選挙の話は書きたくない。
 私はうんざりしている。
 このことだけをお伝えして、今回は別の話をする。

 危険運転の話をしよう。
 先週から今週にかけて、かなり話題になっていた事件だ。

 経緯を振り返っておく。

《神奈川県大井町の東名高速道路で6月、追い越し車線で停車していた乗用車にトラックが追突し、夫婦が死亡する事故があり、県警は10日、乗用車の進路をふさいで停止させたなどとして、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)と暴行の疑いで、福岡県中間市扇ケ浦、建設作業アルバイト石橋和歩容疑者(25)を逮捕した。「間違いありません」と容疑を認めているという。--略--》(ソースはこちら

 いくつかの報道を総合すると、まず、現場から1.4キロ手前の中居パーキングエリアで、枠外に駐車していた容疑者に対して、萩山さんが口頭で注意した。この萩山さんの抗議に逆上した容疑者は、パーキングエリアから出た萩山さんのクルマを追跡し、追い越し車線上で追い抜いて進路を妨害するように走行を続ける。で、容疑者のクルマが追い越し車線上で止まったことで、萩山さんもやむを得ず追い越し車線に自分のクルマを停車させた。そこで、クルマから出てきた容疑者が萩山さんの腕をつかむなどしてやりとりしていた直後、後方から走ってきたトラックが萩山さんのクルマに追突した。以上が、当日起こったことの概要だ(こちら)。

 このテの話題は、とにかく、危険運転をやらかした人間をよってたかって攻撃していればとりあえず全員がすっきりする。そういう意味で選挙の話題みたいに面倒な議論にはならない。午後の時間帯のテレビが、この事件に比較的長い時間を割いていたのは、そういうこともあったのだと思う。

 テレビは、悪者がはっきりしている話題を好む。
 明らかな悪役が見つからないケースにぶつかると、あえて敵役を作ろうとさえする。

 今回の事件の場合、わざわざあざとく演出するまでもなく、あからさまな悪者があらかじめ用意されていたわけで、そうである以上、こういう話題はスタジオの人間と液晶画面越しのお茶の間の人間がともに激怒するための絶好の機会として、存分に味わい尽くすわけですね。

 報道されているディテールがそのまま事実であったのなら、件の容疑者には、まったく擁護できる余地がない。どこをどう切り取ってどう論評したところで、結果としてはリンチに加担せざるを得ない感じだ。

 なので、これ以上の言及は控える。
 「あきれた事件ですね。被害者の方々が本当にお気の毒です」
 という凡庸なコメントを提示しておしまいにしておく。
 多くの場合、凡庸なコメント以上に誠実なコメントはない。

 個人的に興味深く思っているのは、われら21世紀の日本人の不品行が、もっぱら自動車のハンドルを握っている時に発揮されるように見えることだ。

 万事にわたってお行儀の良いわたくしども日本人が、どうして運転している時に限って野蛮な人間になりかわってしまうのか、私は、以前からこのことが気になっている。

 様々な統計を見るに、うちの国の国民の品行は、戦後70年間、おおむね向上し続けている。

 中には、
 「いや、日本人は劣化している」
 と言い張る人たちもいるし、
 「治安が目に見えて悪化している」
 旨を訴えるご老人も少なくない。

 が、少なくとも統計にあらわれている数字の上では、犯罪は種類による差はあるものの、大きく言って減少の一途をたどっている。

 にもかかわらず、こと運転マナーと交通マナーについては、国民の行状が悪化しているように見える。なぜなのだろうか。

 もっとも、この「運転マナーが悪化している」という観察は、私の個人的な実感以上のものではない。
 それも、詳しく述べれば、「運転マナーや交通ルール遵守の習慣が全体として向上している中で、ときおり見かける凶悪なドライバーの常識はずれの運転の質が悪化している」ということで、統計上の例外をとらえたお話に過ぎなかったりもする。

 でも、ともあれ、都内の道路や高速道路を運転していて、凶暴なドライバーに出くわす確率は、やはり、今世紀に入ってから、高まっているように感じられるのだ。

 理由について、安易に決めつけることは避けたい。
 ただ、個人としてのマナーが向上している中で、運転手としてのマナーだけが選択的に低下しているのだとすると、運転免許証を取得して以来一貫してノロマな運転手であった者の一人としては、個人の中に、「ドライバー」という別人格を隠し持っているタイプの人間の存在を仮定してみたくなる。

 どういうことなのかというと、社会に対峙する個人としての通常の人格とは別に、もっぱら道路上でのみ発現する「ドライバー」というより万能な別人格を自分の中に育てているタイプの人間が存在しているということで、その彼らは、一市民として社会なり共同体なり家族なりから受けている抑圧を、運転者として路上に解放する回路を持っている人たちで、言い換えれば、ハンドルを握った時にだけ自分が十全な人間であるように感じているちょっとヤバい人間だということだ。

 どうせ思いつきの仮説なのだからということで、もう少し風呂敷を広げてみる。
 思うに、自分の中に架空の別人格を育ててしまうタイプの人間は、ハンドルを握った時だけでなく、スマホやPCの画面を眺めている時にも、それはそれで別の人格を身に着けている。

 たとえば、ツイッター上で失礼なリプ(返信)を寄越すアカウントのホームを見に行って見ると、多くの場合、そのアカウントは、私に対してだけ攻撃的な言葉を使っているのではない。彼は、全世界のあらゆる他人に向かってあらんかぎりの罵詈雑言を投げつけてやまないねずみ花火みたいな人格の持ち主で、ちょっと前までは、私も、そういうアカウントのハンドルの下に並んでいる口汚い単語の羅列を見ると、

