前回までは、私が赴任していた福島原発近くの病院や周辺地域のリアルな状況について書きました。2017年4月からは福島県内の別のエリア「中通り」にある郡山市に引っ越し、市内の総合南東北病院に勤めています。郡山にはまだ来たばかりで、日々手術室に入り浸っていることもあり、この街についてあまり知ることができていません。もう少し知ることができたら、機会をみて書きたいと思います。

新しい勤務先の総合南東北病院
新しい勤務先の総合南東北病院

 さて、今回は一風変わって、金正男氏の殺害に使われたとされるVXガスのテロ事件が、もし日本で起きたらどうなっていたかについて、医師の立場から書きたいと思います。事件から約2カ月が経過した今、集めた情報を基に検証します。外科医である私の立場や、救急専門医に聞いた内容も含めて考えました。

 このほど、北朝鮮が大量に化学兵器「サリン」を保有し、それをミサイルで打ち込む能力を持っているという報道もありました。サリンはオウム真理教がテロで用い、多数の死傷者を出したことで有名ですが、物質としてはVXガスと非常に類似しています。そのため本稿で論じる内容は、サリン・ミサイルが日本に打ち込まれたことを想定するのにも多少、役立つかもしれません。

 なお本稿では、「本当にVXガスが使われたのか」という点や、政治的な検討はしていません。

金正男氏殺害が殺害されるまでの流れ

 まず、ニュースなどでご覧になった方も多いと思いますが、複数の報道などを基に殺害までの大まかな流れをまとめます。

 2月13日、金正男氏とされる男性がマレーシアのクアラルンプール国際空港で女性2人に襲われました。顔面に何かを塗られたような状況で、痛みを訴えていたそうです。その後、空港近くの病院に運ばれる途中で死亡しました(記事)。

金正男氏が運ばれた空港近くの病院(写真=AP/アフロ)
金正男氏が運ばれた空港近くの病院(写真=AP/アフロ)

 それから2週間後、マレーシア保健相は金正男氏の死因について、「神経性の猛毒『VX』が大量に使われ、正男氏に塗られてから15分から20分程度の短時間で死亡した」と発表しました(報道)。

 ここからは、私の憶測が含まれます。

 空港で具合が悪くなった金正男氏は、周りの人に助けを求め、空港内の診療所に運ばれました。そしてそこで対応した医師は、みるみる具合が悪くなっていく患者を目の当たりにし、ただごとでは無いと感じて救急車を要請したのでしょう。

 救急車に乗せられた患者は、搬送されている途中に呼吸が停止。その数分後には心臓の動きも止まり、死亡に至ったと考えられます。救急車内で蘇生行為が行われたか、あるいは蘇生行為は行われないまま到着前に死亡した――。

 こんなストーリーが考えられます。マレーシアの医療レベルについては、私は現地に行ったことがないのではっきりしませんが、国際学会などでマレーシア大学(University of Malaysia)の病院の医師による発表を聴いたことがあります。アジアの新興国の中には日本と同等以上の知識や技術を持つ医師がいて、ハイレベルな医療を提供しているという事実は医師の間では知られています。

VXガスはサリンと同じ有機リン系化合物

 ではVXガスとはどのような物質なのでしょうか。私はある専門家に意見を仰ぎ、情報を得ましたが、それをそのまま詳細に書くことはためらわれます。VXガス・テロの参考になってしまう恐れがあるからです。この点を考慮して、ここでは調べれば誰にでも分かる範囲の情報で話を進めます。

 まずVXガスは、「神経剤」とか「神経毒」と言われる猛毒で、前述しましたが、オウム真理教がテロに使ったサリンと同じ種類になります。

 これは、ある身近なものとも同じ種類なのですが、何だか分かりますか?

 そう、農薬です。専門的には、これらは「有機リン系化合物」のグループに入ります。この事実は多くの医師に知られています。なぜなら、農薬を飲んで服毒自殺をする人が一定数いて、救急診療をやっていると遭遇することが多いからです。ちなみに私は大腸がんを専門とする外科医で、時々、救急診療にも携わっていますが、まだそういう患者さんに出会ったことはありません。

少量であれば薬にもなる

 薬は量次第で毒にもなる――。こんな話を聞いたことのある方は多いと思いますが、実はこの有機リン系化合物についても同じことが言えます。有機リン系化合物は、筋肉の低下する病気(重症筋無力症)の治療薬になるのです。私も、これと同じ作用を示す「ウブレチド」という薬を、大腸がんの手術後に一時的に尿が出づらくなる患者さんに処方することがあります。

 もしこの薬(というか毒)を極めて大量に体に入れたらどうなるか。実に多彩な症状が出現しますが、少ない量であれば瞳孔が小さくなり息が苦しくなります。量が増えると、吐いたり、流涎(りゅうえん、よだれがだらだら垂れること)が見られたり、汗をかいたりといった症状が出ます。

 さらに量が増えると、口や鼻から大量に水分が出て息ができなくなったり、けいれんを起こしたりして、意識が無くなります。そして死に至ります。

 ちなみに、この辺りの詳細な情報は、ある施設のホームページにあります。そこには、主要な化学剤(毒物のことです)や解毒剤についての情報がデータベース化されています。2000年に実施された九州・沖縄サミットの医療対策のために整備され、2008年の北海道洞爺湖サミットや2016年の伊勢志摩サミットで、情報が追加されたそうです。各国首脳などが来日するタイミングのたびに、こうして備えてきたのですね。

