毎年4月7日(世界保健機構[WHO]の第1回総会の開催日にちなむそうだ)は、1950年以来70年近く、世界保健デーと定められている。この日のテーマは毎年変わり、「その時点において世界的に重要であり、課題性のある健康に関する事項に焦点を当てて、関心を高め対策行動への契機とするために設定」(日本WHO協会のホームページより)されるものだ。

世界的な推定値では自殺者の7割はうつ病によるものと考えられ、自殺を防ぐためには、まさにうつ病対策が最重要なものと言える。(©youichi4411-123RF)
世界的な推定値では自殺者の7割はうつ病によるものと考えられ、自殺を防ぐためには、まさにうつ病対策が最重要なものと言える。(©youichi4411-123RF)

2017年、世界保健デーのテーマはうつ病

 例えば、2012年は「高齢化と健康」、2013年は「血圧管理の重要性」、2015年は「食品安全」そして、昨年は「糖尿病」であったが、本年度のテーマは「うつ病:一緒に話そう」となっている。WHOによると世界のうつ病患者は3億人(世界人口の4%以上)を上回り、うつ病から年間80万人が自殺しているとされ、国際的な取り組みが求められているからだ。

 まさにうつ病対策は、現代社会のサバイバルのために重要ということになる。私は、特に我が国でこそうつ病の対策を重視すべきで、「一緒に話そう」というテーマは重大だと考えている。現実に統計数字をみても、以前より減ったとは言え、今でも自殺は年に2万2000人の命を奪い、15~39歳の日本人の死因トップだからだ。もちろん、自殺のすべてがうつ病によるものではないが、世界的な推定値では自殺者の7割はうつ病によるものと考えられ、若死にを防ぐためには、まさにうつ病対策が最重要なものと言える。

 実は、日本でも1998~2011年まで年間の自殺者が3万人を超えていたこともあり、政府も自殺対策には相当力を入れている。2006年に「自殺対策基本法」が制定され、恐らくその効果だったのだろうが、2012年についに自殺者数が3万人を切り、2016度は22年ぶりに2万2000人を下回った。

うつ病対策で自殺は減らせる

 ここで重要なのは、自殺は本人の意志なのだから止められないと思われがちだが、きちんとした対策をすれば減らせるということである。

 自殺対策基本法では、「自殺の恐れがある人が受けやすい医療体制の整備」「自殺の危険性が高い人の早期発見と発生回避」などがうたわれている。実際、新潟県の松之山町(現十日町市)では、精神科医たちがこのような自殺対策を実施したところ、高齢者の自殺率が4分の1に下がったという実績もある。

 日本の場合、風邪をひいたくらいで簡単に医者に行くし、集団検診で一つでも異常値が出ると医者に行き、薬をもらうのが当たり前のようになっているが、これは世界では例外的だ(それだけ外国は医療費が高かったり、医療へのアクセスが悪いということなのだが)。逆に、うつ病など心の病については、手遅れにならないと医者にかからないという先進国では珍しい国である。

 うつ病になっても、実際に自殺するまで医者にかかっていなかったり、自殺未遂をして初めて医者にかかる人が多い。関連して、アルコールなどの依存症になっても軽いうちに医者にかからないので、社会的生命を奪われたり、自殺という結末をたどる人も少なくない(自殺の20%以上がアルコール依存者という推定値もある)。

 ただ、それだけ心の病が恥ずかしいものだと思われているという側面は否定できない。だからこそ、本年度のテーマである「一緒に話そう」というのは大切なことであり、うつ病などの心の病に対する啓発活動は重要な意味を持つ。

 まずは、うつ病という病気がどんな病気かを知らせることが大切だろう。食欲がなくなったり、眠れなかったりしても、自分がうつ病にかかっているという自覚のない人は少なくない。「パパ、ちゃんと眠れてる?」というポスターで、うつ病の初期症状が不眠だと啓発したことも相当有効だったようだ。

ノルウェーでは首相がうつ病から回復

 うつ病の症状を知ることで早期に医療の受診につながり、それが自殺やうつ病のさらなる悪化(これで社会的生命を奪われる人が多い)を防ぐのは確かだが、私の見るところ日本にはもう一つの大きな壁がある。それはうつ病に対する偏見だ。要するにうつ病にかかることや、精神科や心療内科にかかることが恥ずかしいと思っているので、うつ病の可能性があっても医者にかからない人はまだまだ多い。

 以前、ノルウェーのボンデヴィックという首相が在任中にうつ病になったと告白し、1998年の8月30日から9月23日まで首相の仕事を休んだことがある。うつ病を治したボンデヴィックは喝采をもって迎えられ、第二次政権まで首相を務め、その後は平和や人権のための活動家として身をささげた(アメリカのカーターセンターと協力関係があった)。2009年にはサンフランシスコ大学から名誉教授の称号を与えられている。

 これはノルウェー国民には大きな意味を持つものである。

 一つは、首相のような人でもうつになることを知らしめたことだ。これはうつ病に対する偏見をかなり弱める効果があっただろう。二つ目は、うつ病が治るということを知らしめたことである。その後も首相を務めあげ、引退後も活躍している姿を見せることで、やはりうつは早期発見、早期治療が大切だと分からせる絶大な効果があっただろう。

