日立製作所では、人工知能(AI)が社員個人に対して、幸福感を高めるためのアドバイスを与える社内実験を行っている。

 「いったい、どんな仕組みなの、それ?」「そもそも、AIにひとの心をスッキリ解析されてたまるものか!」「この研究のリーダーである矢野さんって、どんな人なんだ?」

 当コラムの著者、河合薫さんが、たくさんの「?」を携えながら、押っ取り刀で日立製作所研究開発グループ技師長の矢野和男さんを直撃。果たして、「?」の謎は解けたのか。それとも、返り討ちに遭ったのか…。(編集部)

河合:私、幸福にはちょっとうるさいんです(笑)。大学院のときに心理的well-beingを向上させるEラーニングのプログラムを開発して、介入研究を行ったことがあるんです。

矢野:心理的well-beingですか? 初めて聞く言葉ですね。河合さんのご専門では「幸福」と同義なんですか?

<b>矢野 和男(やの かずお)</b>さん<br /> 1984年早稲田大学物理修士卒。同年、日立製作所入社。現在、日立製作所研究開発グループ技師長。工学博士。IEEE フェロー。
矢野 和男(やの かずお)さん
1984年早稲田大学物理修士卒。同年、日立製作所入社。現在、日立製作所研究開発グループ技師長。工学博士。IEEE フェロー。

河合:そうです。正確に言うと、「幸せな状態」ではなく「幸せへの力」です。危機に遭遇したり、不安になった時にこそ高められる「人間のポジティブな心理的機能」のことで、モノごとの見方をちょっと変えるだけで誰もが高められます。矢野さんの研究における「行動で幸福感を高める」という考え方と、ちょっと似てるかもしれないですね。

矢野:なるほど。でも、モノごとの見方を変えるのって、結構、難しいように思いますが……。

河合:モヤモヤメモとハッピーメモを書くだけでも、ずいぶん変わりますよ。

矢野:な、なんですかそれは? モヤモヤメモって、すごい興味あります。

河合:モヤモヤメモっていい名前でしょう。私のオリジナルです。商品登録しなきゃなんです(笑)

矢野:ちょっと教えてください。

河合:モヤモヤメモは寝る前にその日を振り返って、心の針がネガティブに傾いた原因である「モヤモヤ」を一つだけ書くんです。書くことはストレス発散につながるので、書き出すとスッキリします。でも、それだけだと気がめいってくるので、その日の「幸せ探し」もやる。こちらがハッピーメモです。

矢野:面白い! 実は私、昨日あった良かったことを3つ書くというのを、10年以上やっているんです。働いてると「何かいまいち気分がのらない日だったな」とか、「昨日はモヤモヤした日だったな」と思うことってあるじゃないですか。それで「だったらいいことも思い出そう」と考えて、良かったこと探しをやっています。

 10年もやっているので、最近は「いいこと探し」の能力がだいぶ高くなりましたが、最初の頃は出てこないんですよね。

河合:でも、ネガティブなことはすぐ思い付く。

矢野:そうなんですよ。ハッピーの方が出てこない。ただ、10年もやってるとハッピー探し能力もどんどん訓練されてきて、今はすぐ書けますよ。

河合:矢野さん、ハッピーそうですもんね(笑)。幸福研究に10年以上費やしている研究者がいて、「ハッピーな人は毎日、ハッピーなことを考えている人だった」という結論を出した。ハッピーメモも、この研究結果を参考に考案したんです。

 人間の感情は複雑な半面、実に単純。私の研究は「書く」という作業を軸にしたんですけど、そこに「行動」という変数を入れて考えた矢野さんって何者なんだ? これは絶対にお会いしなきゃ!と、メチャクチャ興味がわいちゃったんです。それで、編集担当のY氏に「対談させろ~~!」って拝み倒して、晴れて今日の対談となりました!

矢野:それは光栄です。ありがとうございます。

「社内失業”しそうになったのがきっかけで……」

河合:早速ですけど、そもそもなぜ、物理学者である矢野さんが「幸福」という、人間の「心の中」に興味を持ったんですか?

矢野:このなぜというのにはいろいろな答え方はありますけど、非常に何だかよく分からない経緯でありまして。

河合:“社内失業”がきっかけだったという話も聞きましたが……?