もし日本の空港で同じことが起こったら……

 このニュースを2月に見てから私は、「もし日本の空港で同じことが起こったら、被害者を救命することはできるだろうか」と考えていました。テロの参考になる可能性があるため、やはり詳細に書くことはできませんが、ある程度までは書いてみます。この件については、友人の救急専門医とも直接、議論しました。

金正男氏殺害の現場となったクアラルンプール国際空港(写真=AP/アフロ)
金正男氏殺害の現場となったクアラルンプール国際空港(写真=AP/アフロ)

 同様の事件が発生するとしたら、成田空港か羽田空港だと考えられます。どちらかで発生した場合、どうなるか。被害者が1人だったと仮定し、シミュレーションをしてみました。

 まず空港で急に具合が悪くなった人がいたとします。椅子に座ってぐったりしているか、通路で倒れているのに周りの人が気づき、空港スタッフを呼びます。スタッフは現地でその人の容態を確認し、空港内のクリニックに電話をかけます。この流れは、実際に空港で働いている知人に聞きました。

 次に、倒れた人をクリニックに連れて行きます。もしそこで歩けなかったり、意識がなくなったりしたら、クリニックから医師に走ってきてもらいます。

 医師が到着し、倒れた人を診ます。ところが、すぐに原因は分かりません。

 「なんだ、これは! 心筋梗塞かアナフィラキシーショックか、それとも何かとんでもないことが体の中で起きているのか」

 こう頭の中で考えながら、原因は不明でも、ひとまず救命処置を行います。その場で処置ができない場合は、担架などでクリニックまで運んでから救急車を呼ぶか、あるいはその場で119番をすることになります。

心配停止状態で病院に運ばれて救えるか?

 もしマレーシアの一件と同じ状況だった場合、救急車を待っている間、あるいは救急隊が到着した頃にその人の呼吸が停止します。医師は、すぐに「バッグ換気」または「気管内挿管(そうかん)」と呼ばれる処置をします。これは、突然呼吸が停止してしまった人のために、道具を使って人工的に呼吸をさせる技術です。

 前者の「バッグ換気」は、ラグビーボールくらいの大きさの袋(バッグ)を使って呼吸させ、後者は人差し指ほどの太さのチューブを口から直接、気管の中に挿入し、それをバッグにつないで呼吸をさせます。

 とりあえずこれで呼吸はなんとかなり、救急隊が到着。病院へ搬送となります。

 ところが搬送の途中、心臓が停止。今度は心臓マッサージという、胸のあたりを両手でグッグッと、1分間に100回の速さで押す蘇生行為をします。肋骨は高い確率で骨折しますが、続けます。病院に到着するや、「CPAです!」という救急隊員の怒号とともにその人は救急室に運ばれます。CPAとは、心肺停止状態という意味です。

 そこから、救急医学の専門家である救急医が引き継ぎ、人工呼吸と心臓マッサージを続けながら「原因は何か」を探るため、様々な検査をします。採血、尿検査、レントゲン、心電図……。

 もしそこに、中毒に詳しい熟練の救急医がたまたま当番でいれば、瞳孔や多すぎる気道の分泌物を診て、「もしやこの患者さんは……」と、VXガスなどの化学テロの可能性を思い浮かべられるかもしれません。もし思い浮かべば、治療薬である「アトロピン」と「PAM(Pralidoxime Iodide)」を投与することも選択肢にあがるでしょう。もしこれらが投与されれば、救命できる可能性はあります。

医師はどれほど中毒を知っているか

 このような患者さんを医学では「中毒」というジャンルで扱われます。実は、この中毒について、医師はあまり学んでいません。私が救急に携わっていた頃は、中毒の患者さんが来るたびにいちいち本やネットで調べていました。前述したように、有機リン中毒の患者さんを私は診たことがありませんので、遭遇した時に思い浮かべることができるか、正直言ってあまり自信がありません。

 ただ日本では、呼吸が停止するか、しそうな患者さんは基本的に「3次救急」と言って、最も高度な救急医療を施せる「救命センター」などに運ばれます。そうした病院には必ず、救急の専門医がいます。

 そこで、知人の救急専門医の資格を持つ医師に「このような患者さんが空港から運ばれてきたら、正しく診断して治療できるか」と聞いてみました。すると、こんな答えが返ってきました。

 「正直なところ、かなり難しい」

 そして、こう続けました。

 「有機リン中毒の患者さんは診たことがあるが、そういう患者さんは必ず、倒れていたところに農薬の入れ物が転がっているというような情報があったため、すぐに有機リン中毒だと分かった。金正男氏のケースのように、全く情報がないところで、患者さんの症状だけで診断することは救急専門医にとっても容易ではない」

 ナント!私は驚きました。救急専門医でも診断は難しかったのです。

 「では、どうすればいいのか」と聞くと、「中毒や災害などの特殊な領域に専従している医師であれば、診断できる可能性は高い。また、そのような中毒の患者さんの治療は全て定められた治療フローに従ってやっていくことになっている」とのことでした。この辺りの見解は、救急の医師によって異なるでしょうし、病院のある地域によって診療経験(診断能力)にも差があるため、違ってくるかもしれません。

 「日本でVXガスによるテロが発生した場合、救命は容易ではない」。これが本稿での結論になります。

 本稿が、医師への啓蒙になることを祈ります。

 ※本記事は一般の方向けに分かりやすく書いているため、医学的な厳密さを欠いている表現があります。VXガス中毒や有機リン中毒についての診断や治療を学びたい方は、専門書をご参照ください。
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