ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。
 びっくりだ。

 受賞の噂があることを知らなかったわけではない。
 何年か前からディラン受賞説の存在は知ってはいて、なんとなく気にかけてもいた。
 でも、本気にしていたのかというと、そんなこともなかった。

 私にとって重要だったのは、ボブ・ディランがノーベル賞に値するのかどうかではなかった。
 私の関心事は、ノーベル賞がボブ・ディランにふさわしいのかどうかだった。

 どんな賞や学位が与えられようが、あるいは与えられまいが、私にとってボブ・ディランが大好きなアイドルである事実は変わらない。むしろ、肝心なのは、ディランに賞を与えるかどうかで、私の中のノーベル賞に対する評価が変わる可能性だ。

 つまり、私は、この数回、ノーベル賞に関しては、ディラン先生に声をかける度量を持っているのかどうかを査定するぐらいな気持ちでその帰趨を眺めていたわけだ。

 このたび、彼らがディラン先生に賞を授与することにしたのは、おそらく、ノーベル賞の行き先を勘案しているアカデミーだか選考委員だかの人間たちが、自分たちが堅持してきたこれまでの選考の枠組みに、限界なり倦怠なりを感じて、選考基準を根本から改める旨を世界に向けて宣伝しようと考えた結果なのだろう。

 そう考えれば、現状は、ノーベル賞の側が、ボブ・ディラン先生に対して「貰ってもらう」旨を打診している段階と見るのが自然だ。

 「いかがでしょう、先生。受賞していただけると、こちらの顔も立つ次第なのですが」

 と、アカデミーの面々は、揉み手薄笑いの上目遣いで、自分たちの主宰する賞のポピュラリティを拡大するべく、ディランの顔色をうかがっている。

 これに対して、ディラン先生は、沈黙を守っている。
 この見立ては、文学界の人々にとって不快だろうか。

 ともあれ、ディラン先生は、なじみの無い人間に対応する時のいつもの発達障害ライクな謎対応を発動することで、アカデミーの側の頭の低さを測定しにかかっている。

 この態度を決められると、たいていの相手は、社会的動物としての限界を露呈してしまう。
 なんとなれば先生は心の窓で、その答えは常に吹きっさらしの風の中を歩む者にしか把握することができないからだ。

 こういう機会に露呈されるふんぞり返った連中の馬脚は、ディランがその作品の中で展開している辛辣な観察と見事なばかりに呼応している。別の言い方をすれば、音程の正しい歌手だけが偉大な歌手ではないのと同じように、言葉を発する人間だけが返事をしているとは限らないということを、ディランは沈黙を通して我々に語りかけているわけなのだが、この言い方は、ディランの語り口に慣れていない人にはおそろしくわかりにくい。で、とにかく、ディラン先生は、自分の中にある常識をどこまで疑ってかかれるのかの試金石として、アカデミーの前に屹立している。

 彼らがどこまで自身の無知と高慢に耐えられるのか、話が始まるのは、そこからだ。
 ディランが、素直に賞を受け取るのかどうかはまだわからない。
 もしかしたら、拒絶することになるかもしれない。
 それはそれで、素敵な選択だと思う。

 もちろん、さらりと受け取る態度もエレガントだ。
 どんなリアクションをとるのであれ、私は、ディラン先生の選択を断固として支持する。ファンとは、元来、そういうものだ。何をしたから支持するとか、何を言ったからがっかりするみたいな是々非々の態度で臨んでいるうちは、本当のファンとはいえない。そういう人間を、私は「消費者」と呼ぶ。本物のファンは、あらゆる事態を是々々々の態度で丸呑みにする。なんなら「ぜぜぜぜ」というタイトルでロックンロールをひとつ書いても良い。英訳版のタイトルは、「イッツ・オールライト・マ」ぐらい。まあ、ヒットはしないだろうが。

 共同電によれば、ディラン氏へのノーベル賞の授与を決めたスウェーデン・アカデミーは、この10月の17日、ディラン氏への直接の授賞連絡を断念した旨を明らかにしている。

 地元のラジオに出演した、同アカデミーのダニウス事務局長は、

「アカデミーは授賞を発表して以来、彼を探そうと試みたが、今は連絡を取ることをやめた」

 と話したのだそうだ(こちら)。
 なかなか味わい深い展開ではないか。
 授賞式が楽しみだ。

 思い出すのは、イチロー選手が国民栄誉賞を2度にわたって辞退した時のやりとりだ。
 1度目の受賞機会は、彼がメジャーリーグに移籍し、移籍先のマリナーズでいきなり首位打者&盗塁王&MVPに輝く活躍をした2001年だった。

