毎年思うことだが、正月が短くなっている。

 はじめにこのことを思ったのは、おそらく10年ぐらい前……と、書いてしまってからあらためて考え直してみるに、これは10年前どころの話ではない。私が正月の短縮化傾向に思い当たった最初の機会は、30年は昔の話だったはずだ。

 なるほど。

 私の脳みそは、どうやら、はるか昔のできごとや記憶を、なんでもかんでも「10年前」というふうに決めてかかる省略術を身に着けはじめている。このことはつまり、私が、10年以上前の経験について、真面目に考える気持ちを失いつつあることを意味している。

 とはいえ、実際のところ、30年前の出来事であろうが、15年前の記憶であろうが、私個人にとっては、どっちみち「昔のこと」であるという意味で大きな違いは無い。このあたりのあれこれを厳密に峻別してみたところで、私のクオリティー・オブ・ライフのどこかの部分が具体的に改善されるわけでもない。だからこそ、年寄りは、30年も昔の話を「ちょっと前」と言い、5年前に会った人間の話を「こないだ」のできごととして説明するのであって、私もまた、そういうでたらめな爺さんの領域に片足を突っ込んでいるということなのであろう。

 ともあれ、30歳になるかならないかの頃、当時親しく行き来していた仲間とのやりとりの中で

「なんだか、最近正月が短くなってないか?」

 という話をしたことは、なんとなくおぼえている。その時は

「だよな。ガキの頃は1月の半ばまでは正月気分だったけど、いまはせいぜい七草までだからなあ」

 といった感じの、いまから思えばなんとものんびりした返事が返ってきたものだった。

 現在の正月は、とてもではないが七草まではもたない。
 せいぜい三が日いっぱい。昔の感覚で言う「街がすっかり静まり返って、通りに人通りが途絶える」感じの、本当に正月らしい正月は、元日限りで打ち止めだ。

 その、1年のはじめの元旦にしたところで、コンビニは前年から引き続いて営業しているし、スーパーも家電量販店も、平常と変わることなく、午前10時には店を開けるタイムテーブルで動いている。2日になればチェーン展開している飲食店が揃って営業を再開する。ということは、まるまる1週間おせち料理を食べてすっかり食傷した若い連中が、松が明ける頃にラーメン屋に行列するみたいな日本の正月風景は、既に昔話になってしまったということだ。

 正月が短くなったことは、われわれの暮らしが便利になったことの裏返しでもある。

 ずっと昔、正月気分が成人式(昭和の時代、成人の日は1月15日に固定されていた)までのんべんだらりと続いていた時代、われわれは、必ずしも休みたくて休んでいたのではなかった。

 店が開いていなかったり、世の中が型通りに動き始めていないから、仕方なく家の中でくすぶっているという事情が前提としてまずあって、そんなこんなで、生産や消費にかかわる一切を一時的に断念せざるを得ないというのが、その昔のお正月という現象の実相でもあった。

 であるからして、三が日を過ぎてしまうと、正月の停滞と非能率は、若い人間にとっては、むしろ苦痛だった。

 テレビはつまらないし、出かけて行く先も無い。まして、携帯電話の無かった時代は、友だちとも簡単には連絡がつかなかった。

 なので、三学期が始まって学校に出かけなければならない日がやってくると、それはそれで奇妙な解放感のようなものを味わったものだった。逆に言えば、昭和の中期ぐらいまで、正月は、経済と社会が停止してしまう監獄みたいな期間だったわけで、その中に閉じ込められた子供たちは、実は、退屈で死にそうな思いをしていたものなのである。

 当時の鬱屈を思えば、現在の、便利で活発で刺激に満ち溢れた正月の方が、ずっと好ましい。実際、昭和40年代までのあの停滞した正月に戻されたら、私は間違いなくうんざりするだろう。

 おせち料理は、どれもこれもカタくてしょっぱくて乾いていて食えたものじゃなかったし、羽根つきやら凧上げが特段に面白かった記憶も無い。冬休みは、ありていに言えば、ただただ退屈だった。

