先週の今頃、いわゆる残業時間の上限を100時間未満とすることで労使の話し合いが一致したというニュースが流れてきた(こちら)。

 様々なソースをあれこれ読み比べて確認してみたのだが、このニュースを伝える文章は、どれもこれも、どこからどう見ても、あらゆる点でどうかしていて、私の感覚では、マトモに読み進めることができない。支離滅裂過ぎて意味が読み取れないというのか、すべての前提があまりにも異常過ぎて、うまくアタマが回らないのだ。

 だって、労使が合意した残業時間の限界点が「過労死ライン」を超えた先に設定されているって、これ、死んだ人間だけが受け取れる死亡保険金を担保に借金をするみたいな、ジョークにしてもあんまり悪趣味でしょうが。

 最初に前提部分の話をしておくと、私は、今回の労使間の議論の源流にある「働き方改革」という言葉が、すでにして異様だと思っている。

 「働き方改革」は、第3次安倍内閣のもと、2016年9月26日に内閣総理大臣決裁によって設置された内閣総理大臣(第97代)・安倍晋三の私的諮問機関であり「働き方改革実現会議」が中心になって推し進めることになっている改革なのだが、個人的には、この会議の名称にも気持ちの悪さを感じている。

 ついでに言えば、この「働き方改革実現会議」の背景にある「一億総活躍社会」という言葉も強烈な違和感を覚えているのだが、そこまで網を広げると話が拡散してしまう気がするし、前にも書いたので(こちら)別の機会に。

 話を元に戻す。

 「働き方改革」と言ってしまうと、成句の構造上「改革」の成否は労働者の側に帰せられることになる。
 それ以前に、「労働者の働き方が間違っているからそれを改善する」というスジのお話に聞こえる。

 つまり、「働き方改革」という言い方で問題に取り組もうとする限りにおいて、あくまでも言葉の響きの上での話ではあるが、残業が多過ぎることも、労働生産性が低い傾向も、過労死が相次いでいる現状も、すべては労働者の側の「働き方」が悪いからだという認識から出発せねばならないことになるわけだ。

 考え過ぎだと思うだろうか?
 私はそうは思わない。
 タイトルを甘く見てはいけない。
 特に、「改革」のようなものを立ち上げる時は、自分たちが、何のために何のどの部分を改革するのかをはっきり指し示した上で動き出さないと、成果を上げることは期待できない。

 「働き方改革」というフレーズは、その意味で的を外している。

 この言い方だと、労働者の働く意識や、働く方法や、働く姿勢が間違っていることがすべての元凶で、それを改めるためには、個々の労働者が自分たちの働き方と仕事に対する取り組み方と、仕事への意識の持ち方を見つめ直して、より効率的に、生産性高く、意識高く働くべく自らを改革して行かなければならないってな話に落着してしまう。

 そうでなくても、「働き方改革」は、雇用主や労働基準監督局や経営側が取り組むべき課題であるよりも、より強く労働者の側が意識改革として取り組むべき努力目標であるかような響きを放射している。

 よりくだけた言い方をするなら、「働き方改革」という言い回しは、うかうかすると、

「おまえらがダラダラ働いてるから残業が減らないんじゃないのか?」
「いつまでも職場の人間とダベってないでキビキビ働けってこった」
「っていうか、残業代目当てに用も無いのに会社に残ってるんじゃねえよ」

 ぐらいなことを示唆しているようにさえ聞こえるわけで、であるとすれば、こんなたわけたキャッチフレーズを掲げている限り日本の労働問題は改善の端緒にたどりつくことさえできないに決まっているのである。

