差別の問題は、簡単ではない。

 誰かが特定の言葉を発したことをもって、ただちに差別と断定できるのかというと、必ずしもそうは言えない。

 文脈によって、あるいは、その言葉を使った人間と使われた人間の関係によって、言葉の持つ意味は、いつでも、微妙に変化するものだからだ。
 当然、差別の有無についての判断も、ケースバイケースで、その都度、個別に、その言葉が使われた特定の文脈とワンセットの事案として評価されなければならない。

 

 ここまでは良い。
 私自身、画一的な基準で強要されるいわゆる「言葉狩り」には、反発を感じることが多い。

 つい先日のアメリカの大統領選挙でも、トランプ氏を勝利させることになった要因のひとつには、前世紀以来アメリカ社会を席巻してきた「ポリティカル・コレクトネス」に対する、合衆国国民の反発があったと言われている。

 つまり、洋の東西を問わず、誰かの言葉尻をとらえてそれを大勢でよってたかって批判するみたいな風潮にうんざりしている人はそれなりにたくさんいるということだ。

 ただ、たとえば「土人」という言葉は、どの場面で、どういう人間が、どんな立場の人間に対して使ったのであれ、差別を含んでいると考えるのが普通だ。逆に言えば、「土人」は、差別的でない使い方を想定しにくい言葉だということでもある。

 まして、機動隊の人間が、沖縄で空港建設反対のために集まった市民に対して「土人」と言ったのであれば、これを「差別ではない」というふうに擁護することは、ほとんど不可能に近い。

 ところが、驚くべきことに、ほかならぬわたくしどもの政府は、その困難な仕事を貫徹しようとしている。
 つい3日ほど前、

 沖縄県の米軍施設建設現場付近で機動隊員が抗議活動をしている人に「土人」と叫んだことを鶴保庸介・沖縄北方相が「差別と断定できない」と述べたことについて、政府は鶴保氏の訂正や謝罪は不要とする答弁書を閣議決定した。(中略)

 答弁書は、土人という言葉に「未開の土着人」との軽侮の意のほか、「その土地に生まれ住む人」などの意味もあり、差別用語にあたるかどうか「一義的に述べることは困難」と説明。訂正や謝罪が不要と判断した理由として、鶴保氏が機動隊員が土人と叫んだこと自体を「許すまじきこと」とし、「沖縄県民の感情を傷つけたという事実があるならば襟を正していかなければならない」との趣旨の発言をしたことを挙げた。

(記事はこちら

 ということがあった。
 なんと、彼らはこれを閣議決定している。

 沖縄県民に向けて、機動隊員が発したとされる「土人」という言葉を、「差別と断定できない」とした鶴保大臣の言葉が「謝罪も訂正も不要」である旨を、この国の政府は、わざわざ閣議を開いて確認したうえで、内外に公式に発表したのである。

 驚天動地の答弁書だと思う。
 いったいこの国の政府の内部で、何が起こっているのだろうか。
 どんなことが起これば、こんなに奇天烈な答弁書が閣議決定されるような空気が醸成されるのだろう。
 実に興味深い。

 経緯をざっと振り返っておく。
 去る10月18日、沖縄県の東村と国頭村に広がる米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設予定地で、施設の建設に抗議するために集まっている市民に対して、機動隊員が
 「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」
 と発言したことが一斉に報じられた。なお、同じ現場では、別の機動隊員が
 「黙れ、こら、シナ人」
 と発言した。

 で、翌日には、このことを伝える記事が一斉に配信され、発言を記録した動画がネット上にアップされている。

 この発言そのものについて言うなら、私は、大筋「売り言葉に買い言葉」だったと思っている。

 当日の動画を見ると、抗議のために集まった市民の側からも機動隊に対してあれこれと罵声が浴びせられている。
 また、「土人」という言葉も、いきなり出てきたものではなくて、市民と機動隊員が接触して小競り合いをしている中で偶発的に発せられた一連のやりとりの中の一部分だ。

 これらの状況を踏まえて、私は、この言葉を発した大阪府警からやってきたという若い機動隊員を、どうしようもなく悪質な人間であると決めつけるつもりはない。彼が手に負えない差別主義者で、ただちに糾弾して懲戒免職にするべき対象だとも考えない。

 もちろん、公務に就く立場の人間が軽々しく「土人」などという言葉を発して良いはずはない。その意味で、発言自体は責められてしかるべきだし、叱責なり懲戒なりを受けるべき事柄でもある。とはいえ、本件は、本人が上から下される処分を受け容れて、真摯に反省すれば、それ以上取り立てて騒ぎ立てるような話ではない。ニュースとして扱うにしても、本来はささいな偶発事件だったはずのものだ。

 にもかかわらず、私が、この終わったはずの事件を蒸し返して、あえて原稿のネタにして騒ぎ立てている理由を、説明しておく。

 私は、「土人発言」をした機動隊員をこのうえさらに糾弾するために本稿を書き進めているのではない。機動隊員個人に関して思うところを述べるなら、私は、うかつに口走ってしまった言葉をモロなタイミングで録画されてしまった彼の不運にむしろ同情を感じている。

