透析患者を罵倒する文言を掲載したブログ記事で注目を集めていた元民放キー局のフリーアナウンサーが、自らの発したメッセージへの反響に追い立てられる形で、現在、どんな境涯を迎えているのかについて、読者諸兄は、いまさら私が説明するまでもなく、既に、大方の事情をご存知だと思う。

 炎上開始当初、強気一点張りで批判に反駁していたフリーアナウンサー氏が、レギュラー番組降板の通告以降、一転して反省らしい言葉を口にしはじめたなりゆきや、その彼の謝罪芝居が、ほとんど効果を発揮することなく、結果、「レギュラー週8本を舐めるなよ」と息巻いていた彼自身が、テレビ画面への出演機会をすべて喪失するに至っている経緯も、すでに万人周知の事実と言って良い。

 その意味からすれば、長谷川豊氏をめぐるこのたびの一連の因縁話は、わざわざ連載コラムの話題として取り上げるには値しない、ページ汚しのトピックなのかもしれない。

 つまり、わざわざ書くまでもない、と。
 でも、せっかくだから書くことにする。
 読者のためにではない。
 今回は私自身のために書く。

 もう少し詳しく言えば、今回、私は、自分の感情をなだめるために、書きかけの原稿を仕上げる必要があると判断したということだ。

 先週は、入院が延長されたということで、当欄の配信を休ませてもらった。

 が、正直なところを申し上げるに、私は、はじめから執筆に取り掛かる気持ちを持っていなかったのではない。

 実際には、書き始めたものの、完成させる気力を持ちこたえることができずに、結果として、途中で断念した形だ。

 18日間の入院期間中を通じて、私は、長谷川豊氏の言動を継続的にチェックしていた。

 理由は、腹を立てていたからだ。
 私が、衰えた気力と体力のかなりの部分を費やして、この話題を追っていたのは、私が、長谷川豊氏のものの言い方や考え方のいちいちに強く反発していたからだ。

 で、先週の当欄で、この話題を取り上げる気持ちを持っていた。
 直前まで、そのつもりで準備をしていた。
 が、結果として、果たせなかった。

 途中で執筆を断念したのは、書き進めていたテキストが、あまりにも理屈っぽくて、自分ながら読んでいて辟易したからだ。

 感情的な書き手は、往々にして論理に頼った書き方をする。
 逆に言えば、過度に論理がオモテに立った文章を書く人間は、実は感情的になっているケースが多いわけで、私はまさに、腹を立てて屁理屈を振り回していた。

 で、感情の暴発に閉口して、執筆を断念した次第だ。

 先週、私は、入院中の身で、帯状疱疹を発症した。
 で、退院予定を1週間延長して、治療に専念していた。
 治療は、具体的には抗ウィルス剤の集中投与で、午前6時、午後1時、午後8時の一日に3回の点滴治療だった。

 先週の月曜日から今週の月曜日にかけての8日間に、総計で24回の点滴を受け続けていた計算になる。

 左腕には、点滴用の留置針が挿しっ放しになっていた。
 寝ても覚めても、カラダの中に針があるというのは、なかなかヘビーな体験だ。

 長谷川豊氏流の考え方からすれば、こういう治療を受ける事態に立ち至っていること自体、「自業自得」の範囲のお話ということになる。

 彼の言い方を借りると、

「はっきり言って大半の患者は自業自得」
「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?」
「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」

 てなことになる。
 なるほど。
 承りました。

 私が、入院中というタイミングで帯状疱疹を発症したのは、素人考えで類推すればだが、手術のダメージと全身麻酔の影響による免疫機能の低下と無縁ではない。
 ということは、これは、自業自得だ。

 入院したことも、手術を受けたことも、全身麻酔も、免疫が低下していることも、すべては、さかのぼれば、足を折ったことに起因している。そして、その骨折の責任は、自らの年齢を省みることなく好き好んで雨の日の坂道をすっ飛ばして走った私のものの考え方の無謀さと生き方の浮薄さに求めなければならない。ということはつまり、私が年を取ったことも、疲れていることも、病んでいることも、すべては自己責任ということになる。

 念のために申し上げるが、この数行で書いたことは、私自身が実際に考えている内容ではない。「長谷川流の考え方からすればそうなる」ということを書き起こしてみたまでの話だ。

