「共謀罪」は近いうちに成立するだろう。

 既にいくつかの媒体を通じて明らかにしている通り、私は、今国会に提出されている「テロ等準備罪法案」を支持していない。

 が、当法案がほどなく成立することは、既定の事実だと思っている。法案が否決される可能性にも期待していない。
 つまり、あきらめている。

 「簡単にあきらめてはいけない」
 「法案の成立を阻止するために、あらゆる手段で、共謀罪の危険性を訴え続けるべきだ」
 「政治が参加の過程であることを思えば、傍観者になるのが一番いけないことだ」
 「あきらめることは、共謀罪の成立に加担するに等しい敗北主義者の態度だ」

 という意見があることは承知している。
 でも、私はあきらめている。

 もっと言えば、奇妙な言い方ではあるが、私は、この件については、あきらめた先にしか未来はないと思っている。

 というのも、私たちは、国政選挙を通じて、現政権ならびに与党勢力に、法案を単独で可決するに足る議席を与えてしまっているからだ。このことを忘れてはならない。というよりも、共謀罪に反対する立場の人間であれば、なおのこと、政権与党が備えている力の大きさを直視しなければならないはずなのだ。

 別の言い方をすれば、共謀罪に反対する人々は、その自分たちの考えが、当面、何の実効性も持っていないことを認めるところから出発しないと、次の段階に進むことができないということだ。

 その「次の段階」の話は、後で述べる。

 世論調査の結果や、ネット上での議論を見るに、「共謀罪」(この法律について「テロ等準備罪」と書いているメディアもあるが、当稿では、私自身が以前から「共謀罪」と呼んできた経緯を踏まえて、「共謀罪」と、カギカッコ付きで表記する)に警戒心を抱いている国民は、そんなに多くない。

 金田勝年法相の答弁のお粗末さにもかかわらず、「共謀罪」への懸念が大きな声になっていないのは、そもそもこの法案の危険性への認識が共有されていないからなのだろう。

 このことは認めなければならない。
 ということは、多くの国民は

 「『共謀罪』が一般国民を捜査対象としていない」

 という与党側の説明を鵜呑みにしているのだろうか。
 私は、必ずしもそう思っていない。

 いくらなんでも、わが国の一般市民は、こんな粗雑な説明をいきなり鵜呑みにするほどおめでたくはない。

 捜査側が、捜査したい対象を「一般国民ではない」と決めつけにかかるだけの話だという程度のことは、多くの国民はクールに認識しているはずだ。

 にもかかららず、多くの日本人は、自分にとって「共謀罪」は脅威にならないと考えている。
 どうしてそう思うことができるのだろうか。

 私の思うに、ここのところの経緯は、相当にややこしい構造を含んでいる。
 説明しようとすれば、一般の国民が自分自身をどんなふうに認識しているのかということと、多くの国民が、どんな国民を「一般国民」であると考えているのかを含む、かなり錯綜した話になるはずだ。

 ともあれ、なるべく順序立てて説明してみることにする。

 まず、大多数の日本人は、自分たちが「共謀罪」によってひどい目に遭うことはあり得ないと考えている。

 なぜ彼らがそう思うのかというと、その根拠は、彼らが、自分たちを多数派だと信じ込んでいるからだ。

 このことはつまり、多数派の日本人が、「共謀罪」を、少数派の日本人(←たとえ表向き「一般国民」であっても)を網にかける法律だと思っていることを意味している。

 では、どうして、大多数の日本人が自分を多数派であると考えているのというと、彼らの自己意識は、そもそも自分が多数派であるという決して動かない大前提から出発しているものだからだ。

 ここの理屈はおかしい。循環論法に陥っている。

 「犬が犬なのは犬が犬を犬だと思っているからだ」みたいな話に聞こえる。が、実際にその通りなのだから仕方がない。大多数の日本人が多数派なのは、われわれが多数派であることを何よりも大切に考えている国民だからで、このことはほぼ全員の日本人が認めなければならない大前提なのだ。

