11月8日に投開票を迎える米大統領選挙。世論調査の多くがヒラリー・クリントン氏の優位を伝えているが、健康問題や電子メール問題などを抱えているだけに予断を許さない。対する共和党のドラルド・トランプ氏は女性蔑視発言などが発覚して劣勢に立たされているものの、暴言を繰り返しても致命傷にならないところが強さの一つだ。

 日経ビジネスでは「もしトランプが大統領になったら(もしトラ)」という仮定の下、世界にどのようなインパクトを与えるのかを検証する。世界最大の経済・軍事大国である米国の大統領は、同盟国である日本の経済や安全保障に多大な影響を与える。

 トランプ氏が米国大統領になれば、世界の勢力図はどのように変わり、日本はどんな影響を受けるのか。思想界の気鋭、津田塾大学学芸学部国際関係学科教授の萱野稔人氏に聞いた。(聞き手は日野 なおみ)

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<b>萱野稔人(かやの・としひと)</b><br /> 津田塾大学教授。哲学者。1970年生まれ。早稲田大学卒業後、渡仏。2003年、パリ第10大学にて哲学の博士課程を修了。2007年から津田塾大学准教授、2013年から現職。衆議院選挙制度に関する調査会委員などを歴任(写真:朝日新聞社)
萱野稔人(かやの・としひと)
津田塾大学教授。哲学者。1970年生まれ。早稲田大学卒業後、渡仏。2003年、パリ第10大学にて哲学の博士課程を修了。2007年から津田塾大学准教授、2013年から現職。衆議院選挙制度に関する調査会委員などを歴任(写真:朝日新聞社)

米国大統領選挙が佳境を迎えています。

萱野氏(以下、萱野):もう少し前ならば、場合によってはトランプ氏が大統領になる可能性もあると思っていましたが、さすがに難しくなってきました。反トランプ陣営が持っていた爆弾(女性蔑視発言の動画)のインパクトが大きすぎたように感じます。

 対して反クリントンの爆弾は、相変わらず健康問題やメール問題、もしくは「中国からカネをもらっている」という批判くらいで変わり映えがしません。私自身は、トランプ氏が大統領になることはないと思っています。

 ただ注意しなければならないのは、たとえ大統領選でトランプ氏が負けるとしても、彼の発言を過小評価してはならないということです。トランプ氏が大統領になれば、なおさらでしょう。

 トランプ氏は、日本や韓国から米軍を撤退させるべきだとか、環太平洋経済連携協定(TPP)から離脱して保護主義を進めるべきだとか主張を続けてきました。彼の政策は、ひと言で言えば「アメリカ・ファースト」。確かにトランプ氏の表現は過激ですが、主張する内容は今後の米国の方向性を明確に示しています。

 ですからトランプ氏の主張そのものは、彼が大統領になろうがなるまいが、米国社会や米国が今後進む方向性を示していると捉えています。

オバマ大統領とトランプ氏の主張の共通点

萱野:実は今年の年明け、オバマ米大統領が一般教書演説で訴えた内容の中には、トランプ氏の主張とさほど変わらない部分があるのです。

 オバマ大統領は一般教書演説で、米国が世界の警察官となることなく、世界の安全保障について関係国と責任を分担し、限られた軍事力をより選択的に使う必要があると語っています。

 トランプ氏は当初、駐留経費を全額負担しなければ在日米軍を撤退させる、日本が核武装するのも止めないなどと主張をしていました。これは確かに過激すぎます。けれど方向性は、「責任を分担する」というオバマ大統領の考え方と変わりません。

 これはもっと大きな文脈で捉えれば、これまでの米国覇権を中心とした世界の構図そのものが変わっているということです。米国が、世界の覇権を引き受けられなくなった様子を見事に象徴している言葉でしょう。

 経済的に見ても、米国はもはや世界唯一の超大国ではありません。大国ではあるけれど、「唯一の超大国」ではない。中国の追い上げを受けているし、ロシアからの挑戦も受けていますから。2020年代には中国が米国のGDP(国内総生産)を抜いて、世界1位になるとも予測されています。米国の経済的、軍事的覇権が揺らぎつつあることは客観的な事実であり、否定はできないのです。

 そうした中で、オバマ大統領は米国が世界の警察官の役割から降りなくてはならないと語った。その主張を過激にしたのがトランプ氏です。

 米国はこれまで覇権国として、自国の利益だけでなく、世界全体の利益を考えてきました。時に横柄だと批判されることもありましたが、米国が世界全体のことを考えて行動してきたことは否定できないでしょう。その米国が世界の警察官から降りて、「アメリカ・ファースト」へ方針を転じようとしている。この流れはオバマ大統領が始めたもので、トランプ氏はそれを過激化したということです。

トランプ氏の政策は軟着陸?