 お正月に関する楽しい記憶は、お年玉に尽きる。現金だけが救いだった。してみると、お年玉がなかったら、正月は、1年中で一番イヤな季節だったかもしれない。

 それでもなお、私が、昭和の時代の正月をなつかしく思い出すのは、正月そのもののあり方というよりも、暮らし方全般の話として、現在のこの平成の世の中のあまりといえばあまりにせわしない行き暮れに、疲労を覚えはじめているからなのかもしれない。

 便利なのはありがたいことなのだとして、その便利な暮らしを維持するために、誰もが皆、息を抜かずに励んでいなければならない設定に、うとましさを感じているわけだ。

 便利な世の中の利便を享受する者として、私たちは、どんな嵐の夜であっても常に必ず店を開いている24時間営業のコンビニのある街で暮らし、その街の中の常時インターネットがつながっている部屋で寝起きしている。

 これはこの上なく便利な暮らしぶりだし、だからこそ、一度この生活を知ってしまった以上、後戻りがほぼ不可能であることも、承知している。

 仮に、ひと月のうちに1日か2日、どうしても眠れない夜があったのだとしても、動画配信サービスのメニューを行ったり来たりしているうちに、じきに朝がやってくる。とすれば、眠れぬ夜もそんなに悪いばかりのものではない。いずれにせよ、昭和の時代の眠れない夜のやり場のなさとは、くらべものにならない。

 ただ、この生活を支えるためには、誰かが真夜中のレジに立って働いていなければならない。ネットやら動画配信やらのメンテにだって労働力は必ず要るし、休まない設定の何かを動かすためには、寝ないで見張りをしている人間が一定数確保されていなければ現場が立ち行かない。

 逆に言えば、そうやって、元日の朝から映画をハシゴしていたり、真夜中のアマゾンでスニーカーを物色していたりする人間のための市場を開拓しておかないと、われわれの社会の経済成長は維持できないわけで、このことは、とりもなおさず、昔だったら眠っているはずの時間に、何割かの人間が目をさまして動画を渉猟していたり、買い物をしていたり、FX市場をウォッチしていたり、ゲラのPDFにアカを入れたりしているからこそ、深夜の光ファイバーケーブルにデータを供給する資金が流動しているということでもある。

 してみると、正月のような社会的空白は、どこからどう見ても、消滅せざるを得ない。SNSを通じて「あけおめ」という挨拶を交換し合えば、とりあえず正月のミッションはそこで終わる。あとは、新しい年が始まったことにして、新しい仕事と新しい娯楽を始めなければならない。

 紅白歌合戦が面白くないのも、あれは紅白を作っている人たちが無能だからではない。

 基本的には、視聴者である私たちの側が、昔ながらのおおどかな娯楽を楽しむに足る精神的な空白領域を喪失していることが、あの番組の迷走の原因で、制作側の人々とて、視聴者の要求水準が以前とは違った水準にあることがわかっているからこそ、爪先立ったタイムテーブルでショーを進行しているのであって、そういうことの積み重ねが、あのどうにも見るに忍びない台本を現出せしめたのである。

 紅白の台本は、節目ごとに「いい話」を挿入することでコント部分のお笑いに水を差す一方で、随所随所にお笑いをはさむことで、せっかくの「いい話」の余韻を台無しにしているテのものだった。だから、画面のこちら側から虚心に見る限りでは、支離滅裂の空騒ぎにしか見えない。でなくても、いったい何を伝えたいのかがうまく理解できなかった。

 あの台本を書いた人間は、たぶん1人ではない。
 大勢の人間が、総掛かりで、よってたかって部分部分を洗練した結果が、あの木に竹を継いでアタマからセメントをぶっかけたみたいな無残な建造物になったのだと思う。

 全体の流れとは別に、コントの小芝居を考える担当の人間はひたすらに部分的な笑いを追求し、感動を提供する係の担当者はただただまっすぐに良い話を散りばめにかかったのだと思う。

