カジノを中心とした統合型リゾート(IR)を推進する法案(カジノ法案)が、12月6日の衆議院本会議で可決され、7日から参議院で審議入りした。
衆議院での審議時間は、わずか6時間足らずだった。
この点(審議の時間が十分でなかったこと)について
「国会軽視だ」
「審議不足だ」
という批判の声があがっている。
国会を言論の府であるとする建前からすれば、もっともな批判だ。
とはいえ、与党が3分の2以上の議席を占め、与党外からも賛成にまわる勢力(維新の会)が合流している以上、どんな手順で議論を進めたところで、採決の結果は動かない。与党側が、審議を尽くしたという外形を整えるために、それなりの審議時間を費やしたのだとしても、結果として法案が変更なしに可決されるのであれば、実質的に何が変わるわけでもない。
つまるところ、われら有権者が、政権与党に単独で議決可能な数をはるかに上回る議席を与えている以上、いま起きていることは、与党側の自由裁量権の範囲内のお話だ。別の言い方をすれば、現今の国会の状況は、先の選挙において、わたくしども選挙民が、与党側に対して「強引な手法で審議を省略して採決に持ち込んでもかまわない」というお墨付きを与えたことの、必然的な帰結なのだ。
そんなわけなので、私個人としては、採決について、いまさらどうこう言おうとは思っていない。
議席を持っている勢力が、議席数に相応する権力を振り回すのは、制度上、仕方の無いことだ。
ただ、法案成立に至る過程が正当であるのかどうかということとは別に、現在審議されている法案の中味に関しては、私なりに色々と思うところがある。今回はそれを書いておくことにする。
私が賛成しようが反対しようが、それが、法案の内容や成立時期に影響するわけではないことはよくわかっている。それでも、現在、自分のアタマの中にある考えを書いておくことには、一定の意味があると思っている。というのも、たとえば10年後に、この法律がこの国の姿を変えている時点から振り返って読み返してみれば、これから私が書くことは、それなりの意味を持っているはずだからだ。
いまのうちに書いておけば、あとになって
「ほら、オレの言っていた通りじゃないか」
と言うことができる。
その10年後の繰り言に説得力を与えるために、いまから布石を打っておくということだ。
私がカジノ解禁法案に反対する主たる理由は、この法案が、「統合型リゾート(IR)整備推進法案」というその名称が示唆している通り、賭博のもたらす弊害から目をそらして、賭博が生み出すであろう利益と権益だけを手に入れようとする人々が立案した絵空事であるように見えるからだ。
「統合型リゾート」という名称は、その中核がカジノである点を意図的に隠蔽(でなければ黙殺)した言い方に聞こえる。
「統合型」という言葉だけでは、何と何を統合するのかがはっきりしない。
が、実質的にそれは「飲む」「打つ」となにやらの統合になるはずだ。
ヘタをすれば、もっとヤバいものを含んだ「なんでもアリ」の「インテグレート」になる可能性をはらんでいる。
その種の、これまでわが国には存在していなかった大掛かりな「悪場所」を新設するために、私たちの国会は、あえて法律を変えてまで環境を整えようとしている。
30年前の日本であれば、こんな法律が国会を通過することはあり得なかった。
というよりも、検討すらされなかったはずだ。
というのも、わが国の経済が成長過程にあり、国民と企業が、自分たちの国の成長と繁栄を信じていた時代なら、賭博場のもたらすであろう利益や海外の賭博系企業による資本投下をあてにするまでもなく、自分たちの自前の力で遊休地の開発を立案し、独自に投資を募って、新しいプランを実行することができたに違いないからだ。
ところが、現在の日本には、巨大な投資案件を実現する力が無い。
ひとつの街を丸ごと再開発するような大きな絵を描ける人間もいなければ、それだけの規模の計画に投資しようという企業も無い。国や自治体にも巨大なプロジェクトを立ち上げる予算は無いし、それ以前に巨額の公的資金の支出を許す世論がはなから期待できない。
カジノを誘致する計画は、おそらく、こうした苦境から発想されたものだ。
要するに、国内である程度確実な利益を当て込める考えがほかに浮かばないからこそ、「観光立国」、及びその目玉としてのカジノ、というプランが浮上してきたということだ。