 本来なら、残業の問題は、「働かせ方改革」という言い方で、よりストレートに雇用側の使用責任を問うカタチで規定されるべきイシューだ。

 「働かせ方改革」がピンと来ないのなら、さらに具体的に「人員配置改革」と言い直しても良い。その方が、解決の方策がずっと見渡しやすいはずだ。

 最近、『豪腕――使い捨てされる15億ドルの商品――』(ハーパーコリンズジャパン)という本を読んだ。米大リーグで、投手の4分の1がトミー・ジョン手術(内側側副靭帯再建手術)を受けることになっている現状に対して警鐘を鳴らしている書物で、投手の酷使と故障の問題について、1試合の投球数、登板間隔、投げる球種、休養のあり方などなど、様々な方向からの仮説や提案を、現役の投手や医師への徹底した取材とともに紹介した好著だ。

 詳しい内容は本書の内容に譲るが、提示している問題の核心は、投手の故障が「酷使」に起因しているという至極単純な事実のうちにある。

 よって、野球のピッチャーの肘という、人間の肉体に付けられる値札で最も高価な部分を防衛するための最良の方法は、それを大切に使うこと以外に無い。実にシンプルな話だ。

 さてしかし、日米の球界では、先発投手の投球数や登板間隔への考え方がかなり異なっている。

 おおまかに言って、日本のプロ野球が1試合の投球数にさほどこだわらない(日本のプロ野球の投手は、時に1試合で150球以上を投げきることがある)代わりに、登板間隔を長めに確保する(先発投手は通常、中5日ないしは中6日の間隔で登板する)のに対して、米大リーグでは、1試合の投球数の上限をおおむね100球以内に制限する一方で、先発投手のローテーションは基本的に中4日で回している。

 いずれの運営方法が投手の肘や肩にとって負担が少ないのかは、議論の分かれるところでもあれば、個人差を含む部分でもあって一概には言えない。が、どっちにしてもはっきりしているのは、日米いずれの球界でも、結局のところ、ピッチャーが酷使されているという事実だ。

 この「限られたピッチャーが酷使される傾向」を改めるためには、思い切った投球数制限ないしは登板間隔制限を課すか、ベンチ入りの選手の人数(あるいはダグアウトで準備するピッチャーの数)を増やすか、年間の試合数を減らすか、あるいは野球のルールそのものを変えて、1試合のイニング数をたとえば5イニングに短縮するといったような、ドラスティックな変化が求められる。

 とはいえ、監督が優秀な投手を酷使することは、野球が勝利を目指す競技である限りにおいて、むしろ当然の取り組みであるわけで、とすれば、投手の酷使傾向を改善する手立ては、監督の采配術や投手自身の気持ちの持ちようの中からは到底導き出されない。

 「ピッチング改革」や「投げ方改革」のようなお題目を掲げてみただけのおざなりな取り組み方からは、なおのこと生まれない。

 ピッチャーの酷使を改めるためには、「投げさせ方改革」、さらには「野球ルール改革」「試合日程改革」「ベンチ改革」といった、野球の競技としての前提を構成するルールや日程や営業方針の根本的な改革に取り組まなければならない、と、当たり前の話ではあるが、つまりはそういうことなのだ。

 もうひとつ例をあげる。

 教育現場から体罰を駆逐するために「体罰改革」を掲げても、おそらくたいした効果はあがらない。生徒にヘルメットを装着させたり、受け身の取り方を指導することで安全な体罰の推進を促したところで、肝心の教師の側が体罰を教育の一環と見なしている限り、状況の改善は期待できない。

 体罰を根絶するためには、まず最初に教育者による「体罰」が、一般人による「暴行」とは別種の、一定の愛情と教育効果を伴った動作であるかのごとき類推を許す「体罰」という用語を駆逐せねばならない。

 でもって、たとえば「暴力教育追放運動」であるとか「対生徒暴行摘発改革」といった、より目的をはっきりさせたタイトルの取り組みを開始せねばならない。

 「働き方改革」は、体罰問題における「殴られる側」に焦点を当てた言い方で、その意味では「殴られ方改革」で、体罰を根絶しようとする試みに近い。
 真に改革を望んでいるのなら、「殴っている側」を摘発しないといけない。

 残業問題で言うなら、残業を強要している側の人間やシステムを変えるべきだということで、その場合、やはり改革のスローガンは、「人員配置改革」ないしは「職場改革」(いっそ「職馬鹿威嚇」でも良い)の方がずっとわかりやすい。

