがあったからだ。

 彼女の残したツイートは、「過労死」「電通」「東大卒」「女性」というキーワードから、私が当初抱いていた予断とはかなり違った読後感を残すものだった。

 こういう言い方をするのも奇妙かつ不謹慎だとは思う。だが、彼女のツイートは、いちいちビビッドで面白かった。ユーモアと軽みさえ感じられたと言っても良い。

 その彼女のツイッターは、既に非公開にされている。
 多くの人に彼女の才筆を知ってほしかった気もするのだが、読めば読んだで良くない影響が広がらないとも限らない。そう思えば、アカウントの非公開化は妥当な判断だったのだろう。

 一般論として、自ら死を選ぶに至るほどに追い詰められた人間は、ユーモアを失っているはずだ。逆に言えば、自分の置かれた状況を客観視する余裕をなくしているからこそ、人は自死を選ぶということでもある。

 ところが、高橋まつりさんというその24歳の女性は、最終的に投身自殺を遂げてしまう日の直前まで、自らが従事している勤務の異常さをネタに、洒脱といってよい短文を発信する客観性を失っていなかった。

 もうひとつ、私が気になっているのは、彼女が死の直前まで携わっていた時間外労働の数字(1カ月あたり105時間)への世間の反応の異様さだ。

 有名なところでは、武蔵野大学グローバルビジネス学科で教鞭をとる長谷川秀夫教授が、10月7日の夜、「過労死等防止対策白書」を政府が発表したという毎日新聞の報道を受けて、ニューズピックスに投稿して「月当たりの残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂させるという強い意識があれば、残業時間など関係ない」などとコメントしている(報道記事はこちら)。

 念のために申し添えれば、このコメントは、高橋まつりさんの自殺に直接言及したものではなく、過労死一般について述べたものだ。長谷川教授は発言を削除し、謝罪コメントを掲載した。それでも十分にひどい発言であることは確かだが。

 過労死をプロ意識を欠いた勤労者を淘汰するための必然的な一過程と見なしているかの如きこの発言は、「グローバルビジネス」を講ずる教育者の言葉としてあまりにも国際常識からかけはなれている。それ以上に、まっとうな人間としての当たり前な同情心を欠いている。

 とはいえ、この長谷川教授の発言が、21世紀の日本の職場常識とまったく相容れない異常な見解なのかというと、実は、そうでもない。ネット上に大量に書き込まれている有名無名な人々の硬軟取り混ぜた感想コメントをひと通り眺めわたしてみればわかることだが、長谷川教授が残した一連の言葉は、わが国のある層のビジネスマンの内心を代弁する典型的な見解のひとつだったりする。

「つまりこの5年ほど毎月100時間以上残業しながら生き残ってるオレは鈍いってことか?」
「ってか、100時間なんてまだまだ余裕だろ」
「でもまあ、申告した残業時間が105時間ってことで、実際は150とか180ぐらい行ってたのかもしれないからなあ」
「それでも、個人的に、200時間まではやれると思ってる」
「100時間超えると靴下のクサさに頓着できなくなるけどな」
「うん。過労死のバロメーターとしては、残業の時間数なんかより、足のクサさの方が重要だと思う」
「でも、150時間超えると鼻がバカになるからなあ」
「だったら、職場に一人、社員の足を嗅いで歩くための要員を置くとくべきかもしれないぞ」
「真っ先にそいつが死ぬぞ」
「カッコいいじゃないか、坑道のカナリヤみたいで」

 てな調子で、若い時代に経験した残業地獄の日々を武勇伝みたいに語る人々は、どうかすると、働き詰めに働いたそれらの日々を懐かしんでいるように見える。

 実際、どんなに苦しかった体験でも、過ぎ去った(あるいは克服した)時点から振り返って見れば、懐かしい思い出になっているというのはよくある話で、私たちは、ひたすらに無意味で苦しかった艱難辛苦の日々を「自分を成長させた試練」としてカウントする偽りの記憶生成過程を経て、自らを癒すものなのかもしれない。

 してみると、高橋まつりさんが、最後まで自己の置かれた状況を相対化するユーモアを失わなかったことは、かえって彼女自身を追い詰める結果をもたらしていた可能性がある。

 というのも、ある限度を超えた過重労働に適応するためのコツは、その過重労働を相対化して客観視することではなくて、むしろ過重労働を常態化させている職場の空気に同調して、個人としての固有の心情や独自の見解を滅却する過程の中にこそ存在するもので、一動作ごとに「我に返って」自分を見つめ直しているような人間は、それこそ、摩滅しつつある自我と、それを見つめる客観の二つの極に引き裂かれてしまうに違いないからだ。

 私が直接に話を聞いている分も含めて、いま現在も、苛酷な長時間労働に従事しているビジネスマンはたくさんいる。

 行き来のある出版社や放送局の若手の中にも、週のうちの何日かを会社に宿泊するスケジュールで働いている人々が珍しくない。といって、その彼らの全員が、疲弊し切っているわけでもない。

「いやあ、ボクなんか、6時に帰れって言われたらむしろ途方に暮れますよ」

 と笑っている組の人々の方がむしろ多い。
 この違いはどこから来るのだろうか。

 私自身、20代の最後の頃、まるまるひと夏を事務所で過ごすみたいな激務に身を投じた経験を持っているのだが、実のところ、その時の細かい出来事は、ろくに覚えていない。記憶が残らないほど睡眠不足だったということなのか、それほど疲れていたということなのか、いずれにせよ、私は当面の苦しさを意識しないほどあからさまに過剰適応していたのだと思う。