ホテルやゴルフ場や各種遊戯施設を含む統合的な一大リゾート施設を立ち上げるのだとして、その資金を調達するために、われらがカジノ議連は、中核にカジノを誘致することと引き換えに、海外の賭博資本からの投資を引き入れるプランを立案したのである。なんともなさけない投資計画ではないか。
それでも、もし仮に、彼らの思惑どおりに、海外からの巨大な資本を集めることに成功し、まんまと夢のリゾート施設が建設できるのであれば、それはそれでうまい話なのかもしれない。でもって、その夢の統合型リゾートが、海外からの観光客を誘引することに成功し、カジノから上がる収益を起爆剤に、国内の観光が活性化し、最終的に日本の経済が回転するようになれば万々歳ということなのだと思う。
しかし、そんなふうに簡単に話が運ぶとは限らない。
なにより、カジノの収益は、煎じ詰めれば「客の負け分」と等価なものだ。
とすれば、その利益をそのまま経済の活性化に寄与する好循環の資金として無邪気に加算するわけには行かない。
必ず、収益があがった分と同じだけのしわ寄せが、マイナス分としてどこかに害を及ぼすはずだからだ。
自分の足を食べたタコが大きくなれないのと同じ理屈で、賭博による経済効果は必ず相殺される。
それでも、
「いや、賭博客が外国人なら自国の経済にはマイナスにならない」
という計算の目論見は、あるいは成立するかもしれない。
しかしながら、外国人観光客のバクチの負け分を外資として計上するみたいな経済運営が、少子化とはいえこれだけの人口を持つ大きな国を、長い目で見て繁栄させるものなのだろうか。
私は、疑問だと思う。
でなくても、外国人の負け分で国民を食わせるみたいな絵図を描く政治家を、私は尊敬しない。
カジノに投資した海外資本の振る舞い方も考慮に入れなければならない。
彼らとて、投資をする以上、利益の回収を考えていないはずはない。
というよりも、胴元は、確実な利益が見込めると考えたからこそ、投資を申し出たわけで、そう考えれば、カジノから上がる収益のかなりの部分は、カジノの開帳に一枚噛むことになる海外のカジノ業者が持って行くはずだと考えなければならない。
してみると、カジノ法案は、わが国の土地を海外の賭博開帳業者に売り渡すための法律だったということになりかねない。
当然、土地の仲介をした業者はカスリを取るのだろうし、渡りをつけたビジネスマンや関係者にも権益のうちのいくらかは渡るはずだ。が、国民経済が潤うのかどうかはわからない。
結局、めぐりめぐった取引の果てに、いわゆるひとつの“売国”という作業が果たされるだけなのかもしれない。
私は、それを危惧している。
賭博には当然のことながら固有のリスクがある。
そのうちのひとつが、昨今よく言われる「ギャンブル依存症」だ。
このリスクについて
「全国民にカジノへの来場を強制するわけじゃあるまいし、自分の意思で賭博場にやってくる人間が、自己責任でカネを賭けて、己の才覚で負けることに、どうしていちいちお国が責任を負わなければいけないのか」
「それこそ自業自得じゃないか」
という意見があることは承知している。
私自身、大筋ではおっしゃる通りだと思っている。
博打は、自己責任の遊びだ。
合法的な賭博で、どこの誰がいくら勝とうが負けようが、その結果は、基本的には本人が引き受けるべきものだとも考えている。
とはいえ、その大原則とは別に、ギャンブル依存症についてその現状を知っておくことは、無駄なことではない。
これについては、実態を知らない人があまりにも多い。
私も、つい最近まで、詳しい事情を知らなかった。
ある程度知識を得たのは、つい先日、ASK(こちら)というアルコールをはじめとする依存性薬物の問題に取り組んでいるNPO法人のイベントをお手伝いした縁からだ。
このASKは、アルコールの問題のほかにギャンブル依存の問題も扱っている。
で、メンバーの中には、ギャンブルの問題をかかえている当事者や家族が数多く含まれている。
その人たちの話をいくつか聴いて私が理解したのは、アルコールと同じく、ギャンブルも、基本的には自己責任と言いながら、その実、誰にとっても人生を丸ごと台無しにするリスクをはらんでいるということだった。
実際に、ギャンブルにのめりこむあまり、失業し、破産し、あるいは、離婚に至り、最終的に自死を選ぶに至った人々の数は、われわれが考えているよりずっと多い。そういう個々のエピソードや顛末を聞くにつけ、ギャンブルのリスクを甘く見てはいけないと、気持ちを引き締めた次第だ。詳しくは、ASKのホームページを辿ってみてほしい。背筋の寒くなるお話にいくつもめぐりあえるはずだ。