矢野:そうそう。そうなんです。その前からいうと、自分はもともと理系なわけです。基本的には。専門は理論物理です。

河合:えっと、既に訳が分かりません(笑)。何の自慢にもなりませんが、高校時代、物理はずっと赤点ギリギリでしたので、理論物理、というのがちょっと………。

矢野:理論物理というのは、量子力学とか多体問題とか、要するに非常に複雑で絡み合って、相互作用をしながら、時にはきれいな流れになったり、時には固まって氷になったりするような現象を説明するもので、実験物理に対比する分野です。

河合:………は、はい………。

矢野:大学時代に理論物理の世界にどっぷりとはまったんですが、どこかこう釈然としないところがありましてね。例えば、素粒子論だとか宇宙だとか、そういう物理のもっとより根源的なところをどんどん要素還元して理解していくというところは、それはそれで物理の1つの究極の姿としていいと思うんです。

河合:それって、カミオカンデみたいなやつですか。

矢野:そう、そうです。これまで理論物理の伝統的な理想の姿は、そういった研究で成果を出すことでした。でも、若さゆえというんでしょうか。まだ大学院生だった頃に、もうちょっとこの世の中に近い、もっと複雑な現象を物理的な理論や技術を使って理解したほうが、面白いんじゃないかなと考えるようになったんです。

 ヘルマン・ハーケンという物理学者が提唱した「Synergistics(シナジェティクス )」という理論をご存知ですか? ハーケンはレーザーのメカニズムを利用して、いろいろな自己組織化現象(自律的に秩序立った構造を作り出す現象)を横断的に見る試みを実践しました。

河合:……は、はい……。

矢野:付いてきてます?

河合:た、たぶん…(苦笑)

「人って、1日に8万回ぐらい動くんです」

矢野:(笑)要するに、ハーケンのシナジェティクス理論を使えば、あらゆる社会現象、心理現象の動きに関するルールまで理解できるかもしれないと、大風呂敷を広げたわけです。

河合:物理音痴の私には脳をフル回転させても、人間の心とレーザーのメカニズムがどうも合致しないんですけど、人類の普遍的な謎である「心の存在」を物理で解いていくという理解で合ってます?

矢野:大丈夫。当たりです。ただ大学院生で何のバックグラウンドもなく、社会のことも人間のことも何も知らない人間がそういうことをやろうと思っても、もやもやして何をやっていいか分からなかった。無理やり論文を書こうとしたんですけど何も書けずにもんもんとして、結局あこがれだけで終わりました。

河合:でも、諦めきれず、いつかはやりたいと思っていた?

矢野:ええ、そのとおりです。でも、気持ちはあってもいったん就職してしまうと、現実世界に生きるしかない。企業の研究所は、当然のことながら企業競争というか事業、ビジネスの中で求められていることをやらなくてはなりません。なので会社に入ってからは、半導体の研究を20年ぐらいずっとやっていました。

河合:半導体全盛期でしたもんね。

矢野:日立というか、日本が世界を引っ張っていた時代です。まさにここの国分寺の研究所も、世界の半導体技術の基本的な技術や回路を多く生み出しました。ところが突然、日立が半導体をやめるということになった。それで困ったなということで、仕事のなくなった人たちで何か始めようという議論をいろいろもんもんとやり始めました。

河合:それで若いときの情熱が、蘇ったわけですね。

矢野:辛うじて残っていました(笑)。議論しているうちにデータが今後、大事になるのではないか、という結論になりました。しかも、ハードウエアは大型コンピュータからパソコンになって携帯電話になり、より小型でパーソナルなものになっていました。きっとこの先は、常に身に着けているようなものになるだろうと。そうなると、おそらくハードウエアよりも取得したデータの方がより重要になるんじゃないかと予想しました。

河合:えっと、ちょ、ちょっと待ってくださいね。単にデータといっても、人間に関しては、心拍数、体温、血圧などいろいろとあると思うんですが、理論物理で人の普遍的ななぞを解こうとする場合に、注目するデータというのは何なんですか? 矢野さんの研究だと、今は「動き」になっていますが。

矢野:最初から、人の動きはすごく注目していました。

河合:それはやっぱり、物理といえば運動方程式ってことですかね? ああ、なんだか高校生レベル以下の質問ですね。すみません。

矢野:ハッハハ、大丈夫ですよ。そのとおりです。基本原理から人の心は非常に定量的に解き明かせるはずだと、学生時代からどこかで思っているところがありました。例えば人って、1日に8万回ぐらい動くんですけど……、

河合:えっ、そんなに? それって顔の表情とかの動きも含めてですか?

矢野:そうそう、すべての動き。小さい無意識の動きがほとんどです。意識的に動いているのはその10分の1もあるかどうか…。

河合:そんなに少ないんですか? 