 この間の事情は、カルト教団への入信の過程に似ている。

 ずっと昔に読んだ『カルトの子―心を盗まれた家族』(米本和広著 文藝春秋社)という本には、子供時代をカルト信者の二世として過ごした人々の証言がいくつも収録されているのだが、その彼らの語る教団内での暮らしは、過重労働を強いられている労働者がその試練への適応過程として身につける思考停止の様相と区別がつかないほど良く似ている。

 オウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会という代表的な4つのカルトの中で育った子供たちへのインタビューを通じて、強要された教義の中で信者が自発的な思考力を喪失していく過程を明らかにした本書は、発刊年が古いため、現在では入手しにくくなってしまっているが、とても良い本なので、図書館などで見つけたらぜひ読んでみてほしい。

 最近の書籍では、文春新書から出ているその名も『マインド・コントロール(増補改訂版)』(岡田尊司著)という本がこの分野の好著だ。本書によれば、マインドコントロールの過程は、

第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする
第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う
第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する
第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる
第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける

 の5つの段階に分類できる。

 この原理は、カルト宗教が信者を教化する過程そのものなのだが、わが国のブラック企業と呼ばれる会社が従業員を一人前の人材に仕立て上げる際に援用しているノウハウとしても十分に通用する。

 カルト宗教は、信者を外部の世界から遮断し、物理的にも感情的にも、教団外の人間や外の社会の情報と隔絶することを、とりわけ重視している。そうしないと、洗脳が解けてしまうからだ。

 実際、カルト教団の中でつらい目に遭っていたり、教義に疑問を持ち始めている信者がいたのだとしても、その信者が、教団の外に家族や友だちを持っていないケースでは、脱会しようにも、その方法さえ知ることができない。だから、何年も教団内で暮らしている外部と隔絶された信者は、そもそも脱会という選択肢を思い浮かべることができなくなる。

 これは、カルト宗教の信者をブラック企業の社員に置き換えても、そんなにかけ離れた話ではない。

 新入社員だった高橋まつりさんは、入社年次の浅い社員が多くの場合そうであるように、会社の外にたくさんの友だちを持っていた。退社後にやりたいこともあった。だから、休日をオフィスとは違う場所で過ごすことを切実に願っていた。

 この状態は、信者でいえば、まだ信仰が固まっていない段階に相当する。
 だからこそ彼女は、何年も同じオフィスで過ごしている先輩社員たちのように、平気な顔で残業をこなすことができなかった。

 つまり、去年まで大学生だった新卒の女性社員が、はじめのタスクに緊張しながら、無意味なノルマや、不必要な会議や、待ち時間だけの滞在時間や、社内の上下関係から要請される明確な業務を伴わない帰宅遅延のいちいちに疑問を抱きながら過ごす残業100時間と、オフィス内に自分用のくつろぎスペースを確保し、忙しい時間の中で息を抜く方法にも精通し、一方、社外の友人とはすっかり疎遠になり、休日に出かけたい場所も会いたい人間も思い浮かばなくなっているベテラン社員が、適当に緩急をつけながら柳に風で受け流している残業100時間は、まるで意味の違う時間だということだ。

 会社の水に慣れて、社外の人間との縁が切れて、洗脳が進んで、机に突っ伏して眠ることで疲れの取れる体質を身に着けてしまった後であれば、残業100時間程度の任務は、多くの中年サラリーマンが言うように、楽勝でこなせるようになるのかもしれない。

 カルト教団は、外部の人間から見れば、地獄にしか見えない。が、教団の外の世界を知らない信者は、自分たちの教団を天国だと思い込んでいる。教団の外部にいる私たちは、信者を、心を麻痺させたかわいそうな人たちだと見なしている。が、教団の内部にいる信者たちはと言えば、教団の外で暮らす私たちを、本当の信仰を知らない哀れな人間だと思っている。

 高橋まつりさんは、もしかしたらあの環境に適応できたのかもしれない。

 とはいえ、彼女が通過儀礼としての新入社員の試練を突破して、超絶残業ダイヤで終夜運行する電通トレインに適応していたかもしれない近未来を、私は手放しで祝福する気持ちにはなれない。無論、死んでしまうよりはマシだが、自宅に帰れず罵倒を受け続ける生活に適応することが、若い女性の幸福な暮らしに寄与するようには、どうにも思えないからだ。

 彼女は逃げるべきだったと思う。
 自殺は論外として、退職、せめて無断欠勤ぐらいは試してみても良かったはずだ。

 おっさんたちの中には、自宅で過ごす時間より、会社にいる時の方がくつろげるカタチで完成されている哀れな人間が数多く含まれている。

 彼らは、仕事が終わっても会社に残りたがる。

 会社から外に出たら出たで、帰宅途中のスナックの止まり木にしがみついてでも帰宅を遅らせようと頑張っている。

 そういうおっさんたちを、一概に責めることはできない。
 彼らは、自分自身から追放された会社教の信者で、その意味では、時代精神の申し子であり、タイムカードの犠牲者だからだ。

 ともあれ、そういうおっさんを大量生産してしまったこの国の社会は、なんとしても、改められなければならない。

 私自身は、新卒で入社した会社で課されたいまにして思えばたいしてキツくもなかったノルマをいきなり投げ出してしまった人間なので、あまり大きなことは言えない。

 ただ、個人的な結論として、自分用の感想を述べるなら、逃げて良かったと思っている。
 逃げた先に人生が無いと思うのは間違いだ。
 逃げようが逃げまいが、どっちにしても、生きている限り未来はやってくる。
 その未来から見れば、現在など、過去にすぎない。
 まあ、当たり前だが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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それでも逃げてくれたら、と思わずにいられません。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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