純愛を描いた芸術作品か、皇帝や宗教を冒瀆(ぼうとく)する愚作か――。ロシア最後の皇帝ニコライ2世とバレリーナの恋愛を描いた劇映画が大きな社会論争を引き起こし、大統領選を控えたプーチン政権も対応に苦慮している。

映画「マチルダ」の試写には多くの市民が集まった(写真:ロイター/アフロ)
映画「マチルダ」の試写には多くの市民が集まった(写真:ロイター/アフロ)

 ロシア社会で今、国民の関心を集めているのが新作映画「マチルダ」をめぐる論争だ。19世紀末、皇帝即位前のニコライ2世とバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤのロマンスを主題にした劇映画だが、宗教団体や民族主義組織などから上演禁止を求める声が上がり、劇場公開が危ぶまれる事態となったからだ。

 監督のアレクセイ・ウチーチェリ氏がもともと、この映画の制作を発表したのは5年前の2012年。ロシアの映画基金が財政支援を約束し、同監督率いる映画スタジオ「ロック」が2014年から撮影を始めた。音楽はマチルダが実際に踊っていたサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場の交響楽団が担い、豪華絢爛(けんらん)な装置や衣装をそろえるなど、かなりの資金と労力をかけた。専門家の間では以前から、歴史大作への期待が高まっていた。

 半面、「マチルダ」の制作や上映に反発する動きは、1年ほど前から散見されるようになった。一部の宗教団体や民族主義組織などが「反ロシア、反宗教をあおる映画」と非難し始めたのだ。ウチーチェリ監督自身は当時、「映画はまだ制作中で、まだ誰も一場面すらみていない。その段階で(映画の内容を)評価することはできないはずだ」と聞き流していた。

 抗議行動が激しさを増したのは、今年10月末から劇場で一般公開するという日程が決まってからだ。上映禁止を求めるデモや集会だけでなく、今年8月末にはウチーチェリ監督の事務所が入るサンクトペテルブルクの映画スタジオに火炎瓶が投げつけられる事件が起きた。

 さらに9月に入ると、今度はエカテリンブルクで「マチルダ」の上映を予定していた映画館に男が車で突っ込み、劇場内のロビーを全焼させた。モスクワではウチーチェリ監督の弁護士の事務所前で、何者かが乗用車2台に放火する事件が起きた。現場には「『マチルダ』は燃やすべきだ」と記されたチラシが残されていたという。映画館に対する脅迫も相次ぎ、ついには大手映画館チェーンが一時、「観客の安全が確保できない」と上映中止を表明する事態となった。

「ロシア最後の皇帝の愛人」の史実めぐり対立

 即位前のニコライ2世とマチルダのロマンスは史実だ。ロシア紙によれば、ソ連時代のバレエ関連の書籍にはマチルダについて「ロシア最後の皇帝の愛人」と記されていた。マチルダ自身、1950年代末に自叙伝を出版し、ニコライ2世との関係を詳細に明らかにしている。

 いわく、2人を引き合わせたのは皇帝アレクサンドル3世。1890年、皇帝はコンサート終了後の夕食会で、当時22歳だった息子(ニコライ2世)の隣に、17歳だったバレリーナのマチルダを座らせた。そしてこう語った。「顔を見るだけだ。恋の戯れは許さないぞ」……。

 「最後の皇帝のロマンス」はソ連時代、バレエ関係者に限らず多くの国民が知っていたという。それがなぜ、今になって問題視されるようになったのか。

 ちょうど100年前の1917年、ロシアでは2度革命が起きた。最初の「二月革命」でニコライ2世は退位に追い込まれた。さらに「十月革命」ではボリシェビキが権力を奪取。ニコライ2世一家は翌1918年にエカテリンブルクで全員銃殺され、300年以上続いたロマノフ王朝の歴史が名実ともに幕を下ろした。

 ソ連時代は「独裁者」の汚名を着せられたニコライ2世だったが、ソ連崩壊とともに一家を襲った悲劇や残虐な処刑の実態が明らかにされ、その評価も一変した。信教の自由が公に認められ、社会的な影響力を一気に増したロシア正教会は2000年、ニコライ2世とその家族を殉教者とみなし「聖人」とした。エカテリンブルクでは一家が銃殺された場所に教会が建てられた。

 一般の国民の間では確かに、100年も前に退位したニコライ2世が必ずしも積極的に評価されているわけではない。それでも政府系の全ロシア世論調査センターが今月実施した世論調査では、ニコライ2世に「好感を覚える」との回答が60%に上り、十月革命を主導したレーニンやスターリンよりも高かった。