 「この人はこんな調子で社会生活をまっとうできているのだろうか?」

 などと、むしろ心配になっていたりしたものなのだが、おそらく、彼は対世間的にはきちんとした人間なのだ。

 ただ、現実の対人関係の中で遭遇するリアルな他人や、同じコミュニティで暮らしている生身の人間に対しては言えずにいる暴言を、もっぱらネット上の他人に向けて投げつけることで、ある精神的なバランスをとっているだけのことで、彼の罵詈雑言は、言ってみれば、ヨガ愛好者における鶴のポーズや、週末ランナーのジョギングと同じ、ストレス発散の一過程に過ぎないのだ。

 運転においては、四方を囲うカタチで運転手を防衛する室内空間と、自由意思をそのまま増幅する内燃機関(とモーターか)の動力が、個人の内部に「全能の操縦者」という別人格を育てる動機を与えている。

 ツイッターの場合は、匿名設定による責任からの離脱と、ネット回線を介してアンプリファイ(増幅)された発言力の拡大が、ガジェット操作者にドライバーと同じような自我の拡大をもたらしている。

 いずれの場合も、個人は、隔離され、増幅されることによって、万能化し、凶暴化している。
 私たちの中には、ときどきそういう人間が混じっている。

 せっかくなので、神戸製鋼所のお話を持ってきて三題噺を完成させてみようと思う。

 神戸製鋼所の品質データ改ざん事件は、どうやら、当初発覚した分のケースではおさまりそうにない(こちら)。

 偽装は、既に非鉄金属のみならず、主力事業の鉄鋼にも及んでいるし、さらに多角化した別会社である建設機械の「コベルコ」にも飛び火している。しかも、OBの証言によれば、偽装は40年前から常識化していたという。

 なんともあきれた話だが、気楽にあきれてばかりもいられないのは、この事件が、なにも神戸製鋼所にだけ起こった例外的なできごとではなくて、どうやら、日本の少なからぬ数の名門企業で同じように起こっている、ほとんど見分けのつかないほどよく似た不祥事だからだ。

 つい最近になって発覚した事案だけでも、三菱重工が大型客船の製造から撤退し、三菱航空機は、MRJの納期を何度も延期する事態に追い込まれている。

 タカタはエアバッグのリコール問題が拡大して、最終的に経営破綻することになった。
 東芝も然りだ。米国の原発製造メーカーの買収でしくじったところから、ついには虎の子の半導体事業を売却する。
 日産でもつい先日大規模な不正検査が発覚している。

 何年か前に、オリンパスの粉飾決算が明らかになった時にも驚かされたものだが、あの時はまだ、数字の問題だった。

 数字の問題だったというのはつまり、カネの勘定をする部門の人間がやらかしたごまかしに過ぎなかったということで、製品を作っているメーカーの中枢にいる本筋の社員たちが不正に手を染めていたわけではなかった、という意味だ。

 そう思って、われわれは、
 「経営陣は腐っていたのかもしれないが、社員が腐っているわけではない」
 「帳面はインチキだったけど、製品がインチキだったわけではない」
 と思い込むことで、なんとか栄光ある日本のモノづくりの名誉に傷がつくことを認めまいとしていた。

 ところが、今回の神戸製鋼所の不祥事は、一番カタいと思われていた鉄鋼の、しかもモノづくりの中枢にある鉄鋼および非鉄金属の製品がど真ん中が汚染されていた事件であるわけで、しかも、その汚染が、昨日今日の話ではなくて、前世紀から引き継がれてきた伝統だという。

 ほかに発覚している不正や偽装やごまかしも、同じく、その企業の本筋の中枢の社員による、おそらくは組織ぐるみの不正だ。

 いったい、正直で勤勉で優秀な日本のエリートはどこに消えたのだろうか。

 で、思うのだが、この場合も、個人としては誠実で小心で引っ込み思案で善良なわれら日本のエリートが、特定企業の一員という役割を担う段になると、とたんに強気で厚顔で残酷な組織人という別人格に変身するのは、ありそうな話なのではないだろうか。

 旧軍がやらかした組織的な失敗や蛮行の数々を思い浮かべるまでもなく、組織の中にいる日本人が個人的な良心を組織の中に溶解させてしてしまう傾向は、ほとんど「国民性」と呼んでもさしつかえないレベルではっきりした話であるわけで、とすれば、規律のとれた企業であればあるほど、法令遵守がままならなくなるであろうことは、はじめからはっきりした話ではないか。

 個人として社会に対峙していたり、市民として国家に向かっている限りにおいては、ごく力弱く頼りない一人の人間であるに過ぎない同じ人格が、ひとたび「会社名」だったり「役職名」だったり「匿名アカウント」だったり「クルマのハンドル」だったりするものを帯びると、いきなり強気一辺倒な非人間的な装置に化けるという私たちの国の勤労者のお話は、人間の完全さが人間性そのものを裏切るという意味でフランケンシュタインの物語に似ていなくもない。

 普段は、フランケンシュタインの怪物は、匿名性の後に隠れている。
 が、自分の力を過信するか油断したかで、時々そいつが表に出てくるのだ。

 神戸製鋼所がこの先どうなるのかはわからない。
 できれば、立ち直ってほしいと思っている。

 熱いうちに打って形を変えられてしまったものが、元の姿を取り戻せるものなのかどうか、私は金属を扱うことの専門家ではないのでよくわからない。
 だが、人間は、多くの場合やり直せるものだと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

自分の中に小さな怪物の存在を感じつつ、それでも時々、
立派な「組織の一員」に憧れてしまうこともある私です。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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