 個々の担当者は、自分の担当部署について、あるいは、それなりに良い仕事をしたのかもしれない。
 でも、結果として出来上がってきた全体は、ああいう出来物に落着した。

 不幸な結末だ。
 紅白のような巨大番組は、必ずああいうことになる。
 なんだかおせち料理に似ている。

 どういうことなのかというと、おせち料理をおせち料理たらしめている思想の中にある、色どりを重視し、装飾に気を配り、前例の踏襲と伝統の遵守をこころがけ、縁起を担ぎ、日持ちに配慮し、卓上に並べた時の押し出しの強さと重箱内の政治的バランスに心を砕くあまり、肝心の食べ物としての味わいを二の次にしているどうにも自意識過剰な事大主義のありようが、紅白の演出思想と瓜二つだということだ。

 もっと言えば、私たちが暮らしているこの社会自体、仕事と言わず、サービスと言わず、政治と言わず、おしなべて、紅白歌合戦ならびにおせち料理化しつつあるのかもしれない。ゴテゴテと細部を飾り、あらゆる余白にありったけのあれこれを詰め込んだ結果、われわれは、隅っこばかりが充実した世にも不味い重箱料理を作っているのである。

 おそらく、日本の正月を休めない季節に変貌させてしまった21世紀の思想も同じところから来ている。すなわち、あらゆる場所にゴテゴテとありったけの要素を詰め込みにかかる偏執的なサービス過剰の思想が、われわれの社会を誰もくつろげない岩盤浴の暗がりみたいなものにしている。そういうことだ。

 都知事が「都民ファースト」なるキャッチフレーズを連呼し、ハンバーガーチェーンが「スマイル0円」というスローガンを繰り返すのは、われわれが過剰なサービスを求めるからでもある。

 一見、サービス無限極大化思想は、顧客のためには素晴らしいことであるように見える。

 が、サービスはお互いさまだ。
 人が人であり社会が社会である限りにおいて、他人に要求したことはいずれ自分自身へのノルマとして返ってくる。

 早い話、サービス(奉仕)が提供される場所には、必ずサーヴァント(下僕)がいる。

 ということはつまり、サービスが極大化されねばならず、しかもそのサービスの対価が常に無料であらねばならないのだとすると、サーヴァントの労働はどこまでも奴隷に近づかざるを得ない。

 かくして、私たちは、自分たち自身を奴隷化することで過剰サービス社会を支えることになる。
 なんと皮肉な結末ではないか。

 出版の世界の正月は、幸か不幸か、昔と変わらず、きちんと一定期間停滞することになっている。
 理由は、最後の砦である印刷所が動かないからだ。

 10年ほど前に聞いた話では、外国人労働者に多くを負っている印刷工場は、そうそう年中無休で輪転機を回すわけにも行かないということだった。いま現在、その状況がどう変わっているのか、残念だが、私は事情を把握していない。

 あるいは、印刷機が動くとか動かないということとは別に、出版への需要自体が右肩下がりになっている事情があるのかもしれない。
 雑誌に限った話をすれば、おそらく、正月に印刷機を動かす意味は無いはずだ。

 ん? 
 ということはつまり、正月は、停滞した業界にだけやってくるものになっているということなのだろうか。
 よくわからない。

 ともあれ、私たちの国は、年中正月みたいにして過ごす不景気な世の中よりは、盆も正月も無く遮二無二働く暮らしの方がありがたいと考える人間が多数派を占めている社会で、だからこそ、われわれは、紅白出場歌手みたいなテンションで1年を頑張り切っている。

 あのせわしない紅白を見て、
「よし、来年もがんばろう」
 と思うタイプの人たちがこの国を支えている。
 おそらく、そういうことなのだと思う。

 私個人は、紅白への出場を辞退したSMAPの面々の決断を支持する。
 オンリーワンであるためには、その前にまずロンリーワンである覚悟を持たなければならない。まあ、私見だが。

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今年もニッチな読者の皆様のため、本欄を初め愉快な記事を掲載します。

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