 私の思うに、大多数の日本人は、なにごとにつけて常に多数派であるようにふるまうべく自らを規定している人々なのであって、それゆえ、少数派である瞬間が、仮に生じたのだとしても、その時点で即座に彼は、自分の考えなりライフスタイルなりを捨てて多数派に鞍替えするのであるからして、結局のところ、われわれは、永遠に多数派なのである。

 「彼ら」という主語と「われわれ」という主語が、野放図に使われていることに違和感を覚えるムキもあるかもしれないが、われわれ日本人が自分たち自身を客観視しようとする時、主語は集合無意識の中に溶解するのであって、彼らはわれわれなのであるからして、問題はない。混乱している読者は、まだまだ日本人として修行が足りないと、そう考えるべきだ。われわれは、主語を必要としない。なぜなら、諸君は私であり、私たちはすべてであり、われわれは無だからだ。

 たとえば、われわれは、卒業式で君が代を歌う。
 なぜか?
 国を愛しているからだろうか?
 心から歌いたいからだろうか?
 まあ、そういう人もいるだろう。

 が、大多数の日本人が式典やセレモニーに際して君が代を斉唱するのは、
「ほかのみんなも歌っているから」
 だ。

 振り返ってみるに、ほんの30年ほど前までは、君が代の斉唱が求められる場面で、多くの中高生は、君が代を歌わなかった。

 なぜだろうか。
 彼らは国を愛していなかったのだろうか。
 自分の声を恥じていたのだろうか。
 まあ、そういう生徒もいたはずだ。
 が、多くの中高生たちは、
 「ほかのみんなが歌っていないから」
 という理由で、君が代を歌わなかった。それだけの話なのだ。

 家電量販店でも、店員が最も頻繁に遭遇する質問は、
 「どの製品が一番売れてますか?」
 だと言われている。

 つまり、われわれは、自分の生活にフィットした冷蔵庫や、自分の好みに合ったエアコンや、自身の可処分所得から買える範囲のタブレット端末よりも、なにより、「ほかのみんなが買い求めている一番無難な」製品を選ぼうとする国民なのである。

 これらの事実が指し示しているのは、われわれが、「同調的である人間」を「われわれ」の仲間であると感じ、「同調的でない人間」を、「彼ら」「あの人たち」「あいつら」「変な人たち」として分類し、その同調的でない彼らを、犯罪に加担したとしても不思議のない人間であると認識し、危険な匂いを嗅ぎ取り、「共謀罪」の捜査対象として差し支えない人物と考えるということだ。

 つまり、「われわれ」は、どんな場合でも、絶対に無事なのである。

 とすれば、自分たちとは違う考え方をしていて、自分たちとは異なった行動をとり、自分たちとは明らかに相容れないマナーで世間と対峙している一群の人々を、お国が、証拠の有無にかかわらず、テロなり犯罪なりの準備や共謀の可能性を根拠に捕縛したり捜査したり尾行したりすることは、むしろ治安のために望ましい措置だと、彼らが考えるのは至極当たり前ななりゆきではあるまいか。

 朝日新聞は、ここしばらく、様々な立場の人々の「共謀罪」への見解を紹介する企画記事を連載している。

 5月13日掲載分では
《反権力はかっこいいが 不肖・宮嶋、「共謀罪」を語る》(こちら
 という見出しで、写真家の宮嶋茂樹さんのインタビューを聞き書きの形で掲載している。

 記事の中で宮嶋さんは、

《「共謀罪」法案に賛成する》

 とした上で、その理由のひとつについて

《若い頃、大物右翼の赤尾敏氏(故人)を撮影した写真展を開いた。最初に会場に来たお客さんが「よう、宮嶋君。いい写真だね」と言う。公安刑事だった。身辺を洗われていると感じたが、別に悪いことはしていない。不肖・宮嶋、女の好みとか警察に知られたくない秘密はある。だけど、少しくらい監視されたって枕を高くして眠る方がいい。》 

