パワハラやモラハラという言葉が定着して久しい。多くの企業は問題が起きないように様々な対策を講じているが、職場での人間関係をきっかけに精神を病んだり、自殺したりするケースが後を絶たない。

 昨年、大問題となった電通社員の過労自殺問題も、単に労働時間の長さだけが原因ではないだろう。どうやったら、組織の中の人間関係を健全に保つことができるのか。青少年運動の老舗であるボーイスカウトが導入した「セイフ・フロム・ハーム」という取り組みが注目されている。いったいどんな考え方なのか。増田秀夫・ボーイスカウト日本連盟理事に聞いた。

ボーイスカウトの世界組織は、子どもや関係者を危害から守るために「セーフ・フロム・ハーム」という取り組みを始めた。(写真:PIXTA)
ボーイスカウトの世界組織は、子どもや関係者を危害から守るために「セーフ・フロム・ハーム」という取り組みを始めた。(写真:PIXTA)

「危害から守る」、ボーイスカウトの教育

ボーイスカウトでは、「セーフ・フロム・ハーム(Safe From Harm)」という取り組みを始めているそうですが、それはどんな考え方なのでしょうか。

<b>増田秀夫(ますだ・ひでお)氏</b><br/><b>ボーイスカウト日本連盟理事</b><br/>1956年千葉生まれ。1983年日本大学理工学研究科修士課程修了。ナカノフドー建設に入り技術研究所勤務。一級建築士。この間、大学院で博士課程を修了した。1989年に秀総合設計事務所(本社・千葉県野田市)を設立し、代表取締役就任。<br/>ボーイスカウトには10歳の時に入隊し、スカウト歴50年。日本連盟副コミッショナーなどを経て、2016年日本連盟理事。セーフフロムハーム・安全委員会委員長を務める。
増田秀夫(ますだ・ひでお)氏
ボーイスカウト日本連盟理事
1956年千葉生まれ。1983年日本大学理工学研究科修士課程修了。ナカノフドー建設に入り技術研究所勤務。一級建築士。この間、大学院で博士課程を修了した。1989年に秀総合設計事務所(本社・千葉県野田市)を設立し、代表取締役就任。
ボーイスカウトには10歳の時に入隊し、スカウト歴50年。日本連盟副コミッショナーなどを経て、2016年日本連盟理事。セーフフロムハーム・安全委員会委員長を務める。

増田:スカウティング(ボーイスカウトの活動)というのは社会に役立つ人を育てることを目的とする運動ですが、子どもたちから大人の指導者まで多くの人たちが関与します。当然、人と人が交われば、そこには、いじめや虐待、パワハラ、セクハラといった様々な「ハーム」、つまり危害が生じる可能性があります。そうした問題が起きるのを排除するために、組織に関わる人たちが共通認識を持とうというのが、「セーフ・フロム・ハーム」を始めた理由です。

 スカウティングは100年以上前に英国で始まり、世界に広がった運動ですが、この「セーフ・フロム・ハーム」は米国や英国の連盟からスタートしました。それを日本に導入しつつあるわけですが、欧米的な問題と、日本の社会の現状にはかなりの差があります。日本に合った形の「セーフ・フロム・ハーム」になっています。

人間関係のあらゆる側面で、「問題」は起こり得る

子どもを様々な危害から守る、ということですか。

増田:もともと「チャイルド・プロテクション」とか「ユース・プロテクション」と呼んでいましたが、成人と子どもの関係だけでなく、子ども同士、指導者同士、指導者と保護者といった人間関係すべてにおいて、問題が起きる可能性があるわけで、対象を広げる形で「セーフ・フロム・ハーム」という言葉を使うようになりました。

日本語訳はないのですか。

増田:加盟員の皆さんからも分かりやすい日本語にすべきだ、という声があり、議論しました。しかし、どうも日本語にするとしっくり来ないのです。また、日本語だと聞いただけで分かったつもりになってしまいます。一応、サブタイトル的に「思いやりの心を育む」という言葉を掲げましたが、カタカナで通すことにしました。「セーフ・フロム・ハーム」という言葉を理解した段階で、初めて身に付くと考えています。

具体的にはどんな考え方なのでしょうか。

増田:日本連盟では2015年に「ガイドライン」を作りました。そこに「すべての人の尊厳を尊重する」「すべての成人・青少年を平等に扱う」「相手の嫌がることは、自分が善意のつもりであっても行わない」「すべての人に対し、脅威を与えたり脅威を感じさせたりする言葉を使わない。どのような悩みにも親身になって相談に乗り、対応する」といった事が書かれています。さらに、ウェブサイトを活用する時に誰でも見られることを意識して個人情報の流出に注意することや、スカウトの前では喫煙しないこと、スカウト活動中には飲酒をしないことなどが定められています。

「セーフ・フロム・ハーム」ガイドライン

・すべての人の尊厳を尊重する。

・すべての成人・青少年を平等に扱う。

・相手の嫌がることは、自分が善意のつもりであっても行わない。

・すべての人に対し、脅威を与えたり脅威を感じさせたりする言葉を使わない。どのような悩みにも親身になって相談にのり、対応する。

・ウェブサイトは誰でも見られることを意識して内容を選ぶ(個人情報、顔写真などを本人または保護者の許可なく投稿しない)。

・活動中にスカウトの前で喫煙はしない。

・スカウト活動中は飲酒をしない。

(出典:「セーフ・フロム・ハーム ガイドブック」)

 さらに、想定される具体的な事例を掲げて、問題を未然に防ぐ方法を示したり、問題が起きてしまった場合の対処方法を示した「ガイドブック」も作り、今年1月号の機関誌と共に指導者全員に配布しました。子ども同士の問題や指導者と子どもの問題、大人同士の問題など、13の具体例(以下のケース)を挙げて説明しています。