 さて、言葉の問題を措くとしても、100時間という数字は、やはりどこからどう見ても圧倒的に狂っている。

 決定の経緯もどうかしている。
 報道によれば、経団連が「月100時間」、連合が「月100時間未満」を主張して譲らずに対立が続いていた状況を踏まえて、安倍首相が、13日に開催された、首相、経団連、連合の三者会談の中で、両トップに

 「ぜひ100時間未満とする方向で検討いただきたい」

 と要請したということになっている。
 で、経団連と連合の両首脳は会談後、記者団に対し、

 「首相の意向を重く受け止めて対応を検討したい」

 と口をそろえた、てなお話になっている。
 なんという予定調和というのか出来レースというのか稚拙なプロレスというのか茶番劇であろうか。

 それ以前に、「100時間」と「100時間未満」を争っていたことになっている労使双方による争点の、なんとみみっちくも白々しいことだろう。

 ちゃんちゃらおかしくて笑うことすらできない。

 そもそも労働者の時間外時間については、労働省告示「労働時間の延長の限度等に関する基準」によって、その上限が1カ月の場合は45時間、1年の場合は360時間と規定されている。

 ということはつまり、月100時間の残業は、その着地点からしてすでに法令違反だ。

 とすると、このたびの合意は労働側と経営側の偉い人たちが集まって話し合いを重ねた結果、現行法で許されている残業時間の2倍以上のところで線を引くプランに労使双方が賛成したというお話になるわけだが、いったいこれはどこの世界のディストピア小説の一場面であろうか。

 違法な残業で職場を運営することに労使が合意したということはつまり、間違っているのは法律の方で、現実はあくまでも法律とは無縁な場所で動いているということなのだろうか。

 この手の話題に、法令遵守一点張りの理屈を持ち込むのは、あんまりスジの良くない態度だ。

 実際、法律を盾にものを言う学級委員長ライクな説得術は、現実の労働現場で働いている生身の人間の耳には、書生くさい理想論にしか聞こえないものなのかもしれない。

 というのも、今回、時間外労働の上限規制について労使が話し合いを持たなければならなくなったこと自体、そもそも労働基準法の規定ないしは「サブロク協定」(正式には「時間外・休日労働に関する協定届」。 労働基準法第36条が根拠になっていることから、一般的に「36協定」という名称で呼ばれている)が、あまりにも労働現場の実態にそぐわない非現実的な「絵に描いた餅」だったことを反映しての出来事だったからだ。

 法令だけの話をするなら、日本の公道には、どこの場所のどんな道路であれ、100km/h以上で走って良い道は1本も通っていない。とすれば、その日本の道路を走る日本のクルマが、100km/h以上の速度で走る性能を備えていること自体、違法な運転を促すけしからぬ事態だと言って言えないことはないわけだが、事実としては、日本の自動車会社が自社製の自動車に取り付けているスピードリミッター(最高速度制限装置)は、自主規制により180km/hに設定されている。

 とすると、この180km/hと100km/hの幅はいったいどんな意味を持っているのだろうか。

 もしかして、今回決まった100時間という数字は、スピードリミッターの180km/h制限と同じく、

 「建前論を言えば100km/h以上はそもそも違法だって話なんだけど、まあ、それは法令上の目安てなことで見てみぬふりをしておくことにするとして、それでも180km/hは、絶対に超えてはならない命を守る最後の一線としてメカニカルにフィジカルに絶対的に強制しておかなければならない」

 ということなのかもしれない。

 「色々と職場ごとに事情もあるだろうし、繁忙期ってなことになれば、そうそう法令遵守一辺倒で働いているわけにもいかないことはわかる。でもそれでも100時間の線だけは死守しないとダメだよ」