矢野:もっと少なくて、もしかしたら1%ぐらいかもしれないですね。

「人の心を、方程式でスッキリ解かれてたまるもんか」

河合:ってことは、歩くとか、お茶碗を持つとか、好きな人に触れるといった意識的な動きって、ものすごく特別な動きなんですね。そっか。だからダルマさん転んだ、とか、座禅とか、意識して動きを止めるのが難しいんですね。

矢野:ええ、そうなります。ホラ、こうやって話を聞いているときだって、他の人の動きに引きずられて無意識に動いてるでしょ。パソコンのキーボードを打ち込んでいるときも、常に動いたり止まったりしてます。で、その8万回の動きを8万個の粒子に置き換える。時間の中に粒子が8万個置かれていると仮定するわけです。

河合:はぁ…。

矢野:例えば、空気の中には酸素とか窒素分子が何万個と存在しています。で、それは、物理方程式で理解できているわけじゃないですか。

編集部注:0 ℃、1気圧で22.4 Lの体積を占める空気(1mol)に含まれる分子の数は6.02 × 10の23乗となる

河合:物理方程式! あ~~、ごめんなさい。全く分かりません。今の話(笑)

矢野:例えば気体を温めたら体積が増えるとか、圧力が増えるとか、そういうことってすべて予測できるわけですよね。それで蒸気機関が動いたり、タービンを回したり、ボイラーでやったり。それらの動きは全部、非常に基本的な分子レベルから説明できるんですね。

河合:はい。そこまで説明していただけると助かります!

矢野:(苦笑)そういう方程式というのは、作る方法論もあるし、やり方も分かっている。で、空気というのは先ほど説明したように膨大な数の分子粒が集まっていて、一個一個の動きはいろいろな事情によって変わるので予測が難しいんですけど、いっぱい集まると、トータルの動きは非常にシンプルなメカニズムで説明できる。空気の場合は、状態方程式(物質の状態を温度・圧力・体積などの変数として表す式)で説明できます。

河合:は、はい。状態方程式ですね……。

矢野:人の動きも同じです。起きている時間を、8万個の粒子を入れる箱と捉えれば、その箱の大きさは体積。その中の分子が、何回動いたかという数の密度は、まさに密度。物理の世界における手法をそのまま、つまり、この1日に8万回の動きを粒子の動きに置き換えることで、人類の天才たちが解明してきた体系がそのまま人間行動に適用できるんじゃないか、と。それができれば、今まで何かもやもやと文系的に語ってきたことが、すべてスッキリ理系的に説明できるわけです。

河合:う~~、ニュアンスはわかりました! それが「加速度センサーで幸せを計る」という取り組みの、出発点なんですね。

矢野:そのとおりです。

河合:ただ、正直なことを言いますと、お話を聞いていて、私がずっと健康社会学的、あるいは心理学的に解き明かそうとしてきた人の心を、方程式だけでスッキリ解かれてたまるもんかって思ってしまいました。すみません。

矢野:(苦笑)私は全く逆なんですよ。宇宙の138億年の歴史におけるあらゆることが数学的に説明できてるのに、この宇宙の端っこにいる地球の中の人間の心だけが説明できないのはおかしいと思っているんですよ。だって、それって人間だけは特別なんだぞって言ってるようなものでしょ?

 人間は決して、特別な存在ではない。一般的には、宇宙がビッグバンから生まれて以来、エネルギーの総量は保存しており、エントロピーだけが増えている。

 そういう仕組みの中で生まれてきたのが、地球という星であり、その中で生まれたのが人間です。物理学の見方からすれば、宇宙の謎が方程式で解けるのに、人間だけ解けないのはおかしいですよね。何というか、そういうことはあっちゃいけない。みんな統一的に説明できないとおかしい。

河合:宇宙も私には謎だらけですけど(笑)。でも、なんとかおっしゃってることがわかってきました。私の専門の健康社会学というのは、人と人を取りまく環境の関わりにスポットを当てる学問なんですね。つまり、「社会の窓」から人を覗くわけです。矢野さんは、物理の窓から覗いた。その窓からは宇宙も人も同じだ、と。これってすごいですよね。超ダイナミックで、考えるだけでワクワクしちゃいます!

