「数年前には考えられないような価格で手に入るようになったからだよ」

 米マサチューセッツ州ボストン。「世界最高レベルの病院」とも言われるマサチューセッツ総合病院で、最先端のAI(人工知能)医療が進んでいる。大量の画像をAIに学習させて、肺がんの早期発見や子供の骨年齢の分析をAIが担当する実験が、既に実証段階に入っている(詳細は特集第6回を参照)。

 なぜAIを使う医療が急激に進みつつあるのか。同病院のAIプロジェクトのディレクターを務めるマーク・ミカルスキ氏が率直に語ったのが、冒頭のコメントだ。

マサチューセッツ総合病院でAI医療の実証実験が進む
マサチューセッツ総合病院でAI医療の実証実験が進む

 同病院の一角にある臨床データサイエンスセンターには、2部屋ものサーバールームがある。中央にあるのは小型のスーパーコンピューター。1台1000万円程度で購入した。「数年前なら10倍以上の価格だった。1000万円で購入できるなら、病院だってAIを活用するチャンスが出てくる。企業もそうかもしれない。もう、外部のスーパーコンピューターに頼る必要はない。もうすぐ追加で数台、買う予定だ」。ミカルスキ氏はこう強調する。

 「ただ、課題はデータが不足していることだ」

 世界で最もAI医療が進んでいると言われるマサチューセッツ総合病院でさえ、実証段階に入っているのは肺がんと骨粗鬆症の2種類のプロジェクトのみ。AIの利用を検討している病気は20種類を超えるが、いずれも体内のスキャン画像などのデータの蓄積が足りず、現状ではAIを医療に使うのは難しいという。

AI「ブーム」で終わったワケ

 AIにはこれまで2度のブームがあった。

 1回目は1950年代後半~60年代。1956年に開かれた研究発表会である「ダートマス会議」で、初めて「人工知能(Artificial Intelligence)」という言葉が使われた。

 当時のAIの手法は、「推論と探索」という言葉で説明される。大まかに言えば、ゴールが決まっている複雑な迷路をより早く解けるような手法だ。パズルやチェスなどで効果を発揮したが、「ゴールがない」課題には対応が難しく、現実世界で爆発的にAIが広がることはなかった。

 2回目は1980年代。「エキスパートシステム」と呼ばれる手法が注目を集めた。文字通り、専門家(エキスパート)の知識をAIに学ばせ、AならばB、BならばCという論理をたたき込む。感染症の診断で経験の浅い医師よりも診断精度が高くなったとの結果が出たこともあり、2次ブームは企業を巻き込んで一気に加速した。

 日本でも、通商産業省が1982年に「第五世代コンピュータープロジェクト」を開始。500億円以上をつぎ込んで次世代コンピューターの開発を進めた。第一世代は真空管、第二世代はトランジスタ、第三世代はIC(集積回路)、第四世代はLSI(大規模集積回路)で、第五世代がAIを指す。

 しかし、この手法も限界が露呈する。AIが正しい判断をするためには、専門家の知識全てをAIに移植する必要があったことだ。知識を教え込もうとすると、その知識そのものに矛盾があったり、「正しさ」をどう担保するかが問題になったりした。その全てをAIに教えることが難しいことが徐々に明らかになり、結局2回目のブームも終焉を迎えることになった。

 1次、2次のブームに共通していたのは、AIが決められたルールの限られた枠組み(フレーム)の中でしか機能しなかったこと。これを「フレーム問題」と呼ぶ。

 そして今回の3次ブーム。多くの専門家が「ブームでは終わらない」と自信を持つのは、このフレーム問題を解決する糸口をつかんだからだ。

 それが、「ディープラーニング」だった。深層学習と訳され、近年急速に利用が進んでいる手法だ。

 2次ブームまでと全く違うのは、答えを導くプログラムを人間が書かないこと。ただし、答えの糸口がなければAIがゴールにたどり着くことはない。そこで、「A」という情報が入った時の答えは「X」、「B」という情報では「Y」というデータを大量に与える。すると、AIが勝手に学習して「モデル」を作り上げていく。これを、機械が自ら学習するので「機械学習」と呼ぶ。

 ディープラーニングは、この機械学習の一つ。「ディープ=深層」と呼ばれるのは、入力した情報から答えを見つけるまでに、何層もの段階を踏むからだ。

 例えば、ネコの画像を与えた時に、1層目で画像中の物体の外形線を認識し、2層目で耳や鼻といったモノを、3層目で顔全体を…といった具合に、層が深くなるごとに「正解」にたどり着いていく。人間の神経回路を模して層同士を有機的に結びつけているため、この技術を「ニューラル・ネットワーク」と呼ぶ。何層ものニューラル・ネットワークを持つのが、ディープラーニングの特徴だ。

 ただし、この仕組みを実用化する際に、2つの問題があった。それが、マサチューセッツ総合病院でも課題となった「高性能なコンピューター」と、学習させるための「大量のデータ」だ。ディープラーニングでは階層が増えれば増えるほど精度は高まる。一方で、演算回数が飛躍的に増えるため、それだけコンピューターの計算能力が必要になる。この2つの課題が解決されたからこそ、「3次ブームは本物だ」とする専門家が多いのだ。