 もちろんボンデヴィックが首相になる前からかなり減っていたが、かつては北欧というのは自殺率が高いことで有名な地域であった。日本も減ったので今はそこまででもないが、現在のノルウェーの自殺率は日本が自殺対策をやる前の半分程度である。まさに啓発の大切さを物語るものだ。

 実は私は、前回突然に辞任した際の安倍首相は、少なくとも診断基準の上ではうつ病に当てはまると考えている。不眠が報じられ、明らかに体重も5%は減っていたし、涙目は抑うつ気分を象徴するものと考えられる。疲れやすさや集中力の減退を訴えていたという報道もあった。うつ病の診断基準を5つ以上2週間以上満たせば、うつ病と我々は診断する。

 胃腸障害も合併していただろうし、その治療のためステロイドなどの薬物の影響も否定できないので、うつ病ではなかったのかもしれない。しかしそれでも、「実はうつ病です」と芝居でもいいから言ってもらって、現在のような見事な回復をアピールできたら(安倍氏が前回辞任した2007年には日本では年間3万3093人が自殺していた)、首相でもうつになることや、それが治ることがアピールできただろうから、年間1万人くらいの命が救えたかもしれない。国防というのは国民が死ぬ可能性に対処するものだが、自殺予防は毎年確実に多くの命を救うものなのだ。

欧米では政治家・経営者が心の主治医を持つ

 もちろん、この件で安倍氏を責めるつもりは毛頭ない。むしろ、日本という国ではうつ病を告白することがそれだけ政治的生命に響くという判断だったように思えてならない。この偏見をなくすことの大切さを痛感させられただけだ。

 日本の場合、明らかに覚せい剤の依存症という心の病に陥っている芸能人などにしても、再犯をするたびに責めるだけで治療の大切さへの関心はそれほど高くない。自殺と同じく、心の病が自己責任のように思われているから、治療を受けようという機運も高まらないし、治療施設が増えないという二次被害も生む。

 ブッシュ・ジュニアにしても40歳でアルコール依存を克服したことを堂々と言明しているし、そのほうが国民の人気につながった。ビル・クリントンも自らのアダルト・チルドレン(機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内面的なトラウマを引きずり、言動に影響が出ること)やカウンセラーの存在を明らかにしている。

 昨今、日本の国会では感情のコントロールが悪い政治家の失言が相次いでいる。欧米では心の病以上に、医者やカウンセラーを上手に使えず、自身の感情をコントロールできないことのほうが恥のように思われることが多い。

 実際、最近の認知科学の考え方では、心の健康が判断力や思考力に影響を与えると考えられている。だから、欧米では政治家や経営のエグゼクティブが自分の精神科医を雇うのだ。

 心の病というのは、なってからより、なる前の予防のほうが意味を持つという考え方も強まっている。病気になる前に検査データの異常の段階で医者にかかるような集団検診が当たり前になっているが、心の病も同じことだ。そういう意味で、2015年の12月にストレスチェック制度が始まったのだ。点数が高い人は、病気になる前に医者にかかったほうがいい。心の主治医やカウンセラーを持っていると、人生のさまざまな局面で助けになるだろうし、感情に振り回された判断をするリスクも低減する。

電通事件では管理職によるうつ病の無知が問題

 こうしたメンタルヘルスを考えるうえで、昨今、最も話題になっているのは残業問題だろう。

 もちろん、過度な残業はやらないに越したことがないが、様々な調査や統計をみると、長時間残業がうつにつながると証明できているとは言えない。実際、昔のように長時間残業が多かった時代に、うつが今より多かったわけでもないし、自殺も昔のほうが少なかった。

 ただ、一方で、過労を通じてうつになる人は一定数確実に存在する。問題はそのフォローアップだろう。

 たまたま、電通の過労死事件が世間で注目されたので、私も精神科医として何回か取材を受けた。そして、さまざまな資料を与えられたのだが、私が一番の問題と思ったのは、うつ病が疑われる部下に対する管理職の対応の悪さだ。亡くなった人がツィッターで書いたことが事実であったとしたら(うつになると物事の受け取り方が被害的になりやすいので、歪曲されている可能性もあるが、少なくとも彼女の主観的世界では事実なのだろう)、不眠で恐らくうつ病を発症してボロボロになっている部下に、管理職は下記のような暴言を吐いている。「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「会議中に眠そうな顔をするのは管理ができていない」「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」。

 うつ病についてのまともな知識があれば、眠そうな顔から不眠を疑い、身だしなみを気にしなくなったことからうつ病を疑う姿勢が求められる。さらに言うと、うつ病の人の心を傷つける発言は病状をさらに悪化させる。

 実際、部下を自殺に至らしめた際の会社の損失は多大なものだ。また判例次第では、管理職によるメンタルヘルスの管理責任が問われる時代も間近だろう。管理職のメンタルヘルスに対する怠慢や無知が許されない時代が来ている。

 実は私は、日本における自殺予防の権威である高橋祥友教授(筑波大学)とともに、一般社団法人「心の健康管理推進協会」というものを立ち上げた。少しでもメンタルヘルスの啓蒙やストレスチェックの高得点者のフォローに役立つことができればと念じている。

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