『辞任の前川・前文科次官、出会い系バーに出入り』
 という記事(こちら)が読売新聞に掲載されたのは、月曜日(5月22日)のことだった。

 一読して驚嘆した。
 とてもではないが、全国紙が配信する記事とは思えなかったからだ。

 記者は、前川前次官が

《……在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。》

 ことを伝えたうえで

《教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ。》

 と書いている。
 正直なところを申し上げるに、失笑せずにはおれなかった。
「批判が上がりそうだ」
 という文末表現の真骨頂を、久しぶりに見た気がしたからだ。

 解説する。

「批判が上がりそうだ」
 というこの書き方は、新聞が時々やらかす煽動表現のひとつで、「批判を浴びそうだ」「議論を招きそうだ」「紛糾しそうだ」という、一見「観測」に見える書き方で、その実批判を呼びかけている、なかなかに卑怯なレトリックだ。

 書き手は、「批判を浴びそうだ」という言い方を通じて、新聞社の文責において批判するのではなく、記者の執筆責任において断罪するのでもなく、あくまでも記事の背後に漠然と想定されている「世間」の声を代表する形で対象を攻撃している。しかも、外形上は、「世間」の空気を描写しているように見せかけつつ、実際には「世間」の反発を促す結果を狙っている。

 真意は
「な、こいつヤバいだろ? みんなでどんどん批判して炎上させようぜ」
 といったあたりになる。
 実に凶悪な修辞法だ。

 新聞記者は、ほかにもたとえば
「状況は混迷している」→(「オレにはわからん」の言い替え)
「なりゆきが注目される」→(「正直アタシには先が読めません」の言い替え)
 みたいな語尾で記事を書くことがある。

 これらの場合「状況」や「なりゆき」を主語に持ってくることで、書き手の自信の無さを隠蔽し、執筆の責任を回避している。

 新聞は「世論」の陰に隠れて、書き手の一人称(つまり、「私」なり「記者」なり)を隠蔽することを好む。
 あるいは「注目される」というふうに、文末を受動態(←誰が注目してるんだ?)で受けることで、書き手が生身の人間でなく、「社会の木鐸」ないしは公共的で客観的で超越的な人格であるかのような偽装を施しにかかっている……というのは、まあ、いくらなんでもひどい言い方かもしれないので撤回する。

 ここではとりあえず、5月22日の記事の中で使われている
「批判が上がりそうだ」
 という語尾が、卑怯なものの言い方である旨を断言しておくにとどめる。

 記者は、前川前次官が、出会い系バーに通っていたことについて
「関係者への取材でわかった」
 という以上の証拠を明示していない。

 「出会い系バー」についても「売春や援助交際の交渉の場になっている」と説明していながら、前川前次官本人が、実際に「売春」や「援助交際」をしていたかどうかは明らかにしていない。相手となった女性の証言も取っていないし写真も掲載していない。

 つまり、この記事は、「関係者」とされる人間の「証言」(っていうか「噂」)のみを元に構成されていることになる。
 こんなヨタ記事を、仮にも世界一の発行部数を誇る読売新聞が執筆して配信したことを、われわれはどう受け止めれば良いのだろうか。

 仮に、前川前次官が、その「出会い系バー」とやらに出入りしていたことが事実なのだとして、では、勤務時間外に一私人が、歌舞伎町のその種の店に出入りすることは、果たして犯罪なのだろうか。

 とんでもない。
 どこからどう見ても犯罪ではない。

 合法的に営業されている店舗に、正規の料金を支払って入店している限りにおいて、なんら恥じるべきところはないはずだ。

 私は、その「出会い系バー」という施設がどんな種類の店舗であるのか、詳しい知識を持つ者ではないが、その場所に通うことが、社会人として立派な行動であるのかどうかはともかくとして、少なくともただちに犯罪となるわけではないことぐらいは承知している。

 とすると、読売新聞の長年の読者の一人として、私は、一私人の勤務時間外の風俗店通い(しかも半年も前の)を、いきなり暴きにかかった彼らの真意に疑念を抱かざるを得ない。

