4月9日、シカゴのオヘア空港にいたケンタッキー州ルイビルへ向けて出発予定のユナイテッド航空3411便内で、トラブルが発生した。

 乗客に説明された話では、「オーバーブッキングにより、4人の乗客を降ろさないと出発できない」という。4人の乗務員をルイビルに運ぶ必要が発生したために、代わりに4人の乗客に降りてもらわないといけない。でないと、定員オーバーで離陸できない、ということらしい。

 スタッフは一定の条件(800ドル=約8万8000円、宿泊先、翌日の便のチケット)を提示した上で、降りる乗客を募った。しかし、降りてくれる乗客の数は4人に満たなかった。そこで、降りる乗客をコンピュータで選んだ上、対象の乗客を説得した。が、その1人は「翌日では間に合わない予定がある」と拒絶した。

 シカゴ航空局の係官が呼ばれ、その乗客(後にベトナム系米国人の医師であることが判明した)を強制的に座席から排除して飛行機から降ろした。動画で撮影されているのは、その時の係官による処置の一部だ。

 排除された乗客は、血を流し、ぐったりと横たわった状態で文字通りに引きずり出されている。
 ショッキングな映像だ(こちら)。

 動画は、私のツイッターのタイムラインにもすぐに到着した。
 見てみると、なるほどひどい。
 21世紀の文明国でこのようなあからさまな暴力が白昼堂々敢行されたことにただただ驚く。
 今回は、この動画を見て考えたことについて書く。

 動画を見ての印象は、とにかく
「あきれた」
 ということだ。そう申し上げるほかに言葉が見つからない。

 ……と言いたいところなのだが、原稿を書く人間は、そう言いながらも言葉を探しにかかってしまう。なんというのか、職業的なクセとして、別の角度からものを見ようとしてしまうわけだ。自分ながらいやらしい態度だと思っている。

 それでも、そういう見方が身に付いてしまっていることはいかんともしがたいわけで、つまり私は、動画の中で起こっている事態の評価とは別に、こんなふうに、こういう出来事の一部始終がその場で撮影されて、すぐさま世界中に拡散されている現実のありように注目しないとダメだぞ、と、原稿のネタみたいなことを考えながら動画を眺めていることに気づいて、ちょっとげんなりしている次第なのである。

 ともあれ、この動画のツイートに付加されていたコメントの中で、幾人かの人々が指摘していたように、こんなこと(つまり、オーバーブッキングの乗客を強制的に排除すること)は、世界中のあらゆる場所で毎日のように起こっている日常的な出来事なのであって、動画を見てびっくりしている私たちの方が、単に世間知らずだったというだけの話なのかもしれない。

 なるほど。
 この程度の暴力は、あるいは日常に属する範囲のものなのかもしれない。

 ただ、それはそれとして、
「野蛮な出来事が起こっていること」
 と、
「野蛮な出来事が撮影されてシェアされるようになったこと」
 は、切り分けて考えなければならない。

 後者が、前者を必要以上に強調していることが事実なのだとしても、だからといって前者が免罪されるわけではない。

 まぎらわしい書き方をしてしまった。もう一度言い直す。

 つまり、誰もがスマホを持つ時代になって、身の回りで起きている野蛮な出来事や暴力的な事件が、その場で撮影されて拡散されるのが当たり前になったことで、この世界の残酷さや野蛮さが、実態以上に強調されているのだとしても、だからといって、動画の中で起こっている野蛮さや残酷さが軽視されて良いことにはならないということだ。

 この種の(つまり「野蛮な」ということだが)動画がリツイートされてくるたびに思うことだが、私は、動画から受け取る印象そのものよりも、動画に対する率直な感情を表明している人たちと、その人たちの感情を冷笑する人々の間でやりとりされる不毛な口論に、毎度のことながらうんざりさせられる。

 動画の残酷さを嘆く人々も、動画の残酷さへの反応の大仰さを冷笑する人々も、大筋としては、自分の率直な印象を語っているだけなのだろうとは思う。

 ただ、SNSのような場所でやりとりされる「感想」は、個人の感想である事情とは別に、その人間の「対外アピール」として互いにぶつかり合うことになっている。

 と、暴力に辟易している人々と、暴力への反発を表明する人間の偽善に腹を立てている人々が、お互いを誹謗しあうみたいな展開になって、事件そのものは背景に退く結果になる。