 と説明している。

「少しぐらい監視される」
 のは、もちろん宮嶋さん自身ことを言っているのだと思うが、一方
「枕を高くして眠る」
 のも彼自身を指して言っているように読み取れる。つまり、宮嶋さんは、公安に少しぐらい監視されても、その程度のことで不眠に陥る不安を感じることは無いということなのだろう。で、彼としては、むしろ、「共謀罪」によって公安が自在に活躍できる環境が整ってテロリストを捕縛してくれることで、「枕を高くして」(つまり安心して)眠れるようになるのなら、その方がありがたい、とそう言っている。

 自分がうしろめたいことをやっていないのであれば捜査はされても立件されることはあり得ず、まして冤罪で有罪判決を受ける可能性は金輪際無いと信じ切っているからこそこういうことが言えるのだと思う。

 この点については、宮嶋さんがそう考えるのならそうなのだろうと受け止めるしかない。

 私自身は、「共謀罪」が施行されて仮に自分が公安に身辺を洗われることになった場合、到底枕を高くして眠る気持ちにはなれない。が、誰もが世界に対して私と同じ見解を抱くべきだということを言い張ろうとは思わない。

 ついでに申し上げるなら、宮嶋さんが、反権力の立場を明らかにしている人たちの態度を、「かっこいい」からそうしているかのように言っていることに、私は賛成できない。が、これもまあ、宮嶋さんの目にそう見えている以上、私がムキになって否定するようなことでもない。

 「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」
 という、定番のセリフで処理するのが穏当な態度だろう。

 ただ、彼が

《わしは「共謀罪」法案に賛成する。世界情勢を見れば、テロ対策の強化が必要なことは明らか。捜査機関による監視が強まるという批判もあるが、政府は「一般市民は対象にならない」と説明している。そう簡単にふつうの市民を逮捕できるわけがない。》

 と一般市民が監視の対象にならない見通しを述べた上で

《むしろ共謀罪は、市民が犯罪者を拒む理由になるんじゃないか。》

 と、「共謀罪」のポジティブな側面について語っている点については、異論を唱えておきたい。

 ここで言う「犯罪者」とは、単に辞書にある通りの「(既に)犯罪を犯した人間」という意味ではなくて、文脈からして、「犯罪を企図している人間」あるいは、「犯罪に加担しているように見える人物」ないしは「犯罪との関連を暗示させる風体をしている人々」ぐらいな対象を指している。

 とすると、おそらくこれは、やっかいな差別を引き起こす。
 入浴施設やプールがタトゥーのある人間の入場を拒否しているどころの話ではない。

 外国人や、ちょっと変わった服装をしている人間や、その他、無自覚な市民感覚が「普通じゃない」と見なすおよそあらゆるタイプの逸脱者が、市民社会から排除される結果になりかねない。

 「共謀罪」がもたらすであろう恐怖のひとつに、捜査関係者が、「既に犯罪をおかした人間や組織」にとどまらず、「犯罪を企図したり計画しているように見える人物」や「テロの共謀が疑われる組織のメンバー」ないしは、それらに接触した人々を捜査対象にすることが挙げられているが、同じ原則を、たとえば、飲食店や、ゴルフ場や、公民館や公共施設が顧客なり市民に適用したら、実にいやらしい社会が形成されることになる。

 私はそれを恐れる。

 1か月ほど前に、ツイッターのタイムラインに、山口貴士さんという弁護士による

《「人権」と「みんな仲良く」は相容れない。人権教育のためには、人間は分かり合えないこともあるし、仲良く出来ないこともあることを教えないといけない。》(こちら

 というツイートが流れてきて、感心したことを思い出す。

 なお、このツイートに関連して、憲法学者の木村草太さんが

《そうなんだよねぇ。分かり合えないし、仲良くもできない。でも、一緒に生きていかなきゃいけない。だから、お互いに守るべきルールを決めて、対立が生まれたときには、しっかり話し合いをして、それでも解決できなそうなら、公平な第三者に裁定してもらう。それが法システム。法学教育を推進したい。》(こちら