 要するに、読売新聞は、前川前次官の人格を貶めたかったのではなかろうか。
 では、どうして彼らは、前川前次官の世評を泥まみれにすることを狙ったのであろうか。

 本日発売の週刊文春と週刊新潮の両誌の見出しをお知らせする。

 週刊文春は、
《「『総理のご意向』文書は本物です」 文科省前事務次官前川喜平 独占告白150分》
 という記事を掲載している。

 内容は、見出しにある通り、加計学園の獣医学部新設問題に関連して、5月中旬に朝日新聞が報じた文部科学省の内部文書に関するもので、記事の中で、前川前次官は、文書が作成された経緯や、内閣府と文科省とのやりとりを詳細に語っている。

 週刊新潮の方は、
《加計学園疑惑の場外乱闘! 安倍官邸が暴露した「文書リーク官僚」の風俗通い》
 として、予定されていた前川前次官のインタビュー(NHKインタビュー放送および朝日新聞の記事)が、官邸筋によってリークされた「風俗通い」情報によってお蔵入りになった経緯を紹介している。

 これらの本日発売の両週刊誌による暴露記事と、冒頭で紹介した読売新聞によるスキャンダル記事をあわせて読み比べてみると、色々と不穏な想像が広がる。
 文科省と官邸の抗争勃発。週刊誌と大新聞の代理戦争。
 大変にいやな気分だ。

 読売新聞の報道によって、前川前次官の犯罪が暴かれたわけではないが、それでも、彼の評判が落ちることは確かだ。

 ただし、前川次官の人間性に仮に疑問符が付くことになるのだとしても、そのことが「『総理のご意向』文書」の信用性を疑わせることにはならない。

 むしろ、政権にとって不都合な証言をした官僚に「制裁」じみた報道圧力が加えられたことで、文書の信憑性は高まったとさえ言える。
 では、文書の信用性を落とすことなど、どだいできるはずがないのに、どうして彼らは、前川前次官にあのような仕打ちをしたのだろうか。

 誰にでも思いつくのは、「政権に弓引いた者の末路」を見せつけることで、「これ以上のリーク」を牽制したということだ。
 ということは、加計学園グループの周辺には、このほかにもまだリークするべきネタが転がっているということなのだろうか。
 まあ、これ以上はただの憶測になるので、何も言わないことにする。
 現時点ではっきりしているのは、前川氏が、プライバシーを侵害されたことだ。

 皮肉なのは、今回の読売新聞の報道が、これまで同紙が懸命に否定してきた「共謀罪」(あるいは「テロ等準備罪」)の脅威を裏書きする結果を招いている点だ。

 もちろん今回の事件そのものは、「共謀罪」とは無縁だ。
 前次官も、加計学園グループも、共謀罪と直接の関連のある人物や組織ではない。

 それでも私が、今回の一連の経緯を眺めながら、「共謀罪」がもたらすであろう未来に思いを馳せずにおれなかったのは、前川前次官をめぐる騒動を通じて、国家権力が「政権にとって不都合な情報をリークする人間」をどんなふうに遇するのか、そのモデルケースが可視化されたからだ。

 無論、「官邸が読売新聞にリークして書かせた」というのは臆測に過ぎない。
 一方で、さしたる根拠もないまま、個人の人格を攻撃する記事を大手の新聞が載せることの違和感ははっきりしている。官邸にとって大打撃になるインタビューに登場した個人を、だ。

 なので、われわれは、「権力は、どんなことでもやってのける」ということのシミュレーションを、これ以上ない形で体験した、くらいのことは言っても良いだろう。

 このことは、共謀罪が施行されたあかつきには、同じように「政権なり捜査機関にとって邪魔だったり不都合だったりする対象に対して」彼らが、「逮捕」「拘束」「検挙」といった、より強圧的な態度で報いるであろうことを物語っている。

 ついでに言えば、逮捕理由は、「秘密保護法」によって、開示されないかもしれない。
 実にぞっとする近未来ではないか。

 近い将来「共謀罪」が成立して、めでたく施行されたのだとして、その日からこの国の空気がガラリと変わるのかというと、おそらく、そんなことはない。

 別の言い方をすれば、私たちの社会に、自由と多様性が確保されている限り、「共謀罪」が市民生活を脅かすことは無いということでもある。

 ただ、「平和」は、周辺国や国境で偶発的な紛争が勃発すれば、わりと簡単に失われる。
 「多様性」も同様だ。
 ちょっとした、世論の動向で、うちの国の国民は、いとも簡単に「挙国一致」の人々になる。