 たしかに、ひどい発言だったとは思う。が、それはそれとして、彼はいかにも間の悪い形で発言を録音されてしまったという意味で、被害者でもある。だから、これ以上彼に対して何かを言うつもりはない。私が騒いでいるのは、事件の事後処理があまりにも異常だと感じているからだ。

 罪を犯した部下を上司がかばったら、その罪は上司に及ぶことになる。
 当然だ。

 そうでなくても、上司には一定の責任がある。
 罪は、その指揮系統に当たる人間によって適切に裁かれ、その罰は、本人とその任命責任を負う立場の人間がかぶらなければならない。

 今回のケースでは、大臣が差別発言を擁護している。
 そして、「土人」発言を「差別とは断定できない」と言ってのけたその鶴保沖縄担当相の国会答弁を、今度はそのまた上司である政府が、「訂正や謝罪は不要」と、閣議決定して後押ししている。

 どこの国のSFだろうか。
 でなければ、これはコントなのか?

 こんなバカなことが、現実に起こっているということが、どうして、巨大なニュースにならないのだろうか。
 メディアも狂っているのだろうか。
 それほどに、この事態は狂っている。

 沖縄のデモの現場で、1人の機動隊員が不用意な差別発言をして、それが処罰されたというだけのことなら、その差別発言がいかに悪質なものであったのだとしても、しょせんは、一機動隊員の不規則発言に過ぎない。報道にかかるニュースのネタとしても、官僚機構の末端で発生した偶発的な事故ないしは失策以上のものではない。

 しかし、繰り返すが、現場の失策に対して、上の人間が対処を誤ったのであれば、その責めは、失策を犯した部署の上にある機構すべてに及ばざるを得ない。

 とすれば、今回の一連の出来事の中で強く糾弾されなければならないのは、機動隊員が差別発言をしたことそのものではない。何よりも問題にされなければならないのは、末端の人間の差別発言を正しく処罰することで、上に立つ人間としての責任を果たすことのできなかった大臣の失策であり、また、大臣の発言を叱責しないばかりか、かえって閣議決定した答弁書を通じてその暴挙を追認するに至った政府の不見識だ。

 「土人」という、当初は1人の若い機動隊員がうっかり口にした不用意な罵倒でしかなかった言葉も、「差別とは断定できない」と担当大臣が擁護し、さらにその大臣の擁護発言を、政府が謝罪・訂正の必要の無い適正な発言として肯定してしまったいまとなっては、わが国の政府が、沖縄県民に対して採用するつもりでいる公式の呼称と解釈せざるを得なくなる。

 どうしてこんなべらぼうな閣議決定が下されたのであろうか。

 冒頭で書いた通り、言葉は文脈に依存するものだ。
 そういう意味では、「土人」という言葉も、文脈次第では、差別的な意味を含まない場合があるのだろう。

 こんなわかりきった話をしているのは、今回の「土人」をめぐる議論が、通常とは逆の手順で進んでいるからだ。

 ネット上の議論や、雑誌を舞台に繰り広げられる論争でおなじみなのは、「差別」を指摘された側の人間が、「文脈」を持ち出す形のやりとりだ。たとえば、「黒人」という言葉を画一的に排除しようとする言葉狩りの勢力に対して、差別を指摘された側の書き手が

 「《黒人》という言葉が使われようによっては差別的なニュアンスを持つことは事実だし、この言葉を差別的に使う人たちがいることもその通りだが、当方は、単に音楽のジャンルを説明する時の用語として《黒人音楽》という言葉を使っているに過ぎない。私の中に差別意識が無いことはもちろんだが、私の書いた《黒人音楽》のテキストから差別を感じて傷つく読み手もいないはずだと考える。なぜなら当方が使っている《黒人》は、断じて差別的な文脈の中の言葉ではないからだ。なお、《黒人音楽》を《アフリカ系音楽》と言い換えてしまうと、もともとの用語が持っている、地域性から独立した意味合いが失われ……」

 と、「文脈」を強調することで、「差別」性を否定する論陣を張るのがこのテの差別をめぐる論争の典型例だ。

 ところが、今回の一連のやりとりでは、話の順序が逆になっている。

 「本土からやってきた上に中央政府由来の公務を帯びた人間である機動隊員が、もともと土着の人間を蔑視する言葉である《土人》という言葉を、沖縄の市民に向けて発する以上、そこに差別を感じ取らないわけにはいかない」
「琉球が経てきた歴史や基地の状況を踏まえるなら、その歴史的、地政学的な文脈から考えて、本土の人間が島の人間に対して使う《土人》という言葉は、差別以外のナニモノでもない」

 と、差別を指摘する人たちは、当初から、「文脈」を強調する言い方で、「土人」という言葉に含まれる差別の深刻さを指摘していた。政治家の中では、11月8日の国会答弁の中で、共産党の田村智子議員が「土人」「シナ人」という言葉は、人を侮蔑する言葉として使われてきた歴史があると指摘している。