5年後、10年後の“兆し”が見えた

 それは、1本のメールから始まった。

 「大学の最先端の研究では、ディープラーニング用のコンピューターにGPU(画像処理半導体)が使われ始めている」

 差出人はキンバリー・パウエル氏。2010年、米半導体大手エヌビディアで各大学とのパートナーシップ構築を担当していたパウエル氏は、同社のジェンスン・フアンCEOに1本のレポートを送付した。「ある兆しのようなものが見えた。大学とのパートナーシップが重要なのは、5年後、10年後に何が台頭するかが見えてくるからだ」(パウエル氏)

 エヌビディアでは、一社員がCEOに直接メールを送ることは珍しいことではない。1万人の社員の意見を直接CEOに届け、原則としてその全てにフアンCEOは目を通す。このメールが、フアンCEOの目に止まった。パウエル氏が「兆し」と表現した変化に、フアンCEOも注目したのだ。ちょうどその頃、AIの研究論文を執筆するための実験にもGPUが採用され始めた。

 2012年、米グーグルは「ネコを認識するAIを開発した」と発表。1000万枚もの画像を学習させたことで、AIは初めてネコという概念を獲得したのだ。ただし、この時グーグルは、CPU(中央演算装置)をベースにしたサーバーを1000台使っていた。

 ところが2013年6月、米スタンフォード大学人工知能研究所がエヌビディアと共同で、GPUを使った3台のサーバーで、グーグルの6.5倍の規模を持つAIのネットワークを構築。それが一気に注目を集めた。その後、グーグルもGPUを採用するようになる。

汎用化されたGPUの強さ

 エヌビディアはこうした大学とのプロジェクトなどで、改めて同社の主力製品であるGPUの相性の良さを確認。フアンCEOのインタビューの通り、エヌビディアが全社の経営資源を一気にAIビジネスに振り向けた。

 米国のグーグルやフェイスブック、マイクロソフト、アマゾン・ドット・コムなどのIT大手は、2013年以降、一気にAIビジネスを加速させた。彼らはGPUを用いたディープラーニングと相性の良いコンピューターを入手し、かつそれぞれが持つビッグデータによってAIを実用化していった。

 ただし、GPUが各社に浸透していった理由はハードウエアとしての性能の高さだけではない。

 一つは、エヌビディアがGPUの計算処理能力を最大化する開発環境を丸ごと用意したこと。「CUDA(クーダ)」と呼ばれるプラットフォームを2006年に開発。開発者がすぐにGPUを使ったアプリケーションを開発できるようにした。

 このCUDAによって、GPUはグラフィック分野だけでなく、汎用計算でもさかんに使用されるようになった。ハードウエアからソフトウエアまでを手がけるのが、エヌビディア最大の強みと言える。AIビジネスに本格的に取り組むずっと前から、同社のGPUは汎用化されていた。その利用環境の広さが、AI用としても採用が拡大する原動力になったのだ。

 もう一つは、エヌビディアの営業戦略の巧みさだ。国際営業担当のジェイ・プーリ取締役はその戦略を「エコシステムの構築」と呼ぶ。市場を自ら作り出すという考え方だ。

 「我々には『灯台型』と呼んでいる顧客がいます」。プーリ氏はゆっくりとこう語り始めた。

AI半導体のスタンダードは…

エヌビディアのジェイ・プーリ取締役(写真:林 幸一郎)
エヌビディアのジェイ・プーリ取締役(写真:林 幸一郎)

 「それは、先進的なパートナーです。彼らがまず我々の製品に興味を示してくれる。ただ、製品や技術を売るだけでは不足している。問題解決の手法まで含めて提案する。パートナーがそれを形にしてくれる。それが、2件、3件と増えてくると、(灯台に照らされるように)市場が立ち上がっていくのです」

 「現在で言えば、それが自動運転車や知能ロボットの分野かもしれない。問題解決には、従来のコンピューターではなく、AIが必要なんだ、AIで初めて問題が解決できるんだ、ということを示していきます。その認識が日本を含め、世界中で進んできました」

 「我々は高性能なスーパーコンピューターの分野でエコシステムを構築していて、トップレベルの研究者たちが、すでに我々の提供しているプラットフォームに親しみを持っていたし、協力してくれていた。そのエコシステムにAIを“倍掛け”した。重ねて投資したということです」

 プーリ氏の言う灯台型の企業とは、IT企業で言えばグーグルやフェイスブック、自動車で言えばエヌビディアと自動運転の開発で早くから提携した独アウディなどを指すのだろう。彼らの成功が、市場そのものを作っていくという考え方だ。

 3次ブームを「本物」にしつつあるGPUと、それを取り巻く開発環境。「AI半導体のデファクトスタンダード(事実上の標準)になりつつある」と語られるのは、こうした営業戦略が寄与している面もある。

 ただし、AIのカギが高性能なコンピューターにあると考えているのは他社も同じだ。半導体の絶対王者である米インテル、スマホ半導体世界シェアトップの米クアルコム、自前の半導体開発に乗り出したグーグル……。連載第5回は、エヌビディアの牙城を崩そうとする勢力の実力に迫る。

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