とはいえ、依存症の話は、身内に関係者のいない人たちには、何度話しても、なかなかわかってもらえない。
このお話(依存症の話)が理解してもらいにくい理由は、酒もギャンブルも、多数派の社会人にとっては致死的な害悪ではないというところにある。
逆に言えば、多くの人々は、自己責任の範囲内で、酒やギャンブルのリスクと付き合えているということでもある。
ということは、「少数の特別な人間だけがギャンブルで身を持ち崩し酒で身を滅ぼしている」ということでもあるわけで、これぞまさに「自己責任」の物語そのものに見える。
つまりなんというのか、このお話は、
「ごく少数の、特別に意志が弱かったり、人並み外れて自制心を欠いていたりする、どうにもだらしのない惰弱な人々だけが、ほら見ろ言わんこっちゃない、ギャンブルや酒のせいで人生を踏み誤っているぞ」
という筋立ての、カタにハマった悲喜劇にしか見えないわけで、だからこそ、外部の人間からは
「自業自得じゃね?」
「っていうか、そういうダメな遺伝子は早めに滅びた方が人類一般のためには良いってこった」
「ギャンブルで身を滅ぼすヤツってさ、仮にギャンブルが無くても、たとえば女に振られただけでヤケになって包丁振り回すとか、試験に落ちたから学校に火をつけるとか、要するにそういうヤツなわけだよね?」
「つまりアレだ。包丁が悪いんじゃなくて、包丁で人を切る人間が悪いというのと同じで、ギャンブルが悪いんじゃなくて、ギャンブルで身を滅ぼすヤツが悪いってことだろ?」
という調子で簡単に片付けられてしまうのである。
であるから、ギャンブル依存やアルコール依存は、いつまでたっても、本人の意志の薄弱さによる自己責任の物語という決めつけから逃れられない。
こういう時、「自己責任」という言葉は、人間が人間を見捨てる際の魔法のキーワードになる。
でも、実際に何人かに取材してみればわかることなのだが、酒にしてもギャンブルにしても薬物にしても、依存は、必ずしも人格や性格の弱さがもたらすものではない。むしろ「脳」の中にできる抵抗不能な回路が引き起こすものだ。そう理解するほかにどうしようもない、と、少なくとも私は、そう考えている。
実際に、趣味であれ食べものであれ交際であれ習慣であれ、何かに嗜癖する傾向は、あるタイミングで、万人に定着し得る。依存は時と場所を選ばない。人も選ばない。誰もが何かに嗜癖する可能性を持っている。
依存が、脳にビルドアップされる「回路」である以上、どういう機序でそれができるのかはともかくとして、誰の中にでも、ある確率で発生するものだと考えなければならない。
アルコールの場合は、依存に至る経路には、持って生まれたアルコール分解酵素の組み合わせが強く関連していると言われている。何らかの遺伝子がかかわっているとも言われている。ギャンブルの依存についても、脳内物質の分泌が作用していることはおそらく間違いない。
いずれにせよ、リスクは万人にある。
もっとも、依存の問題を、アレルギーの問題と同列に考える人たちもいる。
「一部の人間にとって有害だから禁止しろという理屈なら、蕎麦にだってアレルギーの持ち主はいるんだから蕎麦を禁止しろっていう話にならないか?」
「ギャンブルだってアルコールだって、普通の人間にとっては身を滅ぼすほど有害じゃないわけなんだから、要するに依存症の人間が近づかないようにすればそれで良いんじゃないのか?」
たしかに、食物アレルギーをめぐるリスクの話と、薬物(およびギャンブル)依存の話はとても良く似ている。
「多数派にとって無害なものが少数者にとって有害である何か」
というふうに分類すれば、ひとつの同じ問題の別のバリエーションに過ぎないようにさえ思える。
しかし、
「多くの人々にとって、欠くべからざる栄養素であり、社会全体にとって有益かつ重要な産業の一部分である一方で、一部の人々にとって有害に作用する物質」
である食物と、
「多くの人々にとっては、小さな害しかもたらさないが、一部の人々には甚大な被害をもたらす娯楽」
であるギャンブルは、やはり別に扱った方が良いと私は考える。
少なくとも、現状では非合法なカジノ賭博をあえて合法化することのリスクについては、最大限に慎重に考えるべきだと思う。
最後に、あまり本質的なポイントではないにもかかわらず、最も盛大な反論が予想されるパチンコの問題について一言しておく。