 この時、イチローは

「まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」

 というコメントを発表して、賞の受け取りを拒んだ。
 先方がこう言って賞の受け取りを拒んだ以上、賞を出す側は、少なくとも相手が現役引退を発表するまでは、再授賞の沙汰を思いとどまるのが礼儀というのか、人としての常識だろう。が、2004年にイチロー選手がメジャー最多安打記録を更新した折りに、何をトチ狂ったのか、時の小泉政権は、たった3年前に受賞を拒絶したばかりの同じ人間に対して、再度おっかぶせる形で国民栄誉賞受賞を打診する挙に出た。

 どれほどおごりたかぶれば、ここまで先方の気持ちを無視したオファーを出すことができるものなのか、と、当時、他人事ながら腹を立てたのを覚えている。

「オレの申し出を断る人間などいるはずがない」

 と、はじめから相手の感情を眼中に置いていない人間の態度そのものではないか。
 受賞の内意を問われたイチロー選手は、

「さすがに二度目の受賞を今度をまたしても辞退するということになると、これはもうあからさまに政府の顔をつぶす結果になるわけだから、イチローとしてもそう簡単には拒絶できないだろう。今度という今度は、空気を読んで受けとらざるを得ないのではないか」

 という大方の観測をよそに

「今の段階で国家から表彰を受けると、モチベーションが低下する」

 というコメントを残して、再度、賞の受け取りを辞退している。
 見事な選球眼としか申し上げようがない。
 実際には、イチロー選手はボール球をヒットにする稀有な選手の一人でもあるが。

 いずれにせよ、彼は、タチの悪いボールには手を出さない。目の位置より高いタマを強打することで、フォームが狂ったら元も子も無いからだ。

 さかのぼれば、国民栄誉賞には、さらに秀逸な伝説がある。

 1983年に、盗塁の世界記録(ルー・ブロックが保持していたMLB記録)を破る通算939盗塁を記録した折り、時の首相である中曽根康弘氏から、国民栄誉賞を打診された福本豊氏が、その申し出を辞退したのだ。

 しかも、福本氏は、

「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」

 という考え得る限り最高度にアナーキーなコメント(Wikipediaによれば、全国紙では「呑み屋に行けなくなる」と報道された)を返した上で、受賞を固辞している。

 なんと見事な辞退声明であることだろう。

 ふつう、こういうコメント付きで受賞を拒絶された賞は、翌年から少なくとも10年は賞の授与を自粛するのがスジであるはずだと私は考える。

 多少ともプライドを持った組織なら、こんな言いざまで突っ返された賞を別の機会に別の人間に授与しようとは思えないはずだ。授賞を伝えられた人間にしても、先立つタイミングでこのような言葉とともに拒絶された経緯のある賞を、すんなりと受け取るのは、たいそう気の重い仕事なのではなかろうか。

 仮に、私に授賞の打診が来たら

「非国民栄誉賞ならぜひいただきたい」

 と答えると思う。
 実際、国民栄誉賞なんかを貰ったら〆切を延ばすことさえできなくなる。

 ともあれ、これらの事実からわかることは、賞がそれを授けられた人間の評価を高めるのではないとうことだ。

 むしろ受賞した人間の人格の麗しさや実績の卓越性が、賞を与えた側の鑑識眼の高さや権威を支えている。

 ノーベル賞が立派な賞だと言われるようになったのは、賞金額が大きいからでもアカデミーが立派だからでもない。これまでに受賞した各界の学者や芸術家がいずれも偉大な業績を残した人物だったことの積み重ねによるものだ。

 国民栄誉賞は、この点において、まだ実績が足りない。
 その時々の国民的英雄の人気のおこぼれにあずかろうとする政権の思惑が露骨過ぎて、見ているこっち側からすれば、賞が受賞者に追いついていない。

 ノーベル文学賞が、新たな受賞者としてボブ・ディランを選んだことは、今後のノーベル文学賞の方向性や対象ジャンルを変える結果をもたらすかもしれない。

 さらに言えば、今回のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞は、「文学」という言葉の守備範囲なり定義を、まるごと無効化させるきっかけにもなりかねない。
 それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。

