日本中のメディアが選挙報道で賑わっている10月24日、日本外国特派員協会でひとつの記者会見が開催された。

 会見を開いたのは伊藤詩織さんという女性ジャーナリストだ。

 彼女は、この18日に、自身が経験したレイプ被害と、その被害事案をめぐる捜査や訴訟の顛末ならびに報道のあり方などなどについて書いた『Black Box(ブラックボックス)』(文藝春秋社)という著書を出版している。

 会見では、出版に至った経緯や、日本の社会でレイプ被害が無視されがちな現実について語っている(記事はこちら)。

 以下、簡単に経緯を振り返っておく。

 伊藤詩織さんのレイプ被害は、「週刊新潮」が今年の5月18日号で記事化したことで、大きな話題になった(「デイリー新潮」に載った記事はこちら)。

 記事内では、2015年に当時TBSの社員だったY氏が就職相談のために会食した20代の女性と性交渉を持ったこと、女性が、薬(デートレイプドラッグ)を飲まされてレイプされたと主張していること、一度は発行された逮捕状を当時の警視庁幹部が握り潰したことなどが報じられている。

 レイプに関する事実認定はとりあえず措くとして、性交渉を持ったことは、Y氏自身が認めている。記事内には、Y氏から被害女性にあてた「お詫び」のメールの写真が添えられている。

 逮捕状が発行され、それが直前に取り下げられたことについては、逮捕状の執行を止めた本人である中村格刑事部長(当時)が、週刊新潮の取材に対して

 「事件の中身として(逮捕は必要ないと)私が判断した。(捜査の中止については)指揮として当然だと思います。自分として判断した覚えがあります」

 と明言している。

 記事が出て約半月後の5月29日、被害女性は、名字は伏せたものの、「詩織」という名前を公表したうえで、司法記者クラブで記者会見を開いた。会見の中で、詩織さんは、準強姦容疑で書類送検されたY氏が嫌疑不十分で不起訴となったことを不服として検察審査会に審査を申し立てたことを明らかにし、あわせて、被害の実態を詳細に語った。

 なお、この詩織さんによる不服申立てに対しては、約4カ月後の9月21日、東京第六検察審査会が「慎重に審査したが、検察官がした不起訴処分の裁定を覆すに足りる事由がなかった」として、「不起訴相当」の議決を下している。

 ……と、以上の経緯を踏まえて、伊藤詩織さんが、この10月の18日に『Black Box』を出版し、24日に会見を開いたというところまでが、これまでに起こったことの概要だ。

 今回の外国特派員協会での記者会見は、ネット上ではそこそこに大きな注目を集めている。

 しかしながら、その一方で、テレビや新聞をはじめとするメジャーなマスコミでは、ほとんど記事化されていない。というよりも、ありていに言えば「黙殺」に近い扱いだ。

 今回は、この伊藤詩織さんのレイプ被害をマスコミが無視する理由について考えてみようと思っている。

 第一感で考えて、一般向けのメディアが、「レイプ」「強姦」「準強姦」といったタイプの言葉の字面や語感を忌避する感じはなんとなくわかる。特に子供を含むファミリー層が視聴する時間帯のテレビは、このタイプのあからさまな出来事を正面から描写する単語を嫌う。

 であるからして、私が子供だった当時から、テレビのニュースは、性犯罪については、単に「乱暴」と言ってみたり、「いたずら」と言い替えたりして、直接の言及を避けてきたものだった。

 現代に至ってなお、状況はそんなに変わっていない。
 ニュースは性犯罪の話題を避ける。

 テレビ画面の中では、レイプは存在しないことになっている。
 というよりも、2時間ワイドサスペンスドラマの中ではわりと頻出単語だったりするレイプという同じ言葉が、報道の番組の中では放送自粛用語になっているということだ。

 報道局所属のご清潔な記者のみなさんは、もしかすると品の無い言葉を使うと放送原稿が汚れると思っているのかもしれない。

 もっとも、そうした一般論とは別に、このレイプ事案に関しては、報道をはばかる独特な理由が介在している。

 その理由は、加害者と目されている元TBS社員のY氏の立場の微妙さから来るもので、なんというのか、実態としては、この人が二重のタブーに守られているということだったりする。