 この口論は、動画の中で展開されている暴力以上に見物人をうんざりさせる。
 そういうふうにして、世の中は動いている。

 つまり、私たちは、公然とやりこめてもかまわない相手を発見するべく、今日もスマホの画面をスクロールさせているということだ。

 もしかしたら、われわれが、暴力が記録されている動画に群がるのは、暴力を恐れているからではなくて、むしろ、暴力がもたらす興奮に嗜癖しているからなのかもしれない。

 でなくても、暴力が扱われている動画を見た人間の何割かは、しばらくの間、暴力的な反応を示し続ける。
 SNSは、そういう世界にわれわれを誘引している。

 別の見方をすればだが、今回のケースのように、航空会社の暴挙が全世界に向けて可視化され、結果として当該の会社の株価の暴落を招いたことは、顧客サービスにたずさわる業界の人間たちに、ひとつの教訓を与えたはずだ。

 顧客は、常に秘密裏に自分たちの仕事ぶりを撮影している。
 とすれば、あらゆる機会において、最善のサービスを提供していないと、今回のケースのように、いつ、不適切な一部分を切り取って撮影されて、告発されることにもなりかねないぞ、と。

 実際、SNSならびにネット動画の普及は、サービス業に大きな脅威をもたらしている。
 今回の事件以外にも、特定の企業なり店舗が、顧客への対応のまずさをツイッターやフェイスブックに晒された結果、苦境に陥ったケースは少なくない。

 とすると、ネット炎上のおかげで、世界のサービスは向上し、われわれの社会は、より快適になるのだろうか。

 おそらく否だ。

 監視カメラが増えたことで、犯人が捕獲されやすくなったことはおそらく事実なのだろうし、監視カメラの威圧が犯罪予備軍の人間たちに犯行の自粛を促す効果も期待できるのだとは思う。

 が、映像やインターネットによる相互監視を強化することが、単純にこの社会で暮らす人間のモラルを向上させるのかというと、そう簡単には話は進まないと思う。

 あるタイプの人々は監視に対して疑心暗鬼を募らせるようになるだろうし、そうでない人々も、自分が監視されていることに少なからぬ圧力を感じはするはずで、その圧力の結果は、必ずしも良い方向にだけ作用するとは限らない。

 個人的にだが、私は、内圧の高い組織は暴力への傾斜を強めると思っている。

 これは、先日お会いした津田大介さんが言っていたことだが、昭和の時代の都立高校は、万事締め付けが緩かった。制服も無ければ校則もほとんど有名無実化しており、授業の出席すら問われない放牧場のような場所だった。おかげで、生徒の学力が低迷していた半面、いじめは見たことがない、と、津田さんは、ご自身が通った都立北園高校の例を引きながら、そんな話をしてくれた。

 私自身も、津田さんが通っていた時代の少し前の、似たような都立高校でぶらぶらしていた人間だが、たしかに、いじめは見たことがない。

 要するに、監視の緩さによって助長されるタイプの逸脱もあれば、厳しい監視がもたらす逸脱もあるということなのであろう。

 暴力でも規則でもノルマでも相互監視でも、高い圧力でコントロールされている組織の中の人間は、その圧力を内部に向けるようになる。ブラック企業であれ体育会の運動部であれカルト宗教の教団であれ、強い圧力によって統御された組織の内部では、いじめが起こりやすい。なんとなれば、いじめというのは、圧力が弱い屈曲点に集中するその結果だからだ。

 今回のオーバーブッキング自体、ユナイテッド航空の経営の苦しさの顕在化局面(つまり、常に“過度なオーバーブッキング”気味の予約処理をしていないと経営が成り立たない綱渡りの座席運営を余儀なくされているということ)と言えないこともない。高校の物理の時間に習った通りだ。圧力は、常に弱い部分に集中することになっている。

 とすれば、コンピュータによって選ばれた(←この情報が事実なのか、航空会社の対外アナウンスにすぎないのか、あるいはコンピュータによる選択の根拠が単なるランダム変数を噛ませた結果なのか、あるいは、座席の値段や乗客の属性を加味した上での処理結果なのか、私はいまのところ判断できずにいる)乗客が、アジア系の出自を持つ人間であったことは、偶然ではないのかもしれない。

 偶然でないのだとすると、それは何だろう。
 差別だろうか。

 個人的な話をすれば、私も、2000年にインドでオーバーブッキングに遭遇したことがある。
 その時の状況をお知らせする。

 成田への直行便を待つデリー国際空港で、搭乗便にオーバーブッキングが発生したというアナウンスがあった。

 客に向かって平然と「オーバーブッキング」という言葉を使う神経にも驚かされたのだが、その時、航空会社は、「チケットの○○番から××番までの乗客はシンガポール経由のトランジット便にチェンジされる」という旨を空港内放送と電光掲示板で通告してきた。お詫びも何も無く、である。

 私は、その搭乗便変更の該当者だったわけだが、チケット変更のために列に並んでいる20人ほどの人々を見ると、どうやらほとんどが日本人のツアー客だった。

 もともとの便の乗客に占める日本人乗客の比率は、3割ほどに過ぎない。
 にもかかわらず、トランジット便に乗せ換えられる客には、ほとんど全員日本人が選ばれている。
 これは、偶然だろうか。