 ロシア社会の受け止め方の変化も、「わざわざ過去の色恋沙汰を映画で取り上げてニコライ2世の名誉を傷つけるべきではない」との非難の声につながっているようだ。特にロシア正教会の関係者は、「聖人」であるニコライ2世の情事に焦点を当てた映画は「信者の心情を侮辱する」と反発。キリル総主教も芸術家の自由な表現の権利を認めつつも、「史実には誠実に向き合うべきだ」とクギを刺している。

元「美しすぎる検事総長」が批判の急先鋒に

 「マチルダ」をめぐっては、大きな社会論争を引き起こすようになった理由がもうひとつある。真っ先に映画非難の声をあげ、上演を禁止すべきだと執拗に訴えている人物がナタリヤ・ポクロンスカヤ氏だからだ。

 ポクロンスカヤ氏は2014年春、ロシアによるウクライナ領クリミア半島の併合時にクリミア共和国の検事総長を務めた。「美しすぎる検事総長」として世界で注目を集めた女性で、アニメ風の似顔絵も盛んに出回った。日本でも話題になったので、思い出す方が多いかもしれない。ロシアでも当然、人気が高い。

 2016年9月の連邦議会の下院選で、政権与党「統一ロシア」の候補者として立候補して当選。現在は下院議員を務めている。まだ新人議員とはいえ、知名度抜群の同氏が「マチルダ」批判の急先鋒(せんぽう)に立っているとあって、国民の関心が倍加しているわけだ。

 そのポクロンスカヤ議員は保守系の民族団体や宗教団体の陳情もあって、昨秋以降、あの手この手で映画上映の阻止を画策してきた。まずは「信者の心情を侮辱し、人種・民族間の不和をあおる」恐れがあるとして、映画「マチルダ」をその観点から検閲するよう検事総長に求めた。

 その後も、ウチーチェリ監督の資金調達や国家補助金の利用法で不正の疑いがあるとして調査を求めたり、「映画は公開すべきではない」とした専門家による鑑定結果を提出したりした。さらに映画の公開に反対する国会議員や一般市民の署名を多数集めて文化省、内務省などに提出したほか、「映画には過激主義的な素材が含まれている」と自らの主張を訴える検事総長宛てのビデオまで作成して公開した。

 対するウチーチェリ監督側も、ポクロンスカヤ議員による誹謗(ひぼう)中傷の中止、脅迫を続ける一部活動家の処罰などを求めてきた。当局側はウチーチェリ監督のスタジオの捜索なども実施したが、ポクロンスカヤ議員が主張するような監督の「違法行為」は今のところ見つかっていない。

プーチン大統領は次期大統領選を控え中立

 では政権の対応はどうか。プーチン大統領は今年6月、国民との直接対話のテレビ番組に出演した際、「(ウチーチェリ)監督は人間として尊敬している。とても愛国主義的で、才能のある人だ」と高く評価した。一方でポクロンスカヤ議員についても「彼女には自分の立場を主張する権利がある」とし、2人の論争には介入したくないと語っていた。

 かつてロシアがクリミアを併合した際、ポクロンスカヤ氏はプーチン政権の行動を擁護する「広告塔」の役割を担った。また、国営テレビがプーチン大統領の業績をたたえる特別番組を制作した時も、国民人気の高い同氏が一部出演していた。大統領としても恩義を感じているのだろう。

 こんな経緯もあってか、大統領府はその後も原則として「中立」の立場を貫いている。ただし、大手映画館チェーンが上映中止をいったん決めたことなどを憂慮してか、政権内でもメドベージェフ首相やメジンスキー文化相らは監督擁護の立場を打ち出している。特に文化相は、映画公開を妨害する一部活動家の行動は「国家の文化政策や教会の威信を傷つける」と非難し、映画館の安全を守るよう治安機関に求めた。こうした発言や政権側の対応を受け、大手映画館チェーンも上映する方向に転換した。

 そして10月23日、全国公開に先駆けてサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で「マチルダ」の試写会が開かれた。ウチーチェリ監督は「我が国でやはり常識が勝利したことは喜ばしい」と表明した。しかし、劇場周辺は特殊警察が警護するなど物々しい雰囲気だったという。また、映画に出演した外国人俳優の多くが「身の危険を感じる」として舞台挨拶のための訪ロを拒否するなど、本格的な劇場公開後への不安を感じさせる試写会となった。

 ロシアでは宗教団体や民族主義組織に限らず、例えば過激な言動で知られるチェチェン共和国のカディロフ大統領なども「マチルダ」の劇場公開に反対する立場を鮮明にしている。

 プーチン政権としては来年3月の次期大統領選を控えるなか、自由な芸術活動を制限するような動きも、ロシア正教会の信者やポクロンスカヤ議員の支持者らを敵に回すような行動も取りたくないというのが本音だろう。「ロシア映画界で最大のスキャンダル」とされるマチルダ騒動が、何とか平穏なまま下火になってくれることを望んでいるのは間違いない。

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