 どうして私がこういうイヤミったらしい書き方をしているのかというと、その長谷川流の考え方に、腹を立てているからだ。

 私が、長谷川豊氏のブログを読んでいて、そこはかとなくいやな気持になるのは、彼の「用語のチョイス」が過激だからではない。

 「無理だと泣くならそのまま殺せ」という表現が言い過ぎなのは、多くの人が指摘している通りだし、ご本人が認めているところでもある。

 が、問題は、そこではない。
 その証拠に

「自己負担が無理だと泣く透析患者の皆さんには、ぜひ人生からの速やかな退場をご提案いたします」

 と、表現をやわらげてみたところで、主張の無慈悲さは一向に減じない。
 上品な言い方で言った方が、むしろ、効果的かもしれない。

 長谷川豊氏が、上品な書き方をしないのは、彼が上品な文体を運営する能力と技巧を身につけていないからだ。そして、このこと自体は、たいした問題ではない。

 問題は、彼の考え方そのものの中にある。
どういうことなのかというと、書き方が悪いのではなくて、書いている内容が致命的に陋劣なところが彼の文章の唯一の問題点だということで、これは、添削では改善することができない。

「病弱な皆さんが選ぶべき道は、病弱という現状に甘んじる生き方ではなくて、病弱の行き着く先にある静かな境地への勇気ある出発です」

 ぐらいな言い方をすれば、たしかに、炎上はしにくくなるだろうが、病人に対して「死ね」と言っている事実は変わらない。
 こんな表面的な推敲で文章がマトモになってたまるものかというのだ。

 長谷川豊氏の文章の欠点は、言葉の選び方にではなく、彼自身のものの考え方の根本に宿っているところのものだ。であるから、誰がどんなふうに推敲してみたところで、決してマトモな文章に改めることはできない。腐ったケーキはトッピングのフルーツを替えても腐ったままだし、包装を改めても切り方を変えても食べられるブツにはならない。あたりまえだ。

 もうひとつ、私がいやな気持になるのは、その長谷川豊流の考え方を支持する人々が、どうやら少数派ではないことだ。

 もしかしたら、長谷川氏のような考え方を採用している日本人は、すでにマジョリティーなのかもしれない。

 彼らは、長谷川豊氏の失敗を言葉のチョイスの問題だと、本気でそう考えている。そして、彼の主張そのものは、多少乱暴ではあるものの、まごうかたなき「正論」だと思っていたりする。

「ハセガワのアレも言ってることそのものは正しいんだけど、言い方がいくらなんでもアレだったわな」
「だよな。実際、透析患者やら末期がん患者やら植物人間のジジイやらを全部保険で面倒見てたら国の財政が破綻しないはずないわけだし」
「まあ、死ねだの殺せだのっていう言い方はあり得ないにしても、なるべく長生きしないでくださいねぐらいな控えめなお願いは申し出てもバチは当たらないよな」

 と、彼らは、大筋のところで、長谷川豊氏の言う「本気論」「本音論」を、肯定している。

 というよりも、自身のブログに「本気論 本音論」というタイトルを冠しているところにこそ長谷川豊氏の思想は端的に表現されているのであって、彼は、自分以外の言葉を「本気」にしていないのである。

 彼らの前提では、世界には、「残酷ではあるが真実を突いている」「リアリズムに基づいた」「勇気ある直言」であるところの「本気」の「耳に痛い真実」の言葉と、それに対抗する「甘っちょろい」「お花畑の」「お涙頂戴」の「プロ市民くさい」「反権力クール」の「いい子ぶった」「偽善者オリエンテッドな」「建前論」が並立している。で、自分たちのような「本音ベース」の「直言者」たちは、「なんリベ」や「おサヨクさま」に指弾されても、「身も蓋もない事実」を恐れずに提示して行くことで、この世界を科学的で実証的で感情に流されない真実の世界に少しでも近づけなければならない、と、おおよそそれぐらいに彼らは考えている。

 彼らは、障害者や老人や透析患者を「カネばかりかかって、社会の役に立たないお荷物」と言ってのけることで、ある種の社会正義を代表しているつもりでいる。

 というのも、彼ら本音主義者たちは、市場主義と競争原理と弱肉強食の自然淘汰こそが、真に世界を動かしているリアルな動作原理なのであって、その世界を円滑に機能させるためには、効率を正義とする鉄血のリアリズムを貫徹しなければならないと信じている。