 ただちに戦争が起こらなくても、「戦時」の空気がわれわれの社会に蔓延することは十分に考えられる。
 たとえば、隣国の発射するミサイルが、公海上にでなく、わが国の領海内に到達したり、あるいは何かの拍子で陸地に着弾することになったら、わが国の「空気」は、その日を境に、まったく違ったものになるはずだ。

 あるタイプの人々は、「売国奴」を警戒し、「外国人」を敵視し、「反日分子」をあぶり出すことに血道をあげるようになるだろうし、警察には不逞分子の暗躍を通報する愛国者の声が殺到するかもしれない。
 そういう時に、「共謀罪」は、力を発揮することになる。
 でなくても、捜査機関は、共謀罪の適用範囲を少しずつ広げていくはずだ。

 私は、警察官の邪悪さを強調したくてこんな話をしているのではない。
 私は、一人ひとりの警官が善良であっても、法を執行する立場の人々が仕事をするにあたって「前例」を重んじる限りにおいて、「前例」は、徐々に拡大するという、そこのところを心配しているだけだ。

 「前例」を重んじるということは、具体的には、警察官が共謀罪を「これまでに適用された事例のうちの許されている範囲の限度いっぱいまで」適用しにかかるということだ。

 これは、「エスカレートする」ということでもある。

 たとえばの話、米軍基地なり原子力発電所の建物なりを望遠カメラで撮影している人間が検挙されて、その彼が海外のテロ事件の共犯者であることが判明するようなことがあったら、次回からは事情に関係なく、国家の施設を撮影する人間は、問答無用で拘束されるようになるかもしれない。

 実際、十徳ナイフやマイナスドライバーに関しては似たことが起こっている。

 乗っているクルマのコンソールボックスにアーミーナイフ(←名前から連想するのはあの「ランボー」が振り回していた物騒なアレを思い出すかもしれませんが。実際には、栓抜きやらハサミがついている十徳ナイフみたいなスイス製の便利グッズです)を置いていたことで検挙のうえ書類送検されたミュージシャンの事例について、2007年にブログ記事の中で書いたことがある(こちら)。2009年の当欄コラムでも、ちょっと触れている((こちら))。
 興味のある方は、リンク先を読んでみてほしい。

 ここから推測されるのは、警察が、検挙実績を積み重ねるうちに、法の適用範囲を徐々に拡大し、さらには機械的に市民を検挙するようになるであろう、ということだ。 

 4月のはじめに、3年ほど使っていたカメラが壊れた。
 で、ここしばらく代替機を物色すべくネット内を渉猟していた。
 カメラが壊れたことそのものは残念なことだが、新しいカメラを選ぶのは楽しい。
「今度はもう少し望遠倍率の高いカメラにしようか」
「それとも、いっそミラーレス一眼を手に入れてみようか」
「いやいや、やはりポケットに入る大きさでないと……」
 などと、あれこれ考えるのは悪くない。
 が、結局、いまだにカメラを買っていない。

 当面スマホで間に合うということもあるが、一番の理由は、路上での写真撮影に、私が気後れを感じはじめているからだ。

 私がカメラを構えるのは、主に散歩中だ。
 自転車で出かけた折に、面白い建物や、奇妙な看板を狙って写真を撮ることが多い。最近では、草花の写真を撮ることも増えた。

 そういう場合、自転車のサドルにまたがった状態で、路上でシャッターを切っていたりする。
 これは、たとえば、捜査機関の人間にとってはどう見えるだろうか。怪しい人間に見えないだろうか。

 「盗撮」の疑いで逮捕されたおっさんのニュースを伝える新聞記事を見る度に、私はいやな気持になる。

 私が撮影しているのは、女性のスカートの内部ではない。
 幼女の水遊びを望遠で狙うようなこともしない。
 私がシャッターを押す対象は、もっぱら古いホーロー看板や、庭先に咲くモッコウバラや、私立学校のエントランスにほどこされた魅力的な意匠や、いずれにしろそうした非人格的な対象だ。

 とはいえ、ボンカレーのホーロー看板の横に洗濯物が干されているかもしれないし、その洗濯物の中には、女性の下着が混入しているかもしれない。学校の校門からエントランスを写した写真には、下校中の小学生が写りこんでいるかもしれない。