つまりトランプ氏が米大統領になっても大きな流れは変わらない、と。

萱野:「アメリカ・ファースト」に向けたスピードは速くなるでしょうから、多くの人や国は戸惑うでしょうし、抵抗感を示すでしょう。けれど方向性はこれまでと変らない。いずれはそうなるものが、早まるというイメージでしょうか。

トランプ氏が大統領になれば、米国の国民感情や愛国心に変化は起こりますか。

萱野:米国民は、一層内側を向くようになるでしょう。ただ米国の政策が劇的に変わることはないと思っています。

 例えば安全保障に関しても、これまで米国と日本が続けてきた関係があるわけです。トランプ氏が大統領になっても、一旦はそれを受け継がないといけません。突然、在日米軍を撤退させることなどできないし、日本がいきなり核兵器を持つこともあり得ない。

 トランプ氏が「アメリカ・ファースト」を掲げて当選したとしても、一旦は、これまでの方向性を踏襲して、既存のエスタブリッシュメントと方向性をすり合わせていかなくてはなりません。つまりトランプ氏の登場によって火が付いた「アメリカ・ファースト」「アメリカナショナリズム」といった信条は軟着陸させられる可能性が高いのです。

ヒラリー氏が大統領になった方が危ない?

萱野:欧州でも同じことが起きています。欧州では1990年代半ばから極右勢力が台頭し、9.11以降、一気に拡大して順調に勢力を伸ばしています。私はフランスに留学していたので、フランスの国内事情はよく理解していますが、フランスではこの25年くらい、極右勢力の主張がどんどん洗練されてきています。

 かつてはもっとあからさまに「外国人は出て行け」と主張していましたが、その表現が選挙で勝てる言い方に変わってきているのです。「これはフランス人のためなんですよ」と。フランスの極右・国民戦線は「日本のように自国で外国人の入国管理ができるようになりましょう」「冷静に犯罪率を見れば、黒人とアラブ人が多いでしょう」と訴えている。政策が洗練され、より国民に受け入れられやすいスローガンに変わっているのです。その分、過激さは弱まっています。

 極右勢力は選挙の度に得票を伸ばしていますが、実際に政治の場で主張を実現できる存在になると、あまりに過激な発言はできなくなる。トランプ氏を支持していた勢力も、行政的な継続性や他国との関係の中で自分たちの主張を形にしようとすれば、段々と穏やかな主張に変わらざるを得ない。けれどもその流れを目の当たりにするので、有権者は納得できるわけです。

トランプ氏が大統領になった段階で、ある程度ガス抜きがされるということでしょうか。

萱野:「あなた方が主張していたことを政策として実現するとこうなる」ということを国民が学ぶようになりますから。

 逆にトランプ氏が大統領にならないと、トランプ支持派の意見はもっと過激になるでしょう。不満としてくすぶるので、より過激化しやすくなるし、米国社会の底流に鬱屈した形で沈殿するようになるはずです。

米国社会でトランプ支持派のガス抜きがされるとなると、トランプ氏が大統領になるリスクは少ないように感じます。

萱野:私自身は、さほどリスクはないと考えています。ただあらゆる意志決定が面倒になるでしょうね。トランプ氏およびその側近、支持層を説得するのに時間がかかりますから。

 もちろん、ヒラリー氏が大統領になった場合と、トランプ氏がなった場合とでは違いがあります。ヒラリー氏が大統領になればより協調主義になるだろうし、トランプ氏であればより強く「アメリカ・ファースト」を打ち出すでしょう。けれど繰り返しますが、トランプ氏が主張する方向性は、オバマ大統領と変わっていないのです。より過激な表現で「アメリカ・ファースト」と言っているだけなのです。

 彼の掲げる「アメリカ・ファースト」のスピードを、もう少しゆっくり進めましょうと説得する必要はある。その手間が大変なだけで、具体的に困ることはあまりないと感じています。日本では皆さん、「トランプ氏が大統領になれば大変なことになる」と騒ぎすぎなのではないでしょうか。

ヒラリーだって嫌われている

そう考えると、ヒラリー氏が大統領になって、トランプ氏の支持層である白人の低学歴・低所得層の鬱屈したものが過激化する方がリスクのように感じます。

萱野:どちらが大統領になっても、米国内を統治することの難しさは変わらないでしょう。今回、米国は相当、分裂しましたから。

 ヒラリー氏が大統領になっても、共和党支持の白人貧困層からはそっぽを向かれるでしょう。ヒラリー氏だって消去法で選ばれた不人気候補ですから、米国3億人の国民をうまく統合できるとは思えません。やはりある種のエリート主義が強くて、これまで既得権益を持っていたこぼれゆく中間層の白人たちの意見を上手くとりまとめるのは難しい。

 同じようにトランプ氏に対しても、アレルギーを持つ人が国民の半分以上は存在する。さらにトランプ氏が大統領になれば、共和党が分裂する可能性もあるでしょう。伝統的な共和党支持者と、新しく出てきた不満分子の支持者たちが対立し、共和党執行部は党内の意見をまとめきれないかもしれません。党内の亀裂を修復できる人物がいればいいのでしょうが、今のところ思いつきません。