 メディアは知っていることのすべてを記事にするわけではない。
 たとえば、相手構わず喧嘩を売っているように見える週刊誌にも、「作家タブー」があると言われている。

 自社から書籍を出していたり、自分のところの誌面にエッセイや連載小説を書いている作家については、たとえどんなおいしいスキャンダルをつかんでも、それを記事化しない、ということだ。

 このタブーが、業界の仁義を通すための道徳律なのか、あるいは営業上の計算を反映した配慮なのかは、議論の分かれるところだが、ともあれ、どんなメディアにもそれなりのタブーがあるというのは確かなことだ。

 そんな中で、Y氏のケースは、おそらく「同業者タブー」ないしは「記者タブー」に抵触している。

 「タブー」という言葉を使うほど強い禁忌ではないにしろ、報道にたずさわる人間の間に、同業者の不祥事はあまり積極的に扱いたくない気分があることは事実で、その意味でY氏のやりざまは、記事にして面白がるにふさわしい出来事ではなかったということだ。

 もっとも、記者タブーのような露骨な身内びいきは、あるタイプの読者なり視聴者が最も強烈に批判しているところのものでもあるわけで、そういう意味では、記者の不祥事をお目こぼしにすることは、きょうび、簡単なことではない。

 特にネットメディアがそれなりの取材力と情報拡散力を持ち始めている昨今では、記者仲間が身内の恥を隠し通そうとすることは、メディアの信用を毀損する意味で、かえってリスクが大きい。

 ヘタに隠し立てをすると、「マスゴミ」という言葉を好んで使う一部のネット民の格好の餌食になる。
 これは、大変にまずい展開だ。

 思うに、Y氏の立場が独特なのは、マスコミ内部の記者タブーにひっかかっているだけでなく、メディア不信を抱いている「マスゴミ」告発者の多くが抱いている「政権タブー」にも微妙にひっかかっているところだ。

 どういうことなのかというと、本来ならマスコミの記者の不祥事を絶対に許さないはずのメディア嫌いのネット民たちが、Y氏に関しては、別の理由から告発をためらっているということだ。

 というのも、メディア不信を言い立てている人々は、多くの部分で、現政権のコアな支持者とカブっているからで、その人々の心情からすると、安倍さんの親しい仲間うちであった記者の不祥事を暴き立てることは、いかにも不都合だからだ。

 つい先日もほかならぬTBS本社前で、「TBS偏向報道糾弾大会・デモ」と銘打ったデモが行われ、一部報道によれば500人が集まったと言われている(こちら)。

 リンク先の記事に添付された写真の中で、デモ参加者の多くが日の丸を掲げていることからもわかる通り、昨今のメディア批判者には安倍氏のシンパが相当な割合で含まれている。ということは、彼らは、たとえ大嫌いなTBSの記者であっても、Y氏については糾弾をためらわざるを得ないのである。

 もうひとつ、Y氏のレイプ疑惑が黙殺されがちな理由は、それがあまりにも深刻な犯罪だからだ。

 こう言うと、意外に聞こえるかもしれない。
 深刻な犯罪の疑惑であるのなら、なおのこと大々的に報じるべきだと、そう考える人もたくさんいるはずだ。

 が、実際のところ、凶悪な犯罪の疑惑であればあるほど、気軽に記事にすることはできないものなのだ。

 というのも、少なくとも形式上は不起訴になっている刑事犯罪について、その疑惑を事実であるかのように書くことは、悪くすると名誉毀損で返り討ちに遭うリスクを伴う一大事だからだ。

 私自身、この文章を書くにあたって、件の元TBS記者については、実名を書かずに「Y氏」という表記を採用している。犯罪の事実関係そのものについても、あえて踏み込んで論じることはしていない。

 というよりも、「なぜ、レイプ犯罪が記事化されにくいのか」という、一歩外した視点で見直すことで、かろうじてこの問題を扱えているというのが実情なわけで、つまりは、誰かの犯罪について文章を書くことは、それほど厄介な仕事なのだ。

 Y氏もそこのところはよくわかっていて、検察審査会の議決が出たタイミングで、

 「今般の検察審査会の判断により、今後は私に関して誤った報道がなされることはないものと期待しております。万が一、私の名誉を傷つけるような報道が引き続きなされた場合には、そちらも法的措置の検討対象となることもご承知おきください。」