 それゆえ、彼らは、本来は経済の理論であり商品を扱うための原理である市場原理や競争原理を、人間の生命にそのまま適用してしまう。

 と、古くなった部品を廃棄し、壊れた歯車を捨てるみたいにして、年老いた人間や障害を持った人間を排除する思想が誕生する。

 そういう彼らにとってみれば、弱い者に手を差し伸べたり、病める者を癒やすために時間と費用を費やすことは、世界の効率を妨げ、淘汰原理を裏切る重大な違反ということになる。

 ブログの書き込みに批判が集まった当初、長谷川豊氏は、

「私が批判しているのは、自堕落な生活をして自ら病気になっている一部の透析患者であって、その彼らを批判した私の意見が、やむを得ない事情で透析を受けている人々への中傷と受け止められているのだとしたら、それは本意ではない」

 という感じの弁解をしていた。

 この弁解自体、どうかしていると言えばどうかしているのだが、一応、彼の訴えるところの主旨を飲み込んであげるとして、それでは、いったいどこまでが「自業自得の透析患者」で、どこから先が「やむを得ない透析患者なのか」という問題が発生するということは、どうしても指摘せねばならない。

 いったい、その区別を誰が判断するというのだ?
 その問題を解決したのだとして、その問題とは別に、

「暴飲暴食をしたわけでもなければ、自堕落な生活をしたわけでもなく、カラダに無理をかけることなく健康に気を配った生活に終始していたにもかかわらず、人工透析を受けなければ生きていけないカラダになってしまったやむを得ない事情の透析患者」

 は、要するに

「生まれつき弱い遺伝子を持って生まれてきた弱者だろ?」

 ということにはならないのだろうか。

 実は、ナチスドイツの時代に真っ先に「生きるに値しない生命」として、「安楽死計画」の標的になったのは、その種の、「本人はまったく健康を害する生活をしていないにもかかわらず、先天的な体質として、あらかじめ障害や病気を持って生まれてしまった」人々であった。

 優生学の思想からすると、劣悪な遺伝子は、この世界に存在する価値を持たないのである。

 まあ、長谷川豊氏は、その種の先天的な病を持つ人々に対して「殺せ」という言葉を使う人間では無いのだろう。
 そこはわかってあげることにしよう。

 とはいえ、「自分で自分のカラダに無理をかけて自分の健康を損なう結果になってしまった自業自得の病人」は、果たして、好んで病に陥った人々なのであろうか。

 彼らは、無思慮な暴飲暴食や身勝手な快楽の追求に溺れた結果として、糖尿病を獲得したのであろうか。

 私は、この点に疑問を持たざるを得ない。
 暴飲暴食と過労がもとで病院にやってくる人々の大半は、好き好んでそういう生き方を選んだ人々ではない。

 やむにやまれず病んでいる。
 そうとしか言いようがない。

 彼らは、徹夜続きの仕事をこなすために深夜の飲食を求め、避けることのできない業務の延長として、連日連夜の接待に従事し、そうした酒食と残業の積み重ねが彼らの健康を少しずつ蝕んで行ったはずなのだ。

 もちろん、そうではない人もいるだろう。
 長谷川氏が「ほらこういう人だよ」と指さしたくなる人もいるのかもしれない。
 だが、繰り返すが、問題はまさにそこにある。

 病人に対して、誰が、どういう責任で「あんたは生きていい、あんたは死んでいい」と指差し確認をするのか、落ち着いて考えてみるべきだ。
 個人的には、「俺に任せろ」と言い出す人とは、とても友達になれそうにない。

 つい3日ほど前まで病院で暮らしていた人間の一人として、私は、病人一般を、自業自得の結晶として分類する考え方を、簡単に受け容れる気持ちにはなれない。

 病気が本人の生き方や自覚によって生じる反応であることは、一応その通りなのだとして、より広い視野から見れば、疾患は、負傷や心の病も含めて社会的な過程を経て生産される社会的な結果でもある。

 過労が身体に良くないことや、ストレスが健康を害することは百も承知でありながら、それでも深夜の勤務から帰宅できない人々は一定数存在するし、ストレス源そのものである勤務を手放したらその日から失業してしまう環境で働いている労働者も少なくない。

 長谷川豊氏は、幸か不幸か、失職したことでもあるし、この際、自分をじっくりと見つめ直してみると良いのではなかろうか。
 いや、これは嫌味じゃなく、本気かつ本音で。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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