 そういうブツが写ったカメラを持って路上を歩いている時に不審尋問を受けたら、私は、無事で済むのだろうか。そんなことをあれこれ考えていると、おっさんが路上でカメラを持ち出すことのリスクについて、あんまり楽観的な予断は抱けなくなる。 

 大げさだと思うかもしれないが、私は、不快な展開に至る可能性をどうしても排除することができない。
 で、どうせたいした趣味でもないことだし、路上写真の撮影はあきらめようと考えている次第だ。

 私が写真撮影という趣味から撤退したことそのものは、臆病な前期高齢者があれこれ考え過ぎたあげくに、萎縮した姿に過ぎないといえばその通りだ。

 が、「共謀罪」がもたらすであろう最大の被害は、実に、その種のなんでもない萎縮それ自体なのである。

 特高警察に引っ張られて死に至る拷問を受けるといったようなヤバい事態が起こるのかどうかはともかく、おっさんが気軽にシャッターを切れなくなる近未来は間違いなくやってくるのであって、それは、どうでも良いことのようでいて、われわれの市民生活を、かなり根本の部分で傷つけるできごとであるはずなのだ。

 昔は良かった、と、単純に昭和の時代を賛美するつもりは無いのだが、ひとつだけ言えるのは、私たちの暮らしているこの21世紀の社会が、貧しくも不潔で乱暴だったあの昭和の時代とくらべて、ずいぶんと窮屈な世界になってきているということだ。

 私が子供だった頃は、たとえば近所の広場で野球をやっていると、
「オレにも打たせろ」
 というおっさんが必ず現れたものだった。

 そうでなくても、ピッチングを教えようとするオヤジや、バットの持ち方に文句をつけてくる爺さんがあとからあとから現れた。

 21世紀のおっさんは、そういうことはできないことになっている。

 おっさんが子供に声をかけると「声かけ事案」ということで、携帯電話ベースの防犯ネットワークでシェアされかねないからだ。
 だから、私は近所を歩く子供たちに話しかけることはしない。

 この先、「共謀罪」が施行されたら、どんな理由でいきなり検挙されるのか、見当もつかない、と、私は半ば本気でそう思っている。

 われわれが暮らしているのは、平日の夜に歌舞伎町の風俗店に行ったというだけのことで、法に触れることはひとつもしていないにもかかわらず、全国紙の紙面で
「批判が上がりそうだ」
 てな調子で血祭りにあげられてしまう、そういう国なのだ。

 権力は、どんなことだってやってのける。
 ということはつまり、われわれは、どんなふうにでも踏みつけにされ得るということだ。

 私は、政権が目をつけるような大物ではない。
 私の書き散らすコラムが官邸に脅威を感じさせているとも思っていない。
 安倍首相をはじめとして、政権のメンバーは、誰であれ、オダジマの書く原稿に、ひとっかけらの痛痒すら感じていないはずだ。

 それでも私は、近所の子供にうっかり声をかけようとは思わないし、路上に一眼レフを持ち出そうとも思わない。

 彼らは、その気になったら、どんなことでもやってのける。
 実際にやってのけるのかどうかは、この際たいした問題ではない。
 権力はどんなことでもやってのけると、私にそう思わせた時点で、彼らの勝ちなのだ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

「誰もスピード違反を(怖くて)しない社会」は
ある種の人々には理想郷なのかもしれません。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

 小田嶋さんとは関係ないお話で恐縮ですが、以下、『末路本』のご紹介を担当者Hからさせていただきます。どうぞ。

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 書籍『宝くじで1億円当たった人の末路』では、「宝くじで1億円当たった人」「事故物件借りちゃった人」「キラキラネームの人」「自分を探し続けた人(バックパッカー)」といったやらかした人々の末路や、「友達ゼロの人」「子供を作らなかった人」「電車で『中ほど』まで進まない人」「8時間以上寝る人」「体が硬い人」といった気になる人々の末路まで、23編の多様な「末路」を1冊にまとめました。

 書籍『宝くじで1億円当たった人の末路』について詳しく知りたいなら、「秘密の特設サイト」へアクセスしてください。是非書店でお手に取ってご覧ください。(H)

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 …「出会い系」の末路は載っていないようですが、中身は今回の小田嶋さんのコラムと大いに通じていると思います。ぜひご一見を。(Y)

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