 ボブ・ディラン本人にとってノーベル賞がどういう意味を持つのかも、私の立場からはなんとも言えない。

 ただ、私個人にとって、受賞はうれしい驚きだった。
 というのも、私にとっては、今回のノーベル文学賞は、自分が心の底から敬愛する人が受賞したはじめての賞だからだ。

 もちろん、過去に受賞した偉大な文学者の著作をまったく読んでいないわけではないし、その偉大な彼らの業績に私が敬意を抱いていないというのでもない。

 ただ、中学生の頃からのアイドルが受賞したことには、やはり特別の感慨があるということだ。

 この世界には、ノーベル賞を獲ったからという理由でその著者の本を買いに走るタイプのミーハーな読者がたくさんいる。
 賞は、そういう人たちのためにこそあるものだ。

 文学通は、ノーベル景気で本を買ったり、ノーベル賞煽りに乗っかって競ってノーベル賞作家の作品を読みはじめる非文学通の一般読者をバカにしている。
 が、そもそも文学というのは、ド素人が流行に乗っかって読むのが本筋で、数からしても、そうやって読まれるのが書籍の最も自然な利用のされ方だ。

 ノーベル賞を受賞するような有名な文学者の著書を、賞が授与されるまで読まずに過ごしていたことを恥辱と感じるタイプの文学通は、既にめぼしい著者の主だった著作を読んでいるはずだし、そうでない場合は、受賞そのものに疑義を呈することになっている。こういう人たちは、賞を獲ったから読むみたいな読み方はしない。他人の評価に配慮して自分の読書傾向を改めるようなことは、プライドの高い彼らには到底耐えられない仕儀だからだ。

 なので、自分の知らない著者がノーベル文学賞を受賞した場合、文学通は、受賞そのものに異論を唱える。

「オレの知らないヤツに賞を与えるとは何事だ」

 と、まるで、自分が世界文学の守護者であるかの如き態度で受賞そのものを否定しにかかる。
 今回、ディラン氏の受賞に関しても、やはり、この種の反応があった。
 残念だが、これは仕方のないことだ。

 彼らは、「文学」が自分たちの個人的な畑で生産される特別な作物で、それらを品評する自分たちの偏狭さだけが、芸術の純粋さを防衛する唯一の防衛線なのだというふうに考えている。

 彼らの言っていることは、つまるところ

「おまえたちにわかるようなものは芸術じゃない」

 ということなのだが、まあ、芸術は、ヒットチャートに乗っかってはいけないものなのだろう。

 困惑させられたのは、受賞が発表された後に出たいくつかの報道だ。

 ボブ・ディランが「本来《芸術》とは無縁な存在である《ロック》というジャンルの音楽の中に、《芸術》と呼ぶにふわさしい要素を付け加えることに成功した」と言っているように読み取れるものがあった。

 この言い方を成立させるためには

「ホメロスやサッフォー、イェイツやエリオットの詩は芸術だが、フォークやロックの歌詞は芸術ではない」

 という前提が共有されていなければならないと思うのだが。
 つまり、

「本来、フォークやロックの歌詞は芸術ではないんだけど、特別に出来の良いものについては、特例として芸術の仲間に入れてあげても良いよ」

 と、私の耳にはそういうふうに聞こえる。

「まるで刺し身みたいな食感のこんにゃくだよね」

 と言う食通が、こんにゃくの舌触りを褒めているようでいて、その実、こんにゃくが刺し身に劣る食材であることを前提に話をしているのと同じことで、「芸術」を、作品の出来不出来とは別の、ジャンルに付随する資格と考えている人が、世の中には一定数存在する。

「高級料亭で出される一品かと見紛う絶品のトッポギですね」
「君の絵はとても小学生とは思えないね。まるで大学生が描いたみたいに達者だよ」
「なんだよそのフェラーリから降り立った伊達男みたいなデカい衿は」
「すごいドリブルだねケンちゃん。まるで豊島区のメッシだ」
「おい、見てみろよ。サルバドール・ダリが描いたみたいな犬のクソだ」
 紙数が尽きた。
 ボブ・ディラン氏には、ぜひ授賞式に出席してほしい。
 そして、とびっきりに不可解なスピーチを決めてほしい。
 そうすれば、彼らも、芸術と認めてくれるかもしれないから。

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