「パチンコみたいな露骨な賭博がこれだけの規模で横行している以上、いまさらカジノがいくつかできたところで何が変わるっていうんだ?」
「むしろ、合法賭博としてお国が運営するカジノ賭博ができた方が、三店方式で運営されている明らかに欺瞞的な脱法賭博であるパチンコが蔓延してる現状よりはずっと健全化するんじゃないか?」
という、ご意見は、それぞれにもっともだと思う。
実際、偽装賭博としてのパチンコがお目こぼしされている現状は、著しく欺瞞的だと思うし、そこに集中している利権や権益には、ギャンブル依存とは別次元の闇が幾重にもかかわっているとも思っている。
ギャンブル依存に関しても、パチンコの害悪は非常に深刻だ。
ただ、それはそれとして、パチンコが最悪だからという理由で、それと別立ての悪徳があってもかまわない理屈は、少々乱暴だと思う。
脱法的な賭場をツブすのに適法な賭場が必要だというお話も、理屈に合わない。
適法な賭場ができればできたで、脱法的な賭場がさらに活性化すると考える方がおそらく実態に近いはずだ。
なんとなれば、賭博の味を覚えた人間は、賭博の種類を問わず、その魅力に取り憑かれるものだからだ。
「脱法賭博ではない正々堂々の賭博なのだから、パチンコよりマシ」だという意見にも、私は半分しか賛成できない。
お国から免許のおりている、正々堂々の、おシャレで、ハイソっぽくて、知的で、スタイリッシュで、デートコースにもバッチリな紳士淑女の社交場ライクな賭場ができたら、それはそれで、別ルートのリスクが拡大する。
パチンコの良くないところは、欺瞞的で、不潔で、うるさくて、うさんくさくて、タバコくさくて、ダサくて、おっさんくさくて、貧乏ったらしいところだと思うのだが、そういうふうにひとっかけらもおしゃれじゃなくて、若い連中が憧れる要素を備えていないところが、逆に言えば、パチンコのある意味での安全さでもあるわけで、そういうふうにダサいからこそ、パチンコは、おしゃれな若い女性を誘引できずにいる。
もし、おしゃれできらびやかで外国人観光客を大喜びさせるような素敵なカジノ空間ができたら、その素敵なスペースは、これまで、パチンコなんかには見向きもしなかったタイプの人々を大量に呼び寄せるはずだ。
もちろん、全員がギャンブル依存に陥るわけではない。
でも、ほとんどの人間は多少なりとも負けるわけだし、一部の人々は、全人生を台無しにしてまう。
そして、大切なのは、誰もが「一部の人間」になり得るということだ。
誰がそれになるのかは、誰にもわからない。その点では、博打と同じことだ。
別の考え方もある。
もし仮に「愚民税」という税金があるのだとしたら、それはギャンブルかアルコールを通して徴税されることになるところのものなる。
そのデンで行けば、この度のカジノ解禁法案は、愚民税の増税案と考えることができる。
「オレは愚民じゃないから大丈夫だ」
と考える人々は、この法案に賛成する。
で、そう考えている人々のうちの一部が、確実に税金を払うことになる。
胴元は永遠に負けない。
決して客の都合を主体にしているわけじゃない。(阿佐田哲也)
全国のオダジマファンの皆様、お待たせいたしました。『超・反知性主義入門』以来約1年ぶりに、小田嶋さんの新刊『ザ、コラム』が晶文社より発売になりました。以下、晶文社の担当編集の方からのご説明です。(Y)
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
安倍政権の暴走ぶりについて大新聞の論壇面で取材を受けたりと、まっとうでリベラルな識者として引っ張り出されることが目立つ近年の小田嶋さんですが、良識派の人々が眉をひそめる不埒で危ないコラムにこそ小田嶋さん本来の持ち味がある、ということは長年のオダジマファンのみなさんならご存知のはず。
そんなヤバいコラムをもっと読みたい!という声にお応えして、小田嶋さんがこの約十年で書かれたコラムの中から「これは!」と思うものを発掘してもらい、1冊にまとめたのが本書です。リミッターをはずした小田嶋さんのダークサイドの魅力がたっぷり詰まったコラムの金字塔。なんの役にも立ちませんが、おもしろいことだけは請け合い。よろしくお願いいたします。(晶文社編集部 A藤)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。