「セーフ・フロム・ハーム」に関わる 問題の発生と対応

① スカウト同士における問題発生と対応
【事例1】…「いじめの通報」
【事例2】…「悪ふざけといじめ」
【事例3】…「弱者へのいじめ」
【事例4】…「無視(ネグレクト)」

② スカウトと指導者における問題発生と対応
【事例5】…体罰
【事例6】…心理的な虐待

③ 大人同士の問題
【事例7】…未経験者の孤立
【事例8】…性別による差別や軽視
【事例9】…保護者とのコミュニケーション
【事例10】…スカウト活動中の飲酒

④ SNSの危険性
【事例11】…SNSの中での誤解
【事例12】…SNSの中での悪口や、悪口への同調
【事例13】…個人情報の流出

(出典:「セーフ・フロム・ハーム ガイドブック」)

 さらにウェブ上で「eラーニング」が受けられる仕組みを作りました。画面をクリックして読み進んでいくと章ごとに簡単な質問が出され、それに正解しないと先に進めないようになっています。2017年度からはこの研修を修了しないと、加盟登録ができないようにしました。ちなみに、どなたでもウェブ上で研修を受けることができますので、是非、アクセスしてやってみてください(以下の囲みの中のページの「eラーニング」の項目)。

セーフ・フロム・ハームとは」(http://www.scout.or.jp/sfh/)

 さらに各地域で勉強会を開いて、様々な問題点を議論する機会を作ります。

危害を受ける環境から、どうすれば逃げられるか

終了しないとボーイスカウトの指導者になれない訳ですか。

増田:指導者としてこの運動に関わる大人に、きちんと理解してもらうことが大事です。問題になった学校のいじめ問題で、先生が一緒になって被害者の子どもを追い詰めていた事例がいくつも明らかになっています。ボーイスカウトの組織では決してそうした問題を起こさない、そのために全員が登録時に「確認」するということです。「セーフ・フロム・ハーム」を理解するのはもちろん加害者にならないためでもありますが、被害者になるのを避けるという側面もあります。「ハーム」を受ける環境からどうすれば逃げることができるか、どうやったら自分を守れるかを学んでいくことも重要です。

脅迫的な言葉遣いは「アウト」

ボーイスカウトというと規律を守るために厳しく叱責したり、キャンプでしごかれたりというイメージがあります。

増田:確かに、かつての活動にはそういう面もありました。学校の部活動などでもそうですが、「俺はそうやられて強くなったんだ」と考えて同じ事を繰り返す指導者がいます。しかし、今は体罰はもちろん、脅迫的な言葉遣いをする事もアウトです。青山学院大学の駅伝チームの例がよく挙げられますが、昔からのやり方を排除して科学的な訓練をして他大学を凌駕しています。「セーフ・フロム・ハーム」を徹底させることで、組織の質、活動の質が高まると期待しています。もちろん、子どもを入隊させる保護者にとっても、この組織が安心で安全だということは極めて重要だと思います。

最低限やってはいけない事を共有する

少子化の影響もあって、加盟員の長期的な減少傾向が続いているそうですが。

増田:せっかくボーイスカウトに入隊しても、途中でやめてしまう子供が少なくありません。もちろん、他の習い事や受験などが理由なのですが、人間関係が嫌になってやめているケースが一定数あるのではないかと考えています。子供どうしの関係だけでなく、指導者が気に入らないとか、他の保護者とうまくいかない、といった例があるのではないでしょうか。

 また、長くやっている指導者と新しい指導者の間で、いじめやネグレクトのような問題も起きていると思います。それがきっかけで、この組織から離れていっているとすれば、とても残念なことです。

 最低限やってはいけない事を、共通認識としてメンバー全員が持つことで、人間関係を良好に保つことができる、それが「セーフ・フロム・ハーム」のひとつの考え方です。

欧米と日本はやや状況が違うと仰いました。

増田:欧米の場合、子どもが性犯罪に巻き込まれる事が深刻な問題になっています。米国連盟では指導者と子供が一対一で会う事を禁じています。また、オーストラリア連盟では指導者になるためには警察に無犯罪証明をもらう必要があります。日本はまだそこまでは行っていません。モラルやマナーを知ってもらうという段階ですが、日本でもリーダーとして不適格な人には辞めていただく、といった対応が必要になってくるかもしれません。

様々な組織へ応用可能な「セーフ・フロム・ハーム」

「セーフ・フロム・ハーム」について一般からの問い合わせが来ているそうですね。

増田:ある県の教育長さんから問い合わせがあったほか、私の地元の市長さんからも質問が来ました。ガイドブックが欲しいという要望もあります。この「セーフ・フロム・ハーム」は様々な組織への応用が可能だと思います。企業にせよ、学校にせよ、NPOにせよ人と人が関わる場には必ず「ハーム」が存在する危険性があります。技能や知識を磨く方法はたくさんありますが、人格や品性といったものをトレーニングする方法はなかなかありません。

 私は建築士です。技能や知識を持っていれば建築士になれますが、それだけでは不十分です。法律上OKでも危ない建物はあります。倫理上はダメなはずですが、それを建てるかどうかは建築士の倫理観ということになります。「思いやりの心」を持てるかどうか、他人の痛みを自分のものとして考えられるかどうか、です。

 私たちが取り組み始めた「セーフ・フロム・ハーム」という取り組みはまだまだ完成形ではありません。これからも議論を深め、具体的な事例に対応していきます。日本連盟に相談窓口も作ります。

 「セーフ・フロム・ハーム」を世の中の様々な場面に応用していただき、その成果をフィードバックしていただければ幸いです。

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