 おそらく偶然ではない。
 では、差別だったのかというと、必ずしもそうとばかりは言い切れない。
 結果が物語っている。

 つまり、航空会社側からの一方的な搭乗変更通告に対して、抗議したのは、私の同行者(私と同年齢の、英語とイタリア語が達者な編集者兼劇評家だったI氏。既に故人)ただ1人で、ほかの20人ほどの日本人乗客は、いずれも軽く驚きつつも事態を受け容れていた。この「あっさりあきらめる」性質の温順さ(あるいは、単に空港のスタッフに抗議するに足る語学力を身につけていないということなのかもしれないのだが)が評価されて、われわれは、ダブルブッキング処理要員に選ばれていたに違いないということだ。ツアー客なら、まとめて大人数を動かせる。それで日本人となれば言うことなしだ。

 これは、差別といえば差別なのだろうが、日本人の温厚さが評価された結果というふうに見ることもできる。

 たぶん、文部科学省ならびにクールジャパン関係者は後者と見なすことだろう。
 世界に冠たるニッポンの驚くべき美しい民族性のわたくしたち。
 私は当事者なので、断定は避ける。
 文句を言わない人間は、世界中で歓迎されるのだろうとだけ言っておく。

 話をもとに戻す。
 「相互監視による、相互密告社会の到来は、その中で生きる人間の公共心を向上させるのか」という質問だった。
 答えはノーだ。
 相互監視社会の中の人間は、陰険になると思う。
 われわれは、現にそうなりつつある。

 つい昨日(つまり4月の12日)、ユナイテッド航空のケースに関連してなのか、Airbnbのホストが、2月に、アジア人であることを理由にアジア系米国人女性の宿泊を拒否した事例をNBCで報じている(こちら)。

 ネット上には、こういう事件の発生を、トランプ政権の人種や民族への態度を反映したものだとする意見が散見される。

 実際、トランプ大統領が当選した後、アジア系やアラブ系に対するヘイト犯罪が急増したことが報告されている(こちら)。

 政権のトップが他民族への態度を硬化させたからといって、ただちに差別的な犯罪が増えたり、ヘイトグループ(人種や宗教に基づく差別・憎悪を扇動する集団)の活動が活発化するものなのかどうか、たしかなところはわからない。が、政権の態度と世論が、相互依存的な関係にあることは事実だと思う。

 差別的な言論を容認する政府が実権を握っていれば、世論は差別を助長する方向に動き勝ちになる。
 また、世論が全体として差別を強化する方向で推移しているのであれば、政権の側もそうした世論におもねった態度を取るようになる。

 今週号の週刊現代は、巻頭で
「儒教に支配された中国人・韓国人の悲劇」
 というケント・ギルバート氏の寄稿を掲載している(こちら)。

 リンク先の目次でも確認できるが、新聞に掲載されている目次では、
《国より家族、公より私――――「歪んだ儒教思想」が世界でヒンシュクを買っている》
《アメリカ人だから断言できる「日本人と彼らはまったくの別物、全然違う」》
 という内容紹介が印刷されている。

 ほかにも
《ぶっちゃけ座談会 下品で幼稚、自分だけが良ければいい人たち 中国人は中国人が一番嫌い》
 という座談会記事の見出しも掲載されている。

 記事の本文はまだ読んでいないので、内容についてはどうこう言えないのだが、仮にも日本を代表する総合週刊誌がこういう見出しを掲げた広告を打っていることに驚いている。

 世論の動向と政府の態度には強い相関がある。
 どちらがどちらを主導し、いずれの側が相手の側を支配しているのかを、単純に断定することはできない。

 おそらく、両者は相互に影響を与えつつ、互いを引っ張っているのだと思う。
 アメリカの例でも同じことだが、一旦こんなふうに動き始めてしまっている世論の動向を、いったいどうやって引き戻したものなのか、正直なところ、見当がつかない。

 搭乗便の変更を一方的に通告されて、おとなしく従ってしまったあの時のことを思い出している。

 私は、トランジット先のシンガポールのチャンギ空港で、乗継便を待つ4時間の間、不必要な土産物とバカな文房具を山ほど買った。ほかの乗客もほぼ同じだ。クレジットカードと待ち時間を持たされた日本人は、際限なくモノを買う人間になる。あるいは航空会社の狙いはそこのところにあったのかもしれない。

 引きずり下ろされるのとどっちがマシなのかは、分からない。
 だが、もう一度ああいうことにならないように、できれば、抗議するに足るボキャブラリーを備えた人間になりたいものだと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

国内線ですが、何度応募しても振り替え便(とお小遣い)に当たりません。
でも、いつかは、と思っています。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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