 ということなら、まあ、こんな尻抜けの合意でも、まるで意味がないということはないのかもしれない。

 とりあえずは、最初の一歩として数字が出てきただけでも上等だと、そう考えている勤労者ももしかしたら、少なくないのだろう。

 でも、自動車の場合、リミッターが180km/hだからといって、100km/hを超える速度で走っていれば、いずれ取り締まりの網にひっかかることになっている。

 バレなければ大丈夫だとは言っても、どんな場合であれ速度を超過して走っている現場を警察官に押さえられたら罰金と違反点数を召し上げられる恐れは常にあるわけで、そういう意味では、100キロ制限という規定は、まるで有名無実な空文であるわけではない。一定の有効性を持っている。

 ところが、「サブロク協定」には、何の罰則も無い。そもそも違反を取り締まる機関が想定されていない。

 そのあたりを考えると、100時間というこのウソみたいな合意点は、奇天烈で非人間的で猛烈に悲しくて哀れで靴下臭くはあるものの、日本の労働者がはじめて手にした有効な残業撤退ラインであるのかもしれない。

 まあ、その残業限界点が、過労死ライン(月80時間なのだそうですよ)を超えた場所に設定されているあたりが、なんだか逆に現実的な感じを与えるあたりがこの話のさびしいところであるわけだが、ひとつ提案がある。

 日本の勤労者が残業を回避できないのは、ひとつのタスクをチームで請け負う前提が守られているからだという話を聞いたことがある。

 つまり、仕事が個人に属しているのではなくて、仕事の方に個人(それもチームで)が属しているから、自分だけの判断で仕事のペースを決めたり、加減することが難しいというのだ。

 実際、自分が休んだら職場の全員に負担がかかる状況では、残業の回避は個人の労働観の問題というよりも、その人間のコミュニケーション作法の問題になってしまう。

 人間関係を大切にする人間は、簡単には帰れないことになる。つまり、自分の私生活を防衛するために仕事仲間の私生活を踏みにじらないといけないみたいな設定になっているとしたら、これはマトモな日本人であればあるほど、定時退社は難しくなる。

 つい3日ほど前、ツイッターに以下のような投稿をした。

《若い人たちが先に進めるのは、3年か4年ごとに卒業式がやってきて強制的に環境がリセットされるからだと思う。環境が新しくなれば、いずれ中味も新しくなる。同じ連中とツルんでいたら人間は変われない。20年同じ会社で働いているオヤジが腐るのは、淀んだ水の中で暮らしているから。》(こちら

 この書き込みには、意外な反響があって、現在のところリツイート数が5000件を突破している。

 ちょうど卒業式の時期だったということもあるのだろうが、私は、リツイートされた理由は、日本人の多くが、多かれ少なかれ自分たちが「場」に支配されていることを強く自覚しているからなのだろうと考えている。

 「働き方改革」の問題は、「働き方」や「労働観」や「生産性」の問題である以上に「場」の問題だ。

 職場という「場」の持っている巨大な呪縛が、そこで働く人間たちに残業を強いている。

 残業時間が減る代わりに、職場の居心地を失うのだとしたら、他の場を知らない中年以上の世代は大反対するはずだ。

 逆に言えば、職場の外に有効な「場」(友人、家庭、趣味のサークルなどなど)を持っていない勤労者は、自動的に残業に依存するようになるのだろうし、職場は職場で、残業によって従業員から職場以外の「場」を奪うことで、彼らの忠誠心を確保しようとしているのかもしれない。

 ともあれ、こんな現状をもし本気で打破したいなら「自分にとっての所属時間が、わりとすぐ終わる場所」に、会社を変えてしまうしかない。学校に通う子供たちがそうであるように、3年か4年ごとに卒業式がやってくるのであれば、日本の大人も、もう少し自分本位の振る舞い方ができるようになることだろう。

 うん、山ほど反論が来るのは分かりきっている。だが、「会社なんて、そんなもんだ」と思えなければ、おそらく「働き方改革」だろうが「働かせ方改革」だろうが、きっとうまくいかない。まともな会社で1年持たなかった私だから言える真実だ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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 集計結果は後日、日経ビジネス、日経ビジネスオンラインなどで発表します。
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 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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