 これに対し鶴保大臣は、

 「過去に、土人という言葉の経緯でありますとか、その言葉が出てきた歴史的経緯でありますとか、様々な考え方があります」「現在差別用語とされるものであったとしても、過去には流布していたものが歴史的にはたくさん事例がございます。そういう意味におきましても、土人であると言うことが差別であるというふうには、私は個人的に断定はできませんと、この事を強調しておきたいと思います」(こちら

 などと答えている。

 たしかに、「土人」という言葉が使われているからといって、ただちに「差別」とは断定できない。

 たとえば、ほんの20年ほど前までは、東京で長く暮らしている人間にとって「江戸っ子」の代わりに「東京土人」「東京原住民」ぐらいな言葉を使う爺さんに会うことは、そんなに珍しくないことだった。実際、自称として使われるこのあたりの言葉には、差別意識は含まれていなかったと考えて良い。

 しかしながら、それを言うのなら、「ニガー」にだって、差別的でない使用例はある。

 何の映画かあるいはテレビのコメディだったのかは忘れたが、新米の外国人刑事だかの登場人物が、
「やあ、ニガー、元気か?」と呼び合う黒人の真似をして、「やあ、ニガー、元気か?」と呼びかけてしまう場面を見たことがある。

 ことほどさように、言葉は、それを発する者が置かれた立場や状況次第で、またそれが使われる文脈によって、差別にもなれば親しみの表現にもなる。

 しかし、ある言葉について差別的でない形で使われ得る文脈が存在しているからといって、その言葉が差別的な文脈で使われている事例については、差別が無いと立証する材料にすることはできない。

 人を噛まない犬がいるのだとしても、そのことで現実に人を噛んだ犬が人を噛まなかったことにはならない。当たり前の話だ。

 文脈から切り離した画一的な差別批判に対して、文脈を踏まえた具体的な事例で反撃する例は珍しくない。が、文脈を踏まえた具体的な差別批判に対して文脈から切り離した抽象的な反論をぶつけるケースには、はじめてお目にかかった。

 たとえば、批判側が、

 「土人という言葉が使われている以上、文脈に関係なく、何がなんでも差別だ。だからこの世界にあるあらゆる文書から土人という言葉を削除するべきだ」

 と主張しているのであれば、

 「土人という言葉にも色々な使われ方があって、文脈次第では差別とは無縁な形で使用されているケースもある」

 という反論もあり得る。
 しかし、今回の例では

 「これこれこういう場面で、こういうふうな形で持ち出された《土人》という言葉は差別だと思うがどうか?」

 と、具体的な文脈をもとにして質問が出されている。
 これに対して、鶴保大臣は

 「《土人》という言葉がすべてにおいて差別であるとは断定できない」

 というか、引用した記事の通り、“鶴保氏が機動隊員が土人と叫んだこと自体を「許すまじきこと」とし、「沖縄県民の感情を傷つけたという事実があるならば襟を正していかなければならない」との趣旨の発言を”しているのならば、なぜ今さら「土人は必ずしも差別用語ではない」という、とんちんかんな反論を始めるのか。

 鶴保大臣の動機が分からない。
 どうして彼は、こんな無理な論陣を張ってまで「土人」発言を擁護したのだろうか。

 思うのは、政府の中枢を占める人々の中に、なんとしてでも機動隊を擁護しなければならない空気が蔓延しているのかもしれないということだ。

 沖縄でデモに参集している人々を、「敵」(あるいは「特定の外国勢力と通じた人間たち」だとか、「プロ市民」だとか、「本土から動員されたサヨク」だとか)と見なし、機動隊員を自分たちの「味方」(ないしは「手兵」)と考える党派的な考えに染まっているのでもなければ、こういう議論を持ち出すことについて、説明がつかない。

 そういえば、9月末の国会で、所信表明演説をする安倍晋三首相が、領土や領海、領空の警備に当たっている海上保安庁、警察、自衛隊をたたえた際、安倍氏に促された自民党の議員たちが一斉に立ち上がって手をたたき続けたため、約10秒間、演説が中断したことがあった(こちら)。

 あの動画を見た時、私は、安倍首相が、制服を身にまとった公務員に特別な感情を抱いているらしいことに気づいて、なんだか索漠とした気持ちになったのだが、今回の閣議決定は、奥深いところで、あの拍手とつながっているのかもしれない。つまり、官邸の中枢では、何らかの無謬な存在が想定されているわけで、その無謬の何かに対する信頼ないしは畏怖が、不可思議な決定を運んでくると、おそらくはそういう話なのだろう。

 古いSFに出てくる独裁国家は、軍隊や警察が「無謬の組織」として描かれることがよくある。無論、過ちを犯しても決して認めない、という意味だ。
 30歳になる前に、そういうSFをずいぶん読んだ。

 半端なSF読者であった私は、その設定のウソくささに、いつもなんとなくついていけなかった。いくらなんでもリアリティが無いと思ったからだ。

 いま、土人が差別発言ではないことが閣議決定される国に住む身になって、あの時代のSFが描いていた時代の射程の長さと、自分が土人だったことに思い至っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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■変更履歴
記事掲載当初、本文中で「田村美智子議員」としていましたが、正しくは「田村智子議員」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2016/11/25 18:30]
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