 という感想のツイートを発信している。

 以上のツイートは、「共謀罪」とは直接にかかわりのある内容ではないのだが、「社会の均質性の維持」と「地域社会の絆の強化」をなによりも重視し、犯罪の抑止のためには、「外部からやってくる」「異分子としての」「邪悪で」「日本の伝統や文化と相容れない」人々を、自分たちの生活の範囲から遠ざけることが肝要だと考えがちな人々であるわれわれに、正しい警告をもたらすメッセージとして、「共謀罪」成立後にやってくるかもしれない世の中の窮屈さをやわらげるために拡散したいと思っている。

 冒頭で述べた話に戻る。

 与党は、数え方にもよる(つまり、法案に賛成する党派をすべて「与党」と数えるのか、それとも、内閣のメンバーである「与党」と、閣外から法案に賛成している党派を別にカウントするのか、ということ)が、両院において、ともに3分の2を超える議席を確保している。

 でなくても、安全策として設けられているはずの衆議院と参議院という二つの枠組みの議会の両方で、政権与党が、いわゆる「強行採決」可能な過半数を大幅に超える議席数を確保している事実は、動かしようがない。

 つまり、彼らは議決に関して、自分たちの意思を通す権限を持っている。
 そして、それを許したのは私たち選挙民だ。
 こう考えると、グウの音も出ない。

 野党がことあるごとに繰り返している「議論が尽くされていない」という主張は、一応、もっともではある。

 「共謀罪」の法理について、法務大臣がまともな説明を提供できていないという各方面からの指摘も、まったくその通りで、私自身、今国会の審議ほどデタラメで不毛で失礼でバカバカしいやりとりは、見たことがない。特に金田法相の答弁は、私がこれまでに見た大臣の受け答えの中で文句なしに最低の部類に属する。 

 とはいえ、この先、何百時間議論を重ねたところで、採決の結果が変わないことははっきりしている。

 また、仮に、法務大臣が金田さんでなくて、代わりに猛烈にアタマの良い説明能力の権化みたいな大臣が、百万言を費やして「共謀罪」の意義と必要性を説いたのだとしても、だからといって野党側が
「なるほどおっしゃるとおりですね」
 と、法案賛成にまわることもあり得ない。

 ということはつまり、議論が尽くされていようが尽くされていまいが、大臣が無能だろうが有能だろうが、審議が白熱しようがシラけようが、法案についての説明責任は果たされていようがいまいが、法案の可否は、結局のところ、最終的に、与野党双方の議席の数を反映するカタチで決まることに変わりはないわけで、誰がどうわめいたところで、結果ははじめからわかりきっている。

 これは、ほどなくやってくる採決が乱暴かつ不当な経緯を踏んだものであるのだとしても、経緯の不当さを訴えることで、採決の結果をひっくり返すことは不可能だということでもある。

 野党側が、今国会に与党側が繰り広げている一連の無体なやりざまを訴える先は、まどろっこしいようではあるが、次の選挙のための下地づくりの部分に限られる。

 「あなたがた有権者は、こんなにひどい国会審議をしている与党議員に対して、これからも与党としての議席を与え続けるつもりなのですか」

 と問いかけるのが精一杯だということだ。

 結論を述べる。

 いま現在、「共謀罪」に反対する気持ちを抱いている人間にできることは、

「こんなにも杜撰な説明で法案を通そうとしている人たちに、単独での議決を強行するに足る議席を与えてしまった自分たちの投票行動をしみじみと反省すること」
 と、
「次の選挙では、間違っても前回と同じミスをおかさないように、現在起きていることをしっかりと記憶しておくこと」

 ぐらいだというのが、前半部分で伏線を張っておいた「あきらめた先の未来」だということになる。 

 まあ、たいした未来ではない。
 私は、半ばあきらめている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

あまりにお約束ですが、安西監督の名台詞を。
「最後まで…希望を捨てちゃいかん。あきらめたらそこで試合終了だよ」

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。