 というコメントを発表している(こちら)。

 ほとんど恫喝に近い響きを帯びた言葉だ。

 本人が「恫喝ではない」と言ったのだとしても、聞く方の耳に恫喝として聞こえているのであれば、それは恫喝で、つまりこれは事実上恫喝なのだ。

 コトが深刻であればあるほど、うかつなことは書けない。

 だからこそ、レイプ加害者のような、当事者の社会的生命を跡形もなく消し去ることになる事案については、間違っても憶測まじりの主張や当てずっぽうの推理を書くことはできない。それ以前に、そもそも文字にすることそのものを怖がるのが、文章を書く人間の偽らざる心情であるわけだ。

 レイプについて書かれた当事者は、事実であろうがあるまいが、いずれにせよ必死で抵抗する。

 とすれば、訴訟リスクはもちろん、様々な角度からの反撃を想定せねばならない。

 有名人のスキャンダルは、メディアにとっては良い商売になるネタだ。
 一方、有名人がメディア相手に名誉毀損やプライバシー侵害の訴訟を起こしても大きな対価は望めない。

 仮に裁判で勝っていくばくかの賠償金を取ることができたのだとしても、訴訟の過程を通じて私生活を暴露されるデメリットと比べて明らかに割が合わない。

 だから、有名人は訴訟を起こさない。
 だから、メディアは遠慮なくプライバシーを暴きにかかる。

 そして、だからこそ、山尾志桜里議員の外泊疑惑や、ベッキー嬢をはじめとする芸能人の不倫交際疑惑は、犯罪性が皆無であっても、大々的に報道され、後追いした各種目メディアによる徹底的な社会的制裁が発動されているわけなのだ。

 つまり、犯罪でもなんでもない、私的な交際に過ぎない婚外交渉疑惑が、確たる証拠が提示されていない(同宿の証拠は示唆されていても性交渉の証拠は示されていない)にもかかわらず、商業目的の雑誌で記事化され、推定有罪の人民裁判で裁かれている一方で、犯罪の可能性を強く示唆する複数の証拠を伴った凶悪な事件については、その可能性に言及することさえもがはばかられているわけなのである。

 毎度不思議に思うことなのだが、本当のことなのだからしかたがない。

 うちの国のメディアでは、犯罪でもなんでもない不倫がおいしい記事にされているかたわらで、明らかな犯罪である強姦やセクハラは記事にならない。つまり、些細な逸脱は盛大に断罪され、深刻な非道は見てみぬふりで放置されている。なんとバカな話ではないか。

 もっとも、単純な有名人のスキャンダルがメディアのエサになる一方で、権力を持った人間の性犯罪や性的な逸脱が見逃されがちな傾向は、どうやらうちの国に限った話ではない。

 ここしばらくハリウッドを騒がせている大物映画プロデューサーによるセクハラのスキャンダルを眺めるに、あらためてその感を強くする。高い地位にある人間のセクハラを告発することが、自立するリッチで利発な女が溢れているかに見えるハリウッドの中であってさえ、著しく困難な挑戦だということは、この2週間ほどの間に次々と登場した告発者の面々の豪華さを見ればよくわかる。

 というのも、告発しているメンバーの豪華な顔ぶれは、最初の告発者が声を上げるまでの10年以上の長きにわたって、名だたるハリウッドのセレブ女優や有名監督たちが、いずれもワインスティーン(ワインスタインと表記している人もいるようだが、まだ表記が固まっていないようなので、ここでは現地発音に近いカタカナを採用する)の横暴に黙って耐え、黙殺し、調子を合わせていたことを物語るものであるからだ。

 あれほどカネも名誉も力もある人たちが、それでも他人のセクハラには口出しできなかったことの重さに、暗然とせざるを得ない。

 逆に言えば、最初に猫のクビに鈴をつけるネズミがあらわれれば、後を続くのがそんなに難しい仕事ではないことを、ハリウッドの事件は教えてくれている。

 その、猫のクビに最初に鈴をつける役割を、ほかならぬ当事者である伊藤詩織さん、そして海外メディアの記者諸氏に担わせていることを、自分を含めたメディア関係者は、等しく恥じなければならない。

 オチはありません。
 記者諸君は各自考えてください。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

重すぎてオチも軽口も書けません。
今回は自重させていただきます。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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