トランプ氏のこれまでの発言を見ると、日本や日米関係に関する理解が乏しいように感じます。トランプ氏が大統領になれば、日本はどんな影響を受けるのでしょうか。

萱野:メリットもデメリットもないと考えています。TPPが頓挫する可能性は出てくるでしょうから、経済的な影響は考えられます。ただ影響といっても、TPPはまだ交渉の最中ですから、現状から何かが大きく変わるとは思えません。そもそも日本は80~90年代の日本バッシングを受けて生産拠点を米国に移したりして、貿易不均衡の批判をくぐり抜けてきています。ですから今さらトランプ氏が日本を叩こうとしても、簡単に叩けるものではないはずです。

 もちろん品位の問題はありますし、彼が米国大統領にふさわしくないと拒絶反応を示す気持ちは分かりますが、それでも騒ぎすぎではないでしょうか。

日本は大転換を迫られる?

萱野:安全保障の観点で言えば、むしろヒラリー氏が大統領になった方が、中国に対して強硬に出る可能性があると考えています。

 基本的に、ヒラリー氏はオバマ政権ほど、中国に対して寛容政策は取らないはずです。オバマ大統領は中国に対し、「話せば分かってくれる」と8年間耐えてきました。これは2008年の世界金融危機以降、中国が公共事業などを増やし、世界経済を救ってくれた背景があったためです。中国とも、協調的な関係を保つと考えていたのがオバマ大統領でしょう。それでも中国との関係は進展しなかった。

 ヒラリー氏は、両国の信頼関係が崩れたところから出発しなくてはならない。ヒラリー氏はオバマ大統領ほどの博愛主義者ではありませんから、中国に対して、厳しく出る可能性が高いはずです。米中関係の緊張が高まれば、当然日中関係の緊張度も増すでしょう。

 トランプ氏とヒラリー氏の政策は、中国の東シナ海や南シナ海への海洋進出に、どれだけ米国が関わるかという面でも違います。ヒラリー氏の方が関与度合いは高い。トランプ氏が大統領になれば、それぞれの国は自分たちで中国との問題に対処しなくてはならないでしょう。ただ、この問題については、米国がどこまで介入するのが地域の安定にとって望ましいのか答えは出ていません。私自身、どちらが好ましいのかはまだ分かりません。

トランプ氏が大統領になれば、日本の軍事面での負担は大きくなると懸念する声もあります。

萱野:トランプ氏が現在の主張を全て実行できれば、ですよね。ただ私自身は、本当はもう少し軍事費を増額してもいいと思っています。トランプ氏が大統領になれば、日本は国のリソースをある程度は軍事費に割かなくてはならなくなります。これは戦後、経済中心主義で軽武装、日米安保を柱に据えてきた吉田ドクトリンを大転換させることでもありますから、大きな意味を持つことになるでしょう。

トランプ氏が象徴する世界情勢の変化

戦後、日本の取ってきた方針が大転換されるということでしょうか。

萱野:そうなる可能性も考えなくてはなりません。ただ、冒頭から説明しているように、トランプ氏が大統領になろうがなるまいが、米国の方向性は変わりません。米国の超大国の地位が揺らぎ、日本が米国に頼っていられなくなる状況がいつかは訪れるわけです。

 さらに日本にとって難しいのは、米国の地位を脅かすのが中国やロシアの台頭であり、北朝鮮の冒険主義であるということです。日本を取り巻く極東の情勢が大きく変わり、同時に米国のプレゼンスが低下している。こうした地殻変動の渦中にいるのが日本なのです。

 トランプ氏が大統領になろうがなるまいが、トランプ氏は未来の予言者であると私は思っています。米国の未来の方向性を指し示しているし、過激な分、未来を先取りしているとも言える。ではその時に日本はどうすべきか。トランプ氏の存在が、日本に安全保障のあり方を問うているわけです。

 国々の力関係が変動する時、世界情勢は最も不安定になります。20世紀には、英国の地位が低下したから、欧州での力関係が変わり、ドイツが英国に挑戦する形で、2回の世界大戦が起こりました。

 戦後、英国から米国にヘゲモニーが移り、今度は米国の地位が低下しつつある。それに挑戦する中国が台頭してきました。中国が今後、どれだけ冒険主義に走るのかは分かりませんが、力関係が変わる時に秩序が不安定になる事実を、我々は100年前に学んでいます。

 その地殻変動がまさにアジアで起こっていて、トランプ氏は国々の均衡が変わりつつあることに問題提起をしている。日本では、「トランプ氏はやばい」ということを煽るばかりで、彼が提起している本当の問題を捉えようとしていません。多くの人々が、トランプ氏さえ大統領選で敗れれば、この問題は終わるであろうと考えています。けれどもそれは、あまりにも世界情勢についての認識を矮小化しているのではないでしょうか。日本はどうするのか。我々は本気で考えなくてはなりません。

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