矢野:こんな話でワクワクしていただけるなんて、うれしいですね。

河合:今日のハッピーメモに書けますね。

矢野:アッハハ。そうですね。ただね、物と人とか心というのは違うんだという二分論が言われているのは、この数百年ですよね。人類の歴史から見ればこの300年、400年なんて一瞬です。それって、最近の妄想なんじゃないかと思うわけです。

河合:138億年という宇宙の歴史から考えれば、確かに(笑)

「10年間、リストバンド型のセンサーをず~っと着けてます」

矢野:私、学生時代の愛読書がスイスの哲学者のカール・ヒルティの「幸福論」だったんです。

河合:おお!「寝床につくときに、翌朝起きることを楽しみにしている人間は、幸福である」というヒルティの名言も、私がハッピーメモを寝る前に書くことにこだわった理由なんですよ。

矢野:へ~、そうなんですか。私は人の幸せとは何か? とか、どうすれば幸せになれるのか? ということにすごく関心がありました。

河合:ってことは、人の動きに注目する前に、幸せに関心があったことが、現在の取り組みにつながったんですね。

矢野:結果的にはそうなります。それでとにかく自分がまずは実験台になってみようと思って、2006年から10年間、リストバンド型のウエアラブルセンサーをずーっと左腕に着けてきました。

河合:10年間、一度も外すことなく、ですか?

矢野:はい、そうです。寝てるときも、海外出張のときもずっとです。お風呂に入るときや、水泳をするときは外しましたが、それ以外はずっと着けていました。

河合:腕の動きだけで、ですか? 

矢野:はい。あらゆる人の動きには、腕の動きが伴っているんです。ほら、今も私の話を聞きながら、河合さんの腕は無意識に動いている。お話になるときは、もっと大きく動かしてますよね?

河合:あれ? 本当だ(笑)

矢野:動かないのは寝ているときくらいです。平均すると1分間に80回、歩いているときは240回、パソコンを見ているときは50回以下くらいです。

河合:指先をちょっと怪我しただけでも不自由に感じるのは、常に腕を動かしてるからなんですね。で、その10年間のデータはどうしたんですか?

矢野:データはコンピューターにずっと記録していました。それでそれを可視化したら、腕の動きに特定のパターンがあることがわかった。

 それでひょっとしたら、そこに「人の幸せ」を示すパターンがあるんじゃないかと考えるようになりました。

河合:ハッピーなことを書き出す作業をやっているから、それとの関連を調べたということですか?

矢野:ええ、そうです。毎日、自分の行動や感情も記録していました。そこで100万日を超える腕の動きのデータをミリ秒級の解像度で示し、人工知能も活用して分析したところ、人の幸せのパターンを見いだすことに成功したんです。

 といっても私のデータはあくまでも仮説なので、約500名の人の動きのデータを収集しました。被験者の人たちには、この1週間にどのくらい幸せな日がありましたかとか、楽しい日がありましたかとか、孤独な日とか悲しかった日がどのくらいありましたかという、20項目の質問にも答えてもらいました。

河合:CESD(うつ病自己評価尺度)ですね。私たちが抑うつ度を測るのによく使いますが、ポジティブな感情も逆転項目で入っているので、ハピネスを測るのに使う研究者もいますね。

矢野:心理学では、「ハッピー」と鬱のような「アンハッピー」な状態を別のものととらえます。しかし、物理学の常識では、「暑い」と「寒い」を別なものとは思わず、「温度」という単一の物差しで測ります。同様に、ハッピーとアンハッピーは同じ物差しで測れるべきだと私は考えました。特に、集団を構成する人は互いに関係し合っていますから、集計を個人ではなく、組織単位で行うことにプライオリティを置いたんです。

河合:要するに、その職場がハッピーな職場になっているか、どうか。

矢野:そうです。そのときは腕に着けるタイプではなく、胸に付ける名札型のウエアラブルセンサーを使ってもらって、身体運動のパターンも計測しました。そしたら、これがすごくって。ある特定の身体運動のパターンの数値が、幸福感のアンケート結果と極めて強く相関することがわかったんです。相関係数、0・94ですよ。

河合:スゴっ! 0.94って、ほぼ同じものと考えていい数字じゃないですか。どんな動きだったんですか? 笑いが多いから上下運動が激しいとか? あるいは、会話が多いから腕がやたらと動くとか?

矢野:(笑)いいえ、そうではありません。幸せな集団というのは、きれいな揺らぎ、ある種の、ベキ分布という分布になることがわかったんです。

河合:揺らぎ? ペギ? いや、ベキ? な、なんですかそれは?? 

(11月22日公開予定の後編「河合薫、日立AI幸福研究のボスに食い下がる」に続く)